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月と蟹
Introduction
「世界は光と闇でできている。それを薄々知りながら、それでもなおかつ決して闇を視ようとはしない人々……注意深く避け、無視しようとする人々のことだ。それは自身の暗い部分から目を逸らすことでもある。そして一旦それに気付いた者は、もう光だけ見ることはできない。」 Ⓒ「この光と闇」服部まゆみ
「月と蟹」は鬼が人間に回帰する、救いの物語だ。
だからこの言葉にピンとくるあなたに「月と蟹」を読んでほしい。あなただけが「月と蟹」の美しさを享受することができる。ピンと来なくても、理解できるぞ、というあなた。道尾秀介を知らないのなら是非一度あなたにもこの本を手に取ってほしい。
道尾さんはあなたを決して裏切らない。
(ピンとこないし、理解したくもないというあなた。残念ながらあなたにこの物語の素晴らしさを伝える術はない。というより、あなたに僕が語ることなど何もないのだ。あしからず)
Plot Summary
鎌倉。この土地では義経の恋人である静御前が頼朝の前で舞った白拍子が代々受け継がれている。建長寺の夜泣き鐘。首のない仏像の列。人の呻き声のような音を発する十王岩。神秘的な色に包まれた風景。物語はそんな鎌倉市に近い海辺の町が舞台だ。
小学三年生の夏。慎一はやり場のない気持ちを抱えていた。何でそうやって馬鹿にすんだよ、いつも。からかう祖父昭三の前で慎一はわめく。祖父の目が知らない子供を見るようなものに変わった。慎ちゃん、何よ、どうしたの。母の純江が居間にはいって心配そうな声を発した。
お前のせいだ。慎一はやっとのことでその言葉を飲み込み、舌打ちする。
それは同じクラスの親友春也と海辺で遊んでいたときのことだった。慎一の視界に――信号待ちをしている一台のヴァンが視えた。黒みがかったリアウィンドウの向こうに見える運転席と助手席。運転席には短髪の男性。助手席には……母親らしき姿。
どうしてだろう。癌で亡くなった父の痩せた身体――その皮膚の下を、もぞもぞと蟹が這い回るイメージが、慎一の頭からこびりついて離れない。どうして母は平気でいられるのだろうか。
慎一は鎌倉祭りで出会った、クラスで人気者の鳴海の父がヴァンに乗っていた男と分かり、苦悶する。
鎌倉祭りから一夜明けたその日、春也のシャツの奥に見え隠れして、左の鎖骨下に濃い痣がみえた。親父にやられたんやと春也は頬だけで笑った。前にも体育の授業前に春也の腹が極端にへこんでいたのを見て、ぎょっとしたことがある。春也は朝飯を食い忘れてんといったが子供ながらに慎一は物事をそれとなく了解していた。朝飯を食べ忘れただけであんなにおなかがへこむはずがない。
そして慎一には相変わらず、意地悪な手紙が机に入れられている。
新しい、何かが欲しかった。押しつぶされかけた心が飛ぶように弾む、何かを。慎一も、たぶん春也も。そして慎一たちは見つけた。風が吹きすさぶ秘密の場所。その中央に鎮座する、人の顔にも見える大きな岩。
純江のこと、春也のことも、鳴海の父親のことも、机に入れられていた手紙のことも。
世界は大きくて、理不尽だった。
だから僕たちは神様を創ることにした。岩のくぼみに海水を溜めて潮だまりを作り、その中にヤドカリを放った。幾日も、幾日もヤドカリの中からヤドカミ様を決めて、粘土の台座に固定し、ライターの火であぶった。神様をヤドカリから放つために。僕らのお願いを叶えてもらうために。
奇妙なことに僕らの願いは本当に叶った。お金が欲しいと願えば岩場で500円玉を拾った。いじめっ子の蒔岡が不幸になるようにと願えば、翌日に蒔岡は階段から転落して指の骨を折った。
でも慎一が本当に願ったのはそんなことではなかった。正直に言えず、蒔岡が不幸になりますように、と嘘をついた。どうして嘘のほうが叶うのか。どうしてあのとき口にしたことが、本当になるのか。――慎一は鳴海の父親に悪いことが起きてくれるようにと願ったのに。
春也への虐待はエスカレートしていく。ご飯を全くもらっていない日もあった。それは慎一のせいかもしれない。春也の父親の暴力をやめさせようと慎一は春也の家に匿名の手紙を出したのだ。
昭三は脳溢血で入院した。陰湿な手紙は飽かずに慎一の机に入れられている。春也と鳴海との仲はこじれ、春也は慎一の願ったとおりに腕を折った。忍び込んだ鳴海の父親の車の中からラブホテルに入る純江の姿を視た。
何かが、慎一をじりじりと包み込んでいく。それが何なのかわからない。でももうすぐ自分は出られなくなるかもしれない。どこからと訊かれても、こことしか答えられない。自分がこれまでまったく知らずに過ごしてきた、時間も感情も、何もかもが曖昧な、新しい場所に。
「何でうまくいかへんのやろな」疎遠になっていた春也とひさしぶりに潮だまりに来て、そう春也はつぶやいた。
「お願いしてみようか」
「ヤドカミ様、叶えてくれると思うで、何でも」
自分の願い。叶えて欲しい願い。
ヤドカミ様が叶えることのできる願い。
春也がヤドカミ様にライターを近づけ、慎一の言葉を待っている。
そう、もう怖くない。何も怖いものなどない。
ぜんぶうまくいく。
慎一は目をつぶり、ゆっくり息を吸った。
「鳴海のお父さんを」
「この世から消してください」
春也が父親を殺せますようにとも願いながら。
Review
やっとだ。やっと道尾さんの物語に救いが生まれた。とはいえ、これまでの作品に救いがなかった、暗黒ばかりが広がっていたかというとそんなことはない。「ラットマン」では和解による救いがあったし、「片目の猿」は障害という重いテーマをそのまま受け入れつつも、笑い飛ばすような力を秘めた作品だった。
ではどういう類いの救いがあるのか。
それは鬼からの回帰から生まれる救いだ。鬼ってなんだという話はまずはおいておこう。
誰もが了解できる大味なカタルシスはここに用意されてはいない。ネタバレになってしまうので結末は言わないが、それはとてもとてもささやかなラストなのだ。
だけど、だからこそ僕は泣いてしまう。
静かに本を閉じ、表紙を眺めて、涙がこぼれる。
月と蟹。こんなに味わい深いタイトルだったのかと、読み終わって、初めて驚く。
できれば読後に本を閉じ、その余韻をあなたにもしばらく味わってほしい。本を閉じてすぐ、ほかの本を読み始めるなんてもっての他だ。
いい、わかった?
なんて要りもしない念を押してしまう。
つまり、そういう本なのだ。
道尾さんの感動は一瞬である。
だからと言って、その感動がつまらないものだということにはならない。
完璧な一瞬にはそれだけの価値がある。
「ファイトクラブ」のタイラー・ダーテンが「たとえどれだけの苦痛が強いられようとも、完璧な一分にはそれだけの価値がある」といったように。
僕もそう信じる人間のひとりだ。
あなたは、どうだろう。
・ 幻想性こそ道尾さんの本領
と、まあこれでは何言ってんだおめぇ、と言われても仕方ないのでネタバレしないように語っていこうと思います。
道尾さんの小説のタイトルは大抵、物語のテーマのメタファーになっているんですが、 こんなこと、どの解説にも出ていて書く気にはなれない(無論ミステリーがすごいー、だとかプロットがうまい―、だとか人間描写が丁寧ーだというのもわかりきっている話だ)から割愛。
「月と蟹」のメタファーは幻と狂気です。月が幻で、蟹が狂気のメタファーとなっている。つまりこれがこの物語のテーマでしょう。「龍神の雨」の解説では、月は人間の理性、蟹は人間の心の醜さと書かれていますが、僕は断然、前者だと考えてます。
ヤドカミ様の儀式自体、狂気を生む装置になっているし、物狂いの象徴としてヤドカリ(蟹)は文中で何度も語られていますから。
月を理性とする向きにはいくらか納得がいきます。理性と狂気の境で揺れ動く慎一の心の機微が物語の主軸であり、その両方の心情の対極として月があるというのはなかなか説得力のある話ですから。
でもちょっと待ってほしい。
どうしてこの物語は鎌倉で語られるのか。どうしてこんなにもこの物語と舞台がしっくりとくるのか、を。
僕が考える月のイメージのひとつは幻想です。タロットカードの「月」の暗示するものが朧ろさや幻であるように、この物語はどこか浮世離れした、ファンタジーめいた、神話的な雰囲気が漂っている。
おぼろさ。はかなさ。幻のような、陽炎のように揺れ動いているのは何か。
これは「向日葵の咲かない夏」や「鬼の足跡」などもそうなのだけど、陽炎のような印象を与えるものは人間描写やプロットだけではない。風景描写や文体レベルからもそうした幻想性というものが匂い立っているように思えるのです。
特にこの「月と蟹」はその幻想性が蠱惑的な美しさを醸し出しています。
その美しさというのは少し特殊でスピッツの歌にも似ていると僕はおもうんだけど、未だ賛同者を得られたことがない。なんでだ。
まあ、それはそれとして、要するに道尾さんの魅力のひとつとして、風景と細やかな心理、時にはミステリーの構造そのものがひとつになって、魅力的な物語の空気感を作り出しているんだよ、そう考えると、「月」は理性だけじゃちょっと足りなくて、理性を含めた、その朧な空気感そのものの象徴と考えたほうが、この作品のテーマ性がより正確に表せるんじゃないの、と僕は思った次第であります。
・人が認識する現実は幻想に似ている
とこれも書きたいと思っていたのですが、これはむしろ他の道尾作品のほうが了解しやすい(オレが説明しやすいというのは内緒)でしょうから、ここでは詳しく語りません。
それでも僕が道尾さんはどういう小説を書くのかと訊かれたら、まず間違いなく「ラットマン」をお薦めします。道尾さんの物語の底にはいつだってラットマンが存在しているのです。
ラットマンとは、心理学のだまし絵のひとつです。ロールシャッハ・テストのように一枚の絵が幾通りのものに見えるという、そうあれです。
この錯覚という現象は僕たちが認識している現実にも常に生じています。
例えば、同じ道尾作品に「龍神の雨」というものがあります。そこで出てくる主人公添木田連は蓮の妹に危害を加えようとする義父を殺すべく七輪を購入し、ボストンバッグの中に隠している。それを妹の楓が発見したとき兄が自殺を考えているのではないかと思い違いをしてしまう。
楓は七輪を見て、兄が車の中で自殺する場面を想像してしまい、兄が自殺をしようとしているというラットマン、幻想を抱いてしまうわけです。
冷静に考えれば簡単にわかりそうなことだけど、実際に主人公たちと一緒に物語に添ってみると、登場人物と一緒に僕らも多くの勘違いに乗せられる。やがてその勘違いは積み重ねられ、大きな悲劇の洪水が登場人物たちを否応なく飲み込んでいきます。
(と、実はここまで書いておいてなんですが、この話の中にすでにもう他の錯覚、というより嘘が入っています。気になる方は是非本編をお楽しみ下さい。)
この話のようにとはいかないまでも、自分が勘違いをしてしまっているのに、それがあたかも真実のように見えてしまうというのは、実は恐ろしいほどに多いのです。
僕たちはいつだって迷信の中にいるといったのは小林秀雄ですが、この問題に一番意識的なのは、道尾さんじゃないかと思います。僕らの人生の物語はこんなに嘘と幻想によって成り立っているというのは、考えてみるとぞっとする話です。
・人が鬼になるとき
(字数限界を越えたので次回にまわします……)
余談ですが、僕は物語の最後に葬式のシーンが入るのが大好きです。
伊坂幸太郎の「重力ピエロ」も断然小説派です。火葬場から立ち上る煙を見ながら、兄弟で軒の上でビールを飲む光景は最強でしょう。コードギアスのルルーシュがラストに非業の死(?)を遂げる場面なんて、とっても見え透いていてあからさまなのに、ルルーシュと叫んでしまったオレって一体……(汗)
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