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歩みの遅れがちな私の水筒を持ってくれたホルヘ君(当時、小2)も、もう大きくなっただろうな〜。
そう言えば、あの道は春になると雪解け水であふれると言っていた。一体、その時期、どうやって学校に通っていたのか・・・。今さらながら聞いてみたい☆
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こんにちは、ゲストさん
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歩みの遅れがちな私の水筒を持ってくれたホルヘ君(当時、小2)も、もう大きくなっただろうな〜。
そう言えば、あの道は春になると雪解け水であふれると言っていた。一体、その時期、どうやって学校に通っていたのか・・・。今さらながら聞いてみたい☆
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明かりにすかして見ると、ボリビアの先住民村でフィールド調査をしていた時のものなど。いや〜、懐かしい!こんな写真を撮っていたことすら忘れていた。
そのまま写真屋さんに直行して、全部デジタル化してもらった。というわけで、ケチュアの子どもたちと「なべなべ底抜け」。秘蔵の1枚☆
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というわけで、休憩をはさみつつ岩道を登り続けること4時間、ようやくアチア分校にたどり着いた。 私が訪れた当時、アチア分校には1〜3年生の児童合計27名が在籍していた。学校まで長い時間をかけて歩いてくる子が多い。そしてこの子たちが4年生に進級するためには、エル・チャコ小学校に通うことになる。エル・チャコ小学校・・・それはその朝、私たちが5時前に出発した学校。水も電気もなくて、いろいろ往生したが、この山の上から見れば、華やいだ町だ☆ それにしても、ここまでしてアチアの子どもたちがなぜ学校に行くのか、親が行かせるのかというと、スペイン語だ。スペイン語は、いい現金収入に続く道に置かれた最初のハードルだから、それはなんとしても越えたいのだ。 そんなわけで、3年生までしかない分校ではあっても、村の人たちの期待は熱い。校舎の建設からペンキの塗り替え、水を貯めるタンク作り、そしてなんと先生への毎日の食事の提供まで、全て村の人たちで負担しているというから驚きだ。 しかしビクトルさんいはく、実際にエル・チャコ小学校にまで行く子はほとんどいないとのこと。言葉がネックなのだという。4年生からの授業はスペイン語で行われることになるが、アチアの子どもたちのスペイン語のレベルは、それに到底及ばない。それは、日本語でコト足りる日本にありながら、中学校と高校で合計6年間、英語を勉強しても、英語を話せるようにはならないのと同じ。ケチュア語100%のアチアの子どもたちにも、ムリ〜というのが実際のところだ。 そうそう、例の「なべなべ底ぬけ」、みんなでやったよ♪日本のお遊戯って偉大☆歌いながら身体を動かすという遊び自体、人生初めてというアチアの子どもたちだったけど、最初からかなり受けた。子ども全員が手をつないだ大きな輪も、見事ひっくり返って、大喜び。遠巻きに見ていた村の人たちが、白い歯を見せて笑ってくれて、私も嬉しかった。 後日、私はこの写真を、子どもの人数分、焼きまわして、マリーさんの実家に届けた。アチアの子どもとたちは、自分の写真をもたないと言っていたから。 そして更に後日、私はこのフィールド・ワークの結果をまとめて、JICA主催の国際協力論文コンテストに応募した。それが幸いにもある賞を受賞することになり、それは、国際協力という仕事の扉が、私に開かれたことを意味していた。
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しかしこの夜は、なかなか寝付けなかった。というのも私は、子どもの頃から、遠足や水泳大会の前の夜は興奮してよく眠れないタイプなのだ。それでもいつしかウトウトしたのだろう、目覚し時計が3:30を知らせていた。顔を洗って、寝袋をたたむだけなので、10分もあれば準備完了。4:00には少し早いが、約束の学校正門に行って待つことにした。それにしても、光害とは無縁のアンデスでは、星空が本当にキレイ☆空一面が天の川のようだ。 ・・・来ない。つらつら4:30まで待ったけど、一向にやって来る気配がない。とりあえず教員寮に行って見ると、ロウソクの炎が瞬いている部屋が見えた。ドアの前に立って、「ビクトルさん?」と声をかけると、「あ〜!ノリコ、おはよう」とビクトルさんが顔を出した。「遅いよ〜!」と言うと、ビクトルさんは「ごめん、ごめん」と謝りつつ、でも全然悪びれた様子もなくて、「お茶でも飲んで行こう」と、鍋をコンロにかけた。さすが、アスタ・マニャーナ(それは明日にしよう)のラテンの国なのだった。 熱々のコカ茶で温まった私たちは、お馴染み、牛トラックをヒッチハイクして、荷台に乗り込んだ。そして、とある橋のたもとで下ろしてもらって、歩き始めた。とは言え、道を歩くというよりも、大小の石ころをピョンピョン渡っていく感じだ。ここは雨季には川底になるという。次第に空が白んできて、足元が見えやすくなったのは幸いだったが、それでも2時間も進むと、根を上げそうになった。 「あ〜!見えてきた。あそこだよ」 ビクトルさんは、木に囲まれた小屋を指差して、先に行っているからゆっくりおいでと言ったかと思うと、ウサギのように跳ねて行った。私のために、随分ペースダウンしてくれていたに違いなかった。どっちにしても自分のペースで一歩一歩進むしかないと気を取り直して、私もようやくたどり着いた・・・と思ったら、そこは学校ではなくて、民家。先に着いたビクトルさんは、朝ごはんの用意を頼んでくれていたらしく、私が庭に座ると、ゆでたトウモロコシと卵が出てきた。わ〜ん、ありがとう!!(注:ちゃんとお代は払いました。) 「学校はもう近い?」 「あ〜、そうだね」 「あとどのくらい?」 「2時間くらいかな」 「うぎゃ〜〜!!!」 とにかく歩くしかない。そしてここからは同行者が増えた。この家の長男で、小学校2年生のホルヘ君だった。痩せて小柄な男の子が、しかも古タイヤ製のゾウリをつっかけて出てきたのを見た時には、大丈夫だろうかと心配したけれど、足場の悪い上り道も何のその。岩から岩へと飛ぶように進んでいくのを見るにつけ、私もこの重たいトレッキング・シューズを脱いだら、ラクに歩けたりして・・・と思ったほどだった。聞けば、ホルヘ君は、この片道2時間の道を毎日通学しているのだそうだ。それって、毎日が鍛錬遠足ってことじゃん〜!ちなみにホルヘ君は、途中から私の水筒も抱えてくれた。幼くてもこの男気。ラテンの男ってやっぱスゴくない?! インターネットで検索した古タイヤ製のゾウリ写真 (出典不明) |
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そうして1時間ほども揺られていただろうか。マリーさんに促されて、牛トラックの荷台からぴょんと飛び降りると、周りには土壁造りの家が立ち並んでいて、そこがエル・チャコ村だった。マリーさんが言うには、温暖な気候に恵まれたこの地では、古くから農業が盛んだったが、都市スクレに近く、また幹線道路沿いという地の利を活かして、近年では政府により酪農が推奨されているのだそうだ。それであの巨大な牛トラックだったというわけだ。ところで、幹線道路って何のこと?とたずねると、憲法上の首都スクレとボリビア第三の都市コチャバンバを結ぶ道とのことで、つまりたった今、私たちが走ってきた未舗装道路のことらしい。 (外務省作成の地図に一部加工) こうして、エル・チャコの村の小学校に泊り込んでの調査が始まった。この村には宿泊施設があるわけではなく、マリーさんを含めて学校の先生達は、校舎の隣に建てられた寮で生活していた。マリーさんは自分の部屋に招いてくれたが、4畳半ほどの狭いスペースにベッドが置かれていて、ほとんど足の踏み場もない様子を見て、私は教室に寝泊りさせてもらうことにした。 それを気の毒に思ったのか、マリーさんは毎晩、朝の洗顔のためにと、貯め置きしていた水をバケツにくんで運んできてくれた。アンデス山岳地帯は一般に水不足に悩まされているのだけれど、この村も例外ではなく、蛇口から水が流れるのは、朝晩それぞれ数時間だった。もちろん電気は通っておらず、暗くなったらさっさと寝袋にもぐりこむという生活だ。って、ここまで書いたところで、マリーさんのことは、本来「マリー先生」と書くべきだったことに気が付いたのだけど、いずれにしても現地ではファースト・ネームで呼び合っていたことだし、このまま続けることにする。 そんなある日、「ノリコ」と声をかけられた。初顔のその人は、ビクトルさん(先生)という巡回指導員で、2〜3カ月に一度くらいの割合で、このあたりの学校を回っているのだという。前にも書いたけど、日本とは違って、途上国の多くでは教員資格を持たないデモシカ先生がほとんどで、生徒の学力向上に行き着く前に、先生の指導力向上、というかまずは先生の基礎学力向上が課題というのが実際のところだ。そんなわけでの巡回指導員制度なのだった。 校長から私のことを聞いたというビクトルさんは、山の上にある分校に行くことになっているので、よければ一緒に行かないか?と誘ってくれた。この偶然に、私が狂喜したことは言うまでもない。「じゃ、明日は朝4時に出発だよ」「オッケィ〜☆」夜は8時には寝るのだ。少々早起きすることくらい何でもない。
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