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小田原の海を知りたい! その2
江之浦漁師 Aさんに伺いました。(昭和28年江の浦生まれ) 第二回目は江の浦の農林漁業をめぐるお話です。 漁業とみかん、根府川石・小松石などが主産業の江の浦ですが、
かつてはブリ漁のとても盛んな時期がありました。
Aさんのお祖父さんは岩江定置網の漁師さん。
ブリが下火でミカンが良くなった時代のAさんのお父さんは、ミカン農家。
Aさんはミカン農家を継ぎましたが、35歳から漁師兼業となりました。
江の浦は海からすぐ山が立ち上がり、昔は入会地の萱原が広がっていました。 ススキはミカンのたい肥として毎年刈られ、利用されていましたが、ミカンが下火になり、杉ヒノキの人工林に変わりました。
江の浦では海山をこなす人が多く、Aさんも山持ちで、江の浦生産森林組合の組合員として山仕事もされています。
漁師さんになったのは、若い頃から釣りが好きだったから。 漁の方もたくさんのレパートリーを持ち、これ程多彩な漁をされる方は珍しいかもしれません。
今の季節(12〜4月)は刺網漁で、ヒラメやアンコウが獲れるとか。
4月〜5月は潜りと刺網のイセエビ漁。
6月〜7月はカワハギ中心の小物網(刺し網)、8月〜10月は、またイセエビ。
その他にハバ海苔、イサキ漁。
11月〜12月はみかんが忙しく、早生、青島、ポンカン、ハルカ、デコポン、キヨミ、ゴールデンオレンジの順に、春まで回して漁の合間に収獲作業をされるそうです。
話は変わりますが、Aさんが経営している江の浦海業センターのある場所は、以前はテングサの倉庫だったとか。 今テングサは磯焼けにより全国的に減少しています。
江の浦の場合、磯焼けは大丈夫のようで、テングサは付いていますが、手間がかかるので今はほとんど採る人がいないとの事でした。
全国的な藻場の減少、海の汚れ、心配ですね。
今、小田原の沿岸には、浜先に砂止めの人工リーフが入っているそうです。 海面下なので一般の人は知りませんが、早川〜山王にはHブロックが40〜50m巾で敷き詰められ、干潮の時は水深1mの所に見えているとか。
波が軽減され、砂の浸食が少なくなり、イセエビやサザエが付いて、そこで漁をする漁師さんもいます。
また小田原漁協も間伐材の漁礁を投入したり、沿岸道路の夜間工事のライトの向きを山側にしてもらったりと、魚が来るための様々な工夫がされているとの事でした。
次号に続く。
(1月24日聞き取り)
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聞き書き
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今日はブリ森通信の取材で、仲間と江の浦漁港に行って来ました。
Aさんは刺し網漁から帰ってきたところ。
私たちも船にお邪魔しお話を伺いました。
大きなアンコウとヒラメ。
藻がついています。
アンコウはキロ1000円位で、3キロ物だそうです。
Aさんは刺し網、潜り、一本釣り、ハバ海苔、などいろいろな漁をしますが、
一番得意なのはイサキ釣りだそうです。
しばらくして仲間の一人が船酔いし丘にあがってしまいました。
あの、係留してある船なんですけど・・・。
私はしぶとくお話を伺い、魚探も見せて頂きました。
更に海業センターで長々とお話を伺いました。
それはまた後日。
面白かった〜!
温かいミカンの里も雪景色。
このあと欲張って森林組合のTさん宅にもお邪魔し、昔の江の浦の山のお話を伺いました。
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Hさんからから借りた「軍事物資から見た戦国合戦」を読了した。
北条氏の森との関わりが非常に多く取り上げられている一冊だ。
もう、ずっと小田原の山の過去を考えてきたが、
初めて戦国時代の小田原の山を想像した。
戦争は自然を最も荒廃させる。
第二次世界大戦と戦国時代がそうであった。
小田原北条はしかも負け戦。
小田原の山はさぞかし敵軍に収奪され、無残な禿山となったことだろう。(木が無いという意味で。)
しかし昔の人は、木が無くなることは生活に直接関わる事だという事をよく知っていた。
よって上代から、木を大切に守る「山守」という警備員も存在したし、植林も行われていた。
北条氏も実際植林を行っていたらしい。
(「山守」は江戸時代の小田原城絵図にもその存在が表示されている。)
丹沢・天城・土肥は、北条氏にとって大切な木材供給林だった。
土肥とは白銀山南面から熱海のあたりである。
白銀山南面の新埼川上流では、枯れてしまったが有名な土肥の大杉があり、
かつては杉の巨木林があったことを示唆している。
丹沢では東丹沢や煤ヶ谷方面から材を伐りだし、相模川を下り、製材が盛んに行われていた。
こちらは弁天杉が代表する、モミ、ツガなどの針広混交林が豊富で、
札掛け考証林では今もその名残をとどめている。
戦では土塁に柵を巡らしたり、櫓や、煮炊きや、夜間照明などで、木竹が非常に浪費される。
これは想像だが、一夜城の後ろ備え、関白道の途中にある御所山砦は、
そんな物資供給を担った砦だったのではなかろうか。
この付近は、今よりずっと広いモミ林があった可能性がある。
いつの世も、合戦は森を収奪する。
しかし降雨量の豊かな日本では、草原もすぐ森に遷移する。
繰り返し収奪された森は、植生が変わったり、笹地になってしまう場合もあると想像するが、
歴史は伐採と再生を繰り返しているのではなかろうか?
これは箱根や丹沢の森に入り、昔の森の痕跡を探しながら考えていきたいと思っている。
借りた本につけられた付箋は、Hさんが付けてくれたものだ。
おお!と思う事が付箋の数ほどたくさん書かれていた。
私が待ち望んでいた本だった。
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丹沢を駆け抜けた戦争 企画編集 生命の環・結びの衆 (夢工房) 600円
最近昔の山の様子がとても気になっている。
O教授の近世剥げ山説によって、ひとからげに小田原の山も禿山だったと言う事は、
誤解のもとである。。
現在ブナ林だった所は過去に伐採されたとしても、それが再生したものだと思っている。
禿山に突然ブナ林が出現するはずがない。
小田原は確かに広大な入会地があった。
しかし里には薪炭林もあったし、小田原藩のお留山も広がっていた。
この疑問をT先生にぶつけると、乙女峠はお留山から来ていると教えてくれた。
小田原は禿山とは言えない。
岡山あたりの土壌だとまさに禿山だろうが、この辺はそんなことはない。
白銀山は伐採後に再生したブナ林だろう、とおっしゃっていた。
そんなこんなで読んだ本がこれである。
もっと早く知りたかった。
丹沢のブナ林や、札掛け考証林や、東丹沢の原生林の事が載っていた。
丹沢は幕府のお林として江戸時代比較的保護されていた。
丹沢の奥地には、モミやスギやブナの巨木が林立する原生林があったのだ。
それが明治以降や、戦中戦後に、いかに乱伐されたかが書かれていた。
札掛け考証林とは、戦中に巨木を供出せよとの軍部の命令に対し、勇気ある県林務課職員が、原生林の考証のために残すべきと断ったエピソードによる。
軍部の供出令は小田原や南足柄、箱根も同様で、
分かっている所では、元小田原藩林の辻村家の山のほとんどと、
導了尊の杉数十本が供出された。
辻村家の杉は主に防空壕の内部材として使われたと管理人のKさんがおっしゃっていた。
いずれも数100年生の杉、どれだけ悔しかっただろうか。
箱根では杉並木にも供出令が下された。
それを役場に勤めていた寺の住職が、隙をみて命令書を燃やし、従軍僧に志願して戦地に出奔し、
死ぬまで黙って守ったのだ。
これは同じ夢工房から出ている、小田原ライブラリー「戦時下の箱根」に書かれていた。
箱根町の元住民にこの話を尋ねると、檀家のためよくご存じで、箱根町奥禅院の住職田中隆之さんは、出征した当時もう50代だったそうだ。
息子さんからその話を聞いたので、生きている間は家族以外には誰にも話さなかったらしい。
戦地から帰ってた時の第一声が、「杉並木はまだあるか?」だったそうだ。
戦時の供出がいかに馬鹿げたものであったか、そしていかに乱伐して自然を荒廃させたか、
これはあまり知られてないことだ。
西丹沢は以前は三保と言い、古くは中世頃から、その後小田原藩の御留め山となった。
建材として重要な丹沢六木(スギ・ヒノキ・カヤ・ケヤキ・クヌギ・クリ)と少し種類が違って、
小田原藩六木(スギ・ヒノキ・モミ・ケヤキ・ツガ・ブナ)は、六種の植生群集の中心となる木だという。
小田原藩もまた、ここをお留山とし大切に植生を守っていたのだと知った。
もちろん西丹沢も突貫工事で、戦中に林道が出来、中腹のブナ林はプロペラ材として皆伐されたらしい。
ブナ材のねじれが活用された、受難の時代であった。
この本の中で、丹沢の林業史を担当しておられた篠田健三氏は、残念ながらもう亡くなられていた。
お会いして、いろいろと伺いたいと思っていたのだが、とても残念だ。
しかし近々丹沢奥地の杉巨木の見学に行く予定だ。
札掛け考証林のモミ原生林も、もし時間があれば見てみたい。
丹沢の巨木たちは原始の森の名残だろうか?
当日のお天気を祈るばかりだ。
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おだわら環境志民フォーラム11月20日に行われた太田猛彦教授の基調講演画像です。
森林の変遷とその機能
〜森・川・里・海〜のつながり 森林の変遷とその機能
http://www.ustream.tv/recorded/18633135 日本の森林は江戸時代〜近代までの300〜400年はもっとも荒廃していた、というお話です。
里に近い山は、燃料としての薪やカヤなどの採取が多く、痩せた土壌で土砂流出が多かったそうです。
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小田原はどうかというと、広大な面積の入会地が広がっていたと同時に、箱根は江戸時代300年間は関所の関係でお留山となっていました。
お留山の面積は良くわかりませんが。
当時畑宿の住人は薪に困窮し、藩に木を切らせて欲しいと要望を出しましたが、
許されなかったそうです。
畑宿の対岸の頂上は白銀山。
ここはきっと豊かなブナ林だったと思います。
あと富士山の宝永噴火(1707年)による火山灰の影響もあったかもしれませんね。
足柄平野では酒匂川の川床が上がり、長い間水害に悩まされたそうです。
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