空と風

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今回の話の、ここまでの経緯を簡単に書いてみます。
と思ったのですが、そのスタートとなる前提の部分がまた遠大なストーリーで、それをまだ書いていませんから、理解してくれといっても無理かもしれませんね。

で、簡単に書くと、

倭迹々日百襲姫は奈良県の人物で、有名な箸墓古墳が彼女の陵墓というのが通説となっています。
百襲姫の父は、孝霊天皇(第7代天皇)で、皇宮は黒田廬戸宮です。

一般に、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれ、架空の天皇と言われます。
であるならば、百襲姫も実在するわけがなく、墓もあるわけがありません。

どうも一般的に、史実と記紀の物語の整合性を取る努力はせずに、都合のよいところだけを取り出して、観光ネタにする人が多いように見えます。
阿波の古代史では、上記の天皇を欠史八代とはせず、実在したと考えています。

百襲姫は巫女だったのですが、のちに倭建命(第12代景行天皇の皇子)の物語に登場する命の叔母にあたる「倭姫命」も巫女で、ともに阿波の「伊勢」地方に居住していたと考えられます。



イメージ 1


※(Wikipedia)による倭姫命の経歴

第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として
大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。

ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉祭した場所は
「元伊勢」と呼ばれる。
後に、東夷の討伐に向かう日本武尊に 天叢雲剣 を与えている。

伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。
伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。

※ 上の地図、伊勢の下に天叢雲神社があることに注意してください。


崇神天皇の阿波国における痕跡は何度か書いたので省略しますが、またいずれ詳しく紹介します。上記文中の、

〜大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り〜は、

「大和」=「倭」で日本唯一、式内社「“倭”大國玉神大國敷神社」が鎮座する旧美馬郡、

「近江」=「淡海」または香川県の旧大内郡「小海(おうみ)」、

のことで、伊賀は旧麻植郡「伊賀々志」、美濃は旧三好郡の「三野」、尾張は市場町「尾開(おばり)」

で、全て阿波周辺の地名と考えられます。


イメージ 2

※ 最終地の伊勢を中心に上記比定地が囲んでいます。




百襲姫命も倭姫命も、この阿波の伊勢の地で巫女としての立場にいたことから、この地には、もともとかなり強い宗教的な霊地か施設があったのではないか?
と、岩利大閑氏は言っています。

私には仮説があるのですが、もうちょっと調べてから書いてみたいと思います。


『日本書紀』崇神紀十年九月の条に、百襲姫命は亡くなったあと、

 〜乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。〜

と記されるため、箸墓古墳がそれであると考えられています。
ネットで検索しても、ほとんどのページで「宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命大市墓“として”管理されている」と、もう決定事項のように書かれていますが、実際には宮内庁の「陵墓参考地」に指定管理されているというのが正解です。

阿波説では、「大市」というのが現在の 阿波市・市場町 で、

「箸墓」がその市場町 箸供養 であると考えています。


全国に、古代の市場跡が「○○市場」等の地名として残っていますが、
この市場町は阿波西部最大の市場跡です。
また、箸墓古墳の造営に使う石は 大坂山 から運んだ、と記されています。
 
この大坂山がどの山なのか?は、畿内(現在の)説では判明していません。
一般に「二上山」のことと言われますが、根拠が分かりません。
Wikipediaによれば、埋葬施設の石材は、柏原市の「芝山」の石だと判明しているそうです。


イメージ 3

倭建命ゆかりの白鳥神社(阿波・讃岐)以外の神社は全て式内社

阿波の「伊勢」「奈良」「箸供養」の真北、讃岐の「難波」へ至る途中に「大坂峠」があります。

その東、阿波の旧板野郡、阿波国一宮「大麻比古神社」から讃岐へ抜ける途中にも「大坂峠」があります。

地図ではその地点の線路上のトンネルが「“大坂山”トンネル」となっており、私の地図では山名が確認できませんが、そこにある山が大坂山であることがわかります。

その南の地名はそのまま「大坂」で、そのさらに南は「吹田」(ふきたと読む)です。
知らない人が拡大地図を見ると、一瞬「大阪」の地図かと思うのではないでしょうか?

ちなみに日本書紀原文でも「大阪」ではなく「大坂」と書かれているようです。

 〜故運 大“坂”山 石而造〜

それほどこだわるポイントだとは思いませんが。
難波郷の南の大坂峠のある山も「大坂山」と呼ばれていた(いる?)のでしょう。


なんだかんだで、結局前置きが長くなりました。

 (阿波の)奈良・伊勢 → 百襲姫 → 奈良難波街道 → 大阪峠(讃岐) → 水主神社 → 田村神社 →
 
 船岡山 → 船岡山(出雲) → 倭奈佐比古(出雲) → 倭奈佐(阿波・海部) → 倭奈佐翁(丹後) →

 籠神社 → 海部氏 → 海部郷(阿波)

     → 天村雲命 → 天村雲神伊自波夜比賣神社(阿波)

という流れ、つながりで見てきました。



丹後風土記の逸文を比定することになりますが(笑)(原文を探しても見つからないのですが)、

「天椅立」の「椅」は「橋」の「誤記」だという説の反対で、私の仮説は、

「いだち・いだて」を「はしだて」と「誤読」しているのだ、という新説(珍説)です。


籠神社の『勘注系図』原文には

 孫天村雲命
 亦名天五十楯天香語山命、於天上生神也

 母穂屋姫命也、以天眞井之水、天降于
 日向國竟(境)、后遷坐于丹波國、灌其水
 於久志比之眞名井(丹波國眞名井三處、久志比・矢原・伊去奈子是也)
 乃和其水、以炊供奉豐受大神之神饌矣


天村雲命のまたの名は「天五十楯天香語山命」と書かれています。

天香語山命は、天村雲命の父で、前半の「天の五十楯」は「いだち・いだて」だと思われます。

阿波の旧麻植郡の「射立郷」(『和名抄』)に鎮座する「天村雲神伊自波夜比賣神社」と一致します。

『勘注系図』によれば、その天村雲命こそが、丹波國に「天の眞井之の水」をもたらしたのだそうです。

天火明命がこの地に天下った、というのが通説(『勘注系図』記載)なのですが、私はそれは間違いで、天村雲命の代に初めてこの一族は丹後へやってきたのだと思います。

その功績ゆえに、地名にまで「あめのいだち」と名付けられたのに、後世「天椅立」と漢字を当てたあめに、
橋(はし)と誤読され、もっともらしい説話まで生まれたのではないでしょうか?

もっともらしい説話、と言っても『風土記』に記載されているのですが、風土記とはその時代にその地方に伝わる「伝承」などを記載したもので、天村雲命の話などは、風土記編纂が命じられた時代(713)よりもさらに数百年前の昔話なのだということを考慮しなければなりません。


天村雲命について、もっと書いてみたいと思います。

(続く)

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