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			<title>土芥の一類～奥州葛西家臣末永氏一族～</title>
			<description>中世宮城県北から岩手県南にかけて400年間蟠居した葛西氏。その家臣で直情径行を貫いた反骨気鋭の一族・末永氏。その代表的当主である末永能登守の知られざる生き様を主軸に、闇から闇へと葬られた歴史の、声無き声を明らかにするブログです。
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006</link>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>土芥の一類～奥州葛西家臣末永氏一族～</title>
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			<description>中世宮城県北から岩手県南にかけて400年間蟠居した葛西氏。その家臣で直情径行を貫いた反骨気鋭の一族・末永氏。その代表的当主である末永能登守の知られざる生き様を主軸に、闇から闇へと葬られた歴史の、声無き声を明らかにするブログです。
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		<item>
			<title>FC2版・土芥の一類～奥州葛西家臣末永氏一族～へのリンク</title>
			<description>&lt;a HREF=&quot;https://yamanisyosuke19159.blog.fc2.com/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://yamanisyosuke19159.blog.fc2.com/&lt;/a&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41403256.html</link>
			<pubDate>Sat, 25 May 2019 12:41:55 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ブロガー・末永能登守14611514臨終す</title>
			<description>※本文中、実在するブロガーさんの名前（ハンネ、敬称つき）を紹介する場合があります。決して悪意ある紹介ではありませんのでご了解下さい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
照れ臭いから一回しか書かないよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おいらことブロガー・末永能登守14611514がブログデビューしたのは、奇しくも丁度7年前の平成24年（2012）5月3日のことだった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブログを始めた直接のきっかけは、一応、平成23年（2011）3月11日の東日本超巨大地震にまで遡るかな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それまでブログというと、真鍋かをりさんとか、指原莉乃さんとか、所謂ブログの女王と呼ばれた人がいたことは知ってたけど、そんなものしてる暇も興味もなかったし、そもそもパソコン自体持ってなかったし、ほぼほぼ無縁の世界の出来事という印象だったかな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幸か不幸か、震災で身内親戚家屋敷、友人知人誰一人、何一つ失わなかったんだけど、唯一職を失ってさ、手持ち無沙汰にしていたところへ、グーグルのパーソンファインダーというサービスを知り、持て余した暇に、知る人知る人ガラケーで検索しまくって安否を毎日と確認してたよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不謹慎かもしんないけど、これが結構面白くてさ、そうこうしている内に、知らず知らずネットの海を泳ぎ回るようになっちゃっててさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある時、葛西とか末永とか、検索してみたらどうなるか試したくてググるってか、ヤフってたら、偶然ヤフー質問箱で、永正合戦についての質問を見つけたんだよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永正合戦、おいらは明応永正の戦乱って呼んでるんだけど、丁度500年前の宮城県で末永能登守という人物が主君の葛西宗清に謀叛し、隣国の山内首藤氏を巻き込んだ戦いを知ってる郷土史好事家が、おいら以外にもいるんだなー、と感心していると、そこに解答をカキコした人が、越後国（新潟県）で起きた戦乱について書いてたもんだから、違う、違う、そうじゃ、そうじゃねーんだよ（鈴木雅之さんか？）しゃーない、おいらが一筆書いたるか、とまぁ少々功名心（？）に駆られてさ、何とか正解を書きたかったが、解決済みになってたから、カキコすることは出来なかったんだよな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、そんな郷土史でも殊更物好きな質問をした人物が当時12歳の小学6年生だったから驚いた。アカウントを辿ると、この人物が運営しているヤフーブログに突き当たった。何でもご先祖が山内首藤氏の一族らしい。産まれた年も丁度500年前の山内首藤知貞のそれと変わらないんで何か奇縁を感じたんだよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それで矢も盾も堪らず、少年ブロガー山内首藤佳通さんにコメントでご挨拶を入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
取り敢えずヤフープロフ（今はサービス終了）に登録して、コメントを介して交流していく内に、長年脳内に貯め込んでいた郷土史と先祖の研究をブログで発表する手段があることに気付き、その野望止みがたく、いい年こいた大人が遥かに年下のブロガーさんに刺激を受け、後世恐るべしとばかりに戯作三昧の後塵を拝する形で、ブログを立ち上げたという経緯だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから一年かけて第15章まで書き進めたんだけど、誤操作でブログをどっかんやらかしちゃってさ、デススターの如く木っ端微塵にしちゃったんだよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで一念発起し直して、ガラケーをスマホに機種変して再スタート。1、3、16から23まで書いて、4から13まで、で、2に移り、と、自分で書いといて何だが、随分と気紛れな更新の仕方だなーと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな書き方だから重複もあちこち出て来て、15書き終えて繋がったら、別のブログで清書版を作ろうと適当なブログサービスを見繕っていたところへ、ヤフーブログサービス終了のお知らせ、と来たもんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤフーブロガーさんによっては、人生の為になった、感謝したい、ありがとう、なんて意見もあり、まぁ懇意にしてる手前、否定する気は無いんだけど、そんなのはね、ブラック企業、ブラック組織のオラオラ上司、暴力監督に虐げられつつも、時折起きるいいことや、時々見せる親切さに単純にも洗脳される社畜さんの意見と同じなんだよって。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや、だから怒る時にはしっかり怒んないと。何の為に生きてんですかって。聖人君子ぶるのは一向構わないが、それで悪人を甘やかし、つけ上がらせ、増長させちまったら意味ねーんだって。とにかくこの決定には正直ハラワタ煮え繰り返ったね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何故かっていうとね、友達登録してたブロガーさんにtoshimiさんという高齢のブロガーさんがいて、既に故人なんだけど、この方がブログを始めたきっかけが、生き別れになった前の家族に辿り着くため、検索で見付けて貰えるようブログを運営してるってんだよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも結局望みは叶わないまま、病気で遠行されるんだけど、要するにヤフーブログにはこうした切なる願いを込めてブログを書いていた人もいたわけで、そうした人達の思いを一瞬でスイッチオフして、無かったことにすんのかと思うと腹立って腹立って仕方無いんだよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と、そんな事書いてっと、何言ってやがる、タダほど高いものは無い、無料なんてあり得ないんだ、そんなに文句あんならロゼッタストーンにでも刻んだほうが永劫長持ちすんぞって言われるかもしれない。でも本音を言わせりゃ、金払うから存続して欲しいってのが正直な気持ちだよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブログを通じて本来なら出会う筈の無い者同士が文通宜しく交流出来て、始めた頃に仲良くなったブロガーさんの中には、物故されたり、様々な理由で更新を止めたり、他のサービスに移った方もいたりして、ブロガーの寿命って蝉かカゲロウかってくらい意外と短いってことに驚いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とにかくまぁ、色んな人の思いが詰まっているこのヤフーブログを終了させるからには、それなりの理由があるんだろうなって、一応斟酌するんだけど、その一方でおいらの神経を逆撫でするように、ヤフーの社長がどっかの雑誌で我が社の経営方針だか理念だか、エラソーに講釈垂れてんだけどさ、んな暇あんならブログ何とかしろ、この唐変木のふいごの向こう面めって思ったな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で、5月9日に移行ツールがリリースされるから、みんなで引っ越～し♪なんだけど、リリース延期で何時になるかわかんねぇってしばくぞ！（騒音おばさんか？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
取り敢えずおいらはその5月9日まで更新、更新、また更新て出来る限り記事を繋げる努力をして下準備をして過ごしたんだけどさ、ここ2ヶ月の内に引っ越しちゃうブロガーさんも多くなって些か寂寥感にある所、ブログの進捗も丁度曾祖父が千秋万歳して祖父が家督を継いだところに来たから、キリのいいとこでストップして、無休労働で鬱陶しい事この上無い改元ゴールデンウィークなんぞ早く終われー、って当日を一日千秋の思いで待てど暮らせどしてたら、暗に違わず宵待草の遣る瀬無さだよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや、100歩譲ってだよ、ヤフーさんよ、移行ツール延期だってんなら、サービス停止も延期して欲しいよね。てか、マジでサービス存続してくれよって。ゼニになるぺーぺーの方にシフトしたいんだろうがさ、そっちがその気なら、こっちだって考えあんぞテメーこのヤロー、ってもう怒り心頭なってたから、FC2のブログ移行サービス使って引っ越してやった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブログの移行に関しては、色んな会社を前もって調べたんだけど、会社の良さ怪しさはどれも似たり寄ったりだった。だから使い安いとこに絞って考えた。ワードプレスやグーグルのブロガーも考えたんだけど、ワードプレスは恰も平将門のようなブログ界の革命児なんだろうが、未だネットの道に練れず、なおいらにとっては敷居が高いてか、手続きは煩瑣だし、長げーし、日本人スタッフが休日なると英語になるしで、まぁスマホじゃなくてパソコンからなら違うのかも知れないけど、ともあれ面倒臭ぇっ！ってなって、止めちゃった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グーグルのブロガーも所謂GAFAって大会社の一つで、社長だったかが、これからの人類はクリエイティブじゃないと社会に必要とされない人間にされてしまうだろうって豪語するくらいだから、ブラック企業サイバーエージェントや韓国政府に情報漏洩ラインよりも当てに出来るかな、と思いきや、グーグルってサービス停止したコンテンツが25種類もあんのな。ブログサービス自体も、あんま使い勝手良くないし、これもアンインした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
てな訳でFC2なら移行出来るってんで、税金逃れのためにアメリカに本社移したとか、アダルトコンテンツで揉めたとか、色々と胡散臭いけど、四の五の言ってらんねーから取る物取り敢えずFC2に引っ越した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今のヤフーと違って下書きが出来るし、書庫の並べ替えが出来るのが便利かな。でもここが終の棲み処になるとは思ってない。あくまで保険としてだし、ヤフーが約束通り移行ツールをリリースすればまた考えるかな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
てなわけでして、FC2でのブログタイトルは変わりません。“土芥の一類～奥州葛西家臣末永氏一族～・FC2版”で検索して訪問してくださるなら幸いです。なお、ヤフーブログはタイタニックが沈没する12月15日まで執念深く残します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あ、そうそう、ハンネ、てかブログネームはこの際良い機会だから改名することにしました。“YAXILE（ヤクザイル）”とか、“らぶぴょん”とかいいかなーとか思ったけど、下らないので、“ヤマニ屋末永笑助”と名乗ることにしました。でも、能登守でもいいですよ、その名前を捨てたわけでは無いんで。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな訳で本日、令和元年（2019）5月15日の更新を持ちまして、ヤフーブログ最後の更新と致します。誠に身勝手極まりないですが、今まで閲覧ありがとうございました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コメント欄は空けてますんでご自由に。返事もします。8月までかな？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あーでも業腹立ったからグッショグショの官能小説でも書いてやろうかな（書かないって）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タイトルはねー、“受付係のミニスカスリット爆肉OLお姉さんの秘目眩恋酊魅（ひめくりこよみ）”（だから書かないって）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にほんブログ村 日本史[&lt;a HREF=&quot;https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html&lt;/a&gt; ]</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41397584.html</link>
			<pubDate>Thu, 16 May 2019 02:00:50 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章82母方の家系・末永貞蔵の二人の後見人</title>
			<description>末永貞蔵に二人の後見人が付いた昭和7年（1932）3月12日、末永泰蔵の3妻ふくは、最早末永家には用は無いとばかりに家を去り、加美郡中新田町字町裏に住む弟・大村大八郎の戸籍に入り、末永家の戸籍からは除籍となります。薄情と言えばそれまでですが、子供が無かったことで夫の死後は身の置き場も無く、大した遺産も貰えなかった婚家に未練なんぞもしがらみ風情も無くなってる訳ですから、当たり前と言えば当たり前でしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永貞蔵にとって幸運だったのは、僅かばかりでも遺された財産の鍵を故・阿部栄助氏が握ったことでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おいらが栄助氏を取材した時は、既に高齢で耳も遠く、楽隠居の好好爺という風体でしたが、その語り口からは、自信と勇気、度胸に富んだ偉丈夫だったようで、貞蔵の財産を狙って悪い親戚が来ても頑として鍵は渡しませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿部栄助氏は後に兵役に狩り出され、仙台に拠点を置く第2師団歩兵第4連隊に配属され、事変に揺れる満州に派兵され、吉林省等を転戦します。戦場では郵便局で取った杵柄か、通信兵を務めます。ある時、砲弾飛び交う中を付近に展開する別の部隊に伝言を届けることとなり、上官が怖じ気（臆病者）だったので、自ら斥候役を買って出ています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中途病気か戦傷で満州国首都新京市（中華人民共和国吉林省長春市）で手術を受けています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした戦功が認められ、満州国国務総理大臣鄭孝胥（1860～1938）名義で勲8等に叙勲されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成11年（1999）に故・阿部栄助氏に取材した時、おいらはラストエンペラー愛新覚羅溥儀に会ったんですか？と質問したのですが、一兵卒だった栄助氏がおいそれと面会出来る人物ではなかったようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言われて見りゃ、当時の日本人は昭和天皇に会うことは勿論、声を聞くことさえ困難だったのですから、この質問はつくづく愚問だったと後悔しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平時には浜の民政委員を務め、地元の顔役となり、雄勝町史にその名を刻みました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方の平山時永は、対する相手によって評価が様々で、故・阿部栄助氏は末永貞蔵の財産を狙う胡散臭い泥棒のように見ていましたし、義兄であった榧野定太郎なんぞはクソミソに貶したそうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その4男、故・榧野岩光氏は生前、虚々実々の駆け引きを演じた故か、評価すべき所は評価しつつも、“インテリジェントルマン”と、是とも皮肉とも採れる評価を下しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘗て末永善助にムカデを押し付けられてイジメられたように、囲碁の有段者で痩身で頭脳明晰な人となり、祖父貞蔵の秘蔵アルバムにはまだ幼い養女、後に絶世の美女と持て囃されることになる、その片鱗を見せたその養女と共に、京都の渡月橋に佇む、恰もマフィアのドンを想起させる出で立ちと立ち居振舞いから、良くも悪くも腕に自信があり、豪胆で勇武に富む男達からは滅法嫌われていたようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永貞蔵の子供達、伯父も母も叔父御も、平山時永に関しては余りいい顔をしません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その中で婆ちゃん一人、平静かつ的確に平山時永を評価していました。敢えて中立の立場で物事を評価することの難しさを知った思いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら肝心要の祖父とは、不思議にも対立した形跡が無いのです。故・阿部栄助氏に鍵を求めたのは案外、片田舎の漁り人に任せても仕方無いから、こっちで有効な資産運用をするから私に預けて下さいよ、といったものだったのかも知れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
83に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41390971.html</link>
			<pubDate>Mon, 06 May 2019 14:02:05 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章81母方の家系・末永泰蔵の死</title>
			<description>昭和5年（1930）3月、末永泰蔵3男貞蔵が石巻高等小学校を卒業します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時の卒業アルバムが遺されています。アルバムの裏にクラスメイトの名前を祖父が自筆で書き込んでいて、何故か自分には末永貞三と記入しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖父は齢16の青春の入り口にあって、曾祖父の美男振りをDNAの一鞭毛たりとも受け継がなかったようで、いかにも田舎のおだづもっこ（石ノ巻弁、やんちゃっ子）という風体。ただし、色男何とやらの裏返しで、体躯と膂力と度胸には人一倍恵まれ、そして何より人の上に立って舵を執るべき才覚を備えていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月20日、平山時永28歳と末永みつ24歳が婚姻届を石巻町役場に提出し、法律的に正しい夫婦となります。しかし、実子には恵まれませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和6年（1931）2月29日、登米郡登米町寺池字荒町の平山久之丞の従妹として平山本家の戸籍に入っていた平山留次郎次女マサヨが、3弟平山時永の姉として入籍しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平山マサヨ自身は石巻にいたようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月27日、マサヨに次女が誕生します。父親の名前、素性は不明。後に平山時永・みつ夫妻に養われ、養女になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曾祖父末永泰蔵が脳卒中で突如倒れます。眼を覚ますことは無いまま、9月20日0時2分、没します。享年53歳。菩提寺臨済宗妙心寺派長粛山慈恩院に葬られ、戒名は泰徳智寛居士。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これから、という時の突然の死でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死の直前、泰蔵は金屏風の裏に遺産は貞蔵に継がせる云々、と記していたそうですが、何者かによって消されてしまったと伝わります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
泰蔵からカネを借りていた輩は、もう死んだから時効（チャラ）ね、とばかりに掌返しでばっくれます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逆に泰蔵がカネを借りていた輩は、死ねばチャラだなんて、そうは問屋が卸さない、早く返せ、とばかりに催促する有り様。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かくして、当主の死によって手塩にかけて育ててきた事業所は破産のやむ無きに至ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永家中のお宝というお宝に資産差し押さえの赤札が貼られます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3男貞蔵と3女志んはそれらが林立する中でかくれんぼに興じ、その赤札を間違って剥がしています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永泰蔵が毀誉褒貶、紆余曲折、波瀾万丈の人生の中で、一代にして築き上げた財産は、周囲の交錯する思惑の中で散佚しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月1日、かくして3男貞蔵が跡を継ぐのですが、僅か17歳の若者に家督が務まる筈も無く、後見人が選ばれるのですが、阿部まつのと結婚して母方の義理の叔父となっていた故・阿部栄助氏21歳と、父方叔父で義兄の平山時永29歳がその座を巡って争いますが、結局昭和7年（1932）3月12日、平山時永に委任されます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、財産管理に関しては阿部栄助氏が司ることとなり、その鍵を厳重に保管します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
82に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41390341.html</link>
			<pubDate>Sun, 05 May 2019 18:05:27 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章80母方の家系・長女ゑいと父泰蔵の婚姻届、5男荘蔵の悲劇、北村フヂの早世</title>
			<description>昭和3年（1928）11月22日、私鉄宮城電気鉄道仙台石巻間が開通します。後に仙石線となる鉄道です。宮城電鉄仙台駅は当初、地下にありましたが、国鉄時代は地上に、JRとなってよりは再び地下化しています。尤も、他の路線の仙台駅ホームと比べると、仙石線ホームが何となく傍流感が否めないのは、石巻人の仙台に対する嫉妬から来るものか、元私鉄の故でしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月13日、阿部卯一31又は32歳と末永ゑい24歳が法律上、晴れて夫婦となります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月27日、石巻線の駅舎が落成します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘗て石巻駅は石巻線汽車駅と、仙石線電車駅で別々の駅舎になるという、全国でも紛らわしい、いや、珍しい状況にありました。平成2年（1990）7月21日、仙石線電車駅が石巻線汽車駅に繋がる形で駅舎が統合され、仙石線電車駅跡は広場と駐輪場になっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牡鹿半島の母方叔母一家に里子に出された末永泰蔵の5男荘蔵は、血縁ではない叔母の夫からは我が子のように可愛いがられながら、血が繋がっている筈の叔母とその従兄弟らから辛く当たられていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある時、風邪を患い、高熱を出しますが、金が無いのか、医者を呼びたくないのか、医者自体いない浜だったのか、ろくな治療も受けられず、抛擲されます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幸い熱は退いて風邪も治ったものの、高熱の後遺症で耳の聞えが悪くなり、一生聴力にハンディキャップを負います。このことが荘蔵の生涯に暗い影を落とすことになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和4年（1929）3月6日、末永泰蔵と3妻大村ふくの婚姻届が石巻町役場に提出され、二人はようやっと夫婦になります。共に50歳の年齢を迎える年で、良い機会と判断したのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月20日、末永泰蔵一家は牡鹿郡石巻町湊字本町82番地から町裏3番地14（石巻市吉野町1丁目）、国道398号線沿いの湊小学校、慈恩院、多福院に囲まれた辺りに転居し、又もや町役場に届け出ています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この土地は昭和23年（1948）4月13日に異母弟で娘婿の平山時永の所有になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和4年（1929）5月、14代石巻町長に石母田正輔が再任されます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平山留次郎の3女フヂは恐らく継母みすの縁で東京に奉公に出ていましたが、そこで劇作家の北村喜八（1898～1960）と事実婚し、3人の男子に恵まれていましたが、8月12日13時45分、東京府東京市本郷区駒込曙町3番地（東京都文京区本駒込1丁目、2丁目）、国道17号線旧白山通りに面した場所にて、早世します。享年26歳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法的な婚姻関係を結ばなかったため、北村家の墓には入れず、平山家菩提寺たる慈恩院に葬られ、戒名は釈尼妙諦。墓碑銘には北村フジと刻まれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
81に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41390180.html</link>
			<pubDate>Sun, 05 May 2019 14:03:34 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章79母方の家系・大正天皇崩御</title>
			<description>大正15年（1926）12月25日、かねてより体調を崩し、ともすれば危険な状態が続いていた123代大正天皇が崩御します。享年48歳。摂政皇太子として父帝に代わって政務を行使していた長男裕仁親王が124代昭和天皇として即位し、元号は昭和と改元されます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
僅か15年に満たない、日本史上最も短い時代となってしまった大正時代は更に、45年の明治、64年の昭和という史上最も長く続いた元号の一位と二位に挟まれてしまったが故に、大正産まれの人達は明治産まれと昭和産まれとの狭間で、些かならず寂寞感を感じているんだそうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NHKの朝ドラ「すずらん」（平成11年・1999年）の主人公常盤萌（@柊瑠美さん、遠野凪子さん、倍賞千恵子さん）が大正産まれであることを知った婆ちゃんが、そのことを染々語りながら毎朝の楽しみにしていたのを記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奇しくも大正天皇と同い年に産まれた末永泰蔵は時代の移り変わりに際し、どのように感じたかは興味あるところですが、ここに新たに即位した新帝を歴史学的に評価するに当たっては、明治天皇以来の賢帝と評価するものから、天然無為の独裁者、内外多くの人命を死に追い遣った戦争犯罪者などなど、論者のイデオロギーの立ち位置によって評価は様々です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら64年という治世、89歳という長寿の故に、近頃やっと編纂が完了した「昭和天皇紀」、おいらはまだ読んでない、が膨大な冊数であることに加え、西暦2019年の今年は誰が何と言おうと昭和天皇没後30年の節目の年であり（違うの？）、まだ没後30年しか経っていない昭和天皇をあれこれ評価するのは極めて困難、というか、はっきり言ってお手上げです。ドラマで昭和天皇を演じることさえ憚られるのですから。とはいえ、明治天皇や孝明天皇だって難しいですけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年は石巻町中瀬に村上造船所が創設されます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更にこの年は、後に末永善助の養女となる朝子（あさこ）が誕生します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和2年（1927）、阿部卯一、末永ゑい夫妻に長男が誕生します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和3年（1928）6月25日、曾祖母末永志めの父親・高祖父阿部千松が没します。享年70歳。長姉志めの12歳下、末子まつのの8歳上の長男清之丞（1893～1977）が家督になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊沢浜阿部家は海難事故と思われる者を除いては基本的に長寿の家系であり、清之丞の妻みゆきも100歳を超えた時に雄勝町から表彰を受けた程ですし、40代で亡くなった曾祖母志めは意外に短命だったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはそれとしても、100年以上も前の辺遠の海浜に、みゆきという、現代でも通じる名前を命名するセンスに、驚嘆と感銘を受けます。とかく意味不明で読めない名前をつけたがる風潮を見るにつけ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
80に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41389463.html</link>
			<pubDate>Sat, 04 May 2019 16:02:18 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章78母方の家系・小牛田平山家の転居、留次郎夫妻の死、貞蔵と継母の対立</title>
			<description>大正14年（1925）11月、中瀬と湊の間を埋め立てる計画が持ち上がりますが、これも実現しませんでした。そんなことしたら恐らく日本五指の暴れ大河・北上川によって門脇側が月のように抉れたことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正15年（1926）2月20日、小牛田平山家戸主平山久之丞が登米郡登米町寺池荒町（登米市登米町）に転籍します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久之丞の次女と3女が登米町内に嫁いでおり、その伝手を頼ったものでしょうが、引っ越しに至った経緯やその後については不明ですが、菩提寺が曹洞宗金剛山真証寺であることは変化なく継続しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小牛田平山家があった場所は現在、渡辺採種場本社になっていて、末裔一族は各地に分散し、些か久の字を偏諱にしたように見受けられます。その子孫の一人が自身のルーツを出来るだけ調べてまとめ上げ、親戚各家に配布しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月25日、平山留次郎と大平みすが婚姻届を石巻町役場に提出し、法律上も夫婦となります。家族の愛とか絆とか、まぁそれもあったでしょうが、一番なのは死後の財産相続を円滑にする目的かと思います。妻平山ではなく、愛人大平ならばみすの財産は平山時永には移らない可能性もあったでしょうから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月25日22時30分、高祖父平山留次郎が本籍地牡鹿郡石巻町門脇字浜横町13番地にて没します。享年67歳。長粛山慈恩院に葬られ、戒名は成覚明光信士。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月7日17時30分、平山すゑことみすが平山家本籍地、門脇浜横町で没します。享年59歳。長粛山慈恩院の平山家墓地に葬られ、戒名は真室智明信女。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月20日、両親、といっても実父と継母ですが、その葬儀も終え、一段落ついたところで平山時永は家督相続の届け出を石巻町役場に提出しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永泰蔵の3男貞蔵は尋常小学校を卒業すると、旧制中学ではなく、石巻高等小学校に進学します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貞蔵はこの頃、同級生らと野球に明け暮れる日々を送っていましたが、帰りが遅くなったのを継母ふくに見咎められ、土蔵に押し込められてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土蔵の中で貞蔵が途方に暮れて泣いていると、父泰蔵がこっそりと入って来て、握り飯を渡します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖父貞蔵の継母からの虐めと、父親の慈愛を受けた、という内容のエピソードですが、この時代はまだまだ男尊女卑が当たり前だったというのに、後からやって来たのちぞえの横暴を、家督が何も言えないという状況下に末永家はあった訳でして、“をなごの持ちたる家”が志めの死と泰蔵の再婚によって相当の変質をきたしていたことがわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういったこともあり、貞蔵は継母ふくを憎悪すること並々ではなく、家族の誰に対しても深く情をかけた祖父が唯一、その死を願う程でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
79に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41389210.html</link>
			<pubDate>Sat, 04 May 2019 08:09:51 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章77母方の家系・間違いだらけの結婚相手探し、末永泰蔵と長女ゑいと次女みつの場合</title>
			<description>紫式部や高橋春男氏が、“何でもない偶然じみたことに何か凄い意味合いを持たせて感動したりはしゃいだりするのは愚か者の思考回路だ”とあっさり書き捨てていましたが、既に40半ばを過ぎた好色一代男は、ここへ来て間違いだらけの嫁選びを犯してしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永泰蔵と大村ふく、例によって婚姻届出してないから扱いは愛人なんですけど、年齢から言っても当然子供は産まれません。それはいいとして、それまで何をしていたのか、出会いのきっかけとか一切不明のこの3妻と、家の事業の手伝いをしながら学校に通っていた3男貞蔵とは反りが合わず、このことで家庭内がギクシャクしてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次いで長女ゑい。牡鹿郡鮎川村大字網地浜（網地島、石巻市）の阿部卯一（1895/96～1977）という人物と恋愛関係になります。しかも阿部卯一はゑい同様バツイチで、弱視を患う一人娘がいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時は親が決めたり、見合い結婚、もとい顔も知らない相手と結婚する（実際婆ちゃんは貞蔵爺ちゃんの顔を結婚式当日に知った）のが至極当たり前で、下手すりゃ結婚式に配偶者が多忙を理由に欠席したりすることさえあった時代に、自由恋愛だなんていうのは、野合密通とか、奔放とか言われて後ろ指さされたり、嫌悪嫉視されたりしたものですが、ゑいは一切意に介しません。&lt;br /&gt;
見合いの風習が崩壊し尽くし、自由恋愛が当然となった現代ですが、状況の壁（遠距離とか）を乗り越えたり、大人達が作ったルール（部活内恋愛禁止とか）を破ってまで想いを遂げようとするのはそうそう居ないのと較べると、その恋魂逞しさがわかります。この時末永ゑい22歳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末永ゑいと阿部卯一が出会ったきっかけは、卯一が末永泰蔵の鯨箱製造工場に職工として勤めたことによります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次女みつに縁談が舞い込みます。相手は平山時永。継母大平みすがしっかり者だった末永みつを大層気に入って、是非時永の妻にと懇望したことがきっかけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、平山時永と末永みつは、戸籍には記されていませんが、叔父と姪の関係にありました。則ち、みつの父親泰蔵と平山時永は異母兄弟に当たるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戸籍上、末永泰蔵は菅野（末永）ひさの私生児ないし母方祖父留吉の孫という扱いで、父親の欄は平山留次郎であることがはっきりしているにも関わらず、婚姻届の無いままに離婚したため、空白となっていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが無ければ役場のほうでもこれは不自然だぞってなったかも知れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際末永みつ自身も難色を示しますが、結局二人は結婚することとなります。そうなってしまった背景には、死期迫る平山留次郎と3妻大平みすの遺言ではないかと思われます。死ぬ前に息子に妻を、というのは命旦夕迫る親心としては当然だし、そこに同族結婚ならば財産の流出も少ないだろうという狡猾な算段があったのではと推測しています。この時平山時永23歳、末永みつ19歳。言う迄もありませんが、婚姻届の提出は後回しになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
78に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41388755.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 May 2019 15:44:15 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章76母方の家系・苦労しないで得たあぶく銭はすぐ逃げる</title>
			<description>大正14年（1925）5月8日、榧野定太郎とマサヨが離婚します。平山姓に戻った次女マサヨは何故か父留次郎の戸籍には入らず、5月15日、再び小牛田平山家の戸籍に復籍します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二人の間に産まれた3男岩信と4男岩光は紆余曲折を経ながらも結局は石巻の母マサヨに預けられ、少年期を過ごします。その際、榧野定太郎はあろうことか息子二人に荷札を付け、貨車で石巻に二人を送ったんだそうです。当時としても十分児童虐待の案件ですが、当時の鉄道会社はよくこんな暴挙を許したなって思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥取の博徒から身を興し、郡山の駅前一等地に流れ着くや、金貸しを営んで一代で財を成した榧野定太郎は、34歳の時、全ての歯を二重の金歯にするという、サメやワニも吃驚の怪挙をします。いや、典型的なヤクザ者の道楽でしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西郷隆盛のファンで、子孫の為に美田を買わず、と称して財産を独り占めにしていましたが、“苦労しないで得た金はすぐ逃げる”と婆ちゃんが訓示する如く、晩年あっさり持ち逃げされたんだとか。&lt;br /&gt;
そしてその最期は、長年連れ添った福島県本宮市出身の妾と共に妾の出身地に在った或る日、橋から川へ転落して水死を遂げてしまいます。享年85歳。正に怪死という他ありませんが、岩光氏は事件性とか暗殺とか、全く意に介していなかったのが印象的でした。&lt;br /&gt;
その遺産は定太郎の座右の銘通り、岩光氏ら遺族には一銭も支払われず、妾が全部かっさらって行ったんだそうで、おいらが“随分と惜しいことをしましたね”と言うと、岩光氏は“まぁ仕方ないさ”と笑ったものです。或いは勝手に死んだ父親なぞどうでも良かったのかも。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月28日、実父平山留次郎とシンクロするかのように、末永泰蔵が石巻町門脇字九軒町から湊字本町82番地に転籍します。母ひさの妹・菅野まさの住所から、既に故人となって空家になっていたと見られる母方祖父菅野留吉の住所に転居したものと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別天地で官吏、材木、精米にて富と財力を涵養し、満を持して石巻に堂々と凱旋を果たしてよりの泰蔵は、主に鯨肉を入れる木箱製造を主軸にした事業を展開していました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後妻末永志め没後の末永家は徐々にではありますが様子が変わって行きました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず戸主末永泰蔵。後添えを求めます。相手は加美郡中新田町町裏（加美町）の大村米蔵・きせ夫妻の次女で、当時の家督であった大村大八郎の姉・ふく。明治12年（1879）4月12日産まれで泰蔵（1月20日）とは約3か月違い。しかも先妻と奇しくも同じ名前ということに何か運命を感じたのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
77に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41387979.html</link>
			<pubDate>Thu, 02 May 2019 14:35:54 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二章75母方の家系・末永志めの死と平山留次郎の独立と転居</title>
			<description>石巻に戻った泰蔵の喜びも束の間、大正13年（1924）5月23日13時、牡鹿郡石巻町門脇字九軒町41番地にて、かねてより体調を崩していた曾祖母末永志めが没します。享年44歳。戒名は徳室妙鏡清信女。義母は勿論のこと、実父阿部千松65歳、実母のゑ61歳よりも早い、実に早過ぎる死でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これより前に、末永志め危篤の報せが桃生郡十五浜村熊沢浜に届きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に末永泰蔵家と阿部家との関係についておいらの取材に応じてくれた故・阿部栄助氏はこの時14歳。小学校を出た後、郵便局で配達員として勤務していました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石巻の末永泰蔵からの報せを受け取った郵便局長は、配達吏の栄助氏に対し、高等小学校に通っている志めの末の妹・まつのに長姉の件を伝えるよう、ひとっ走り行って欲しいと依頼します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時雄勝のどことどこに郵便局と小学校があったのかわかりませんが、相当の距離があったであろうことは、想像に難くありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
栄助氏が小学校に到着すると、果たせるかな授業中で、そこに机に向かっていたまつのに長姉の危篤を報せます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、この時のことを栄助氏は、“非常に印象に残っている”と語っています。それは何故なら、後に栄助氏はこの末の妹と夫婦になり、長い人生を共に歩むことになったからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正13年（1924）は榧野定太郎と平山留次郎次女マサヨ24歳に4男岩光が誕生します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
故・阿部栄助氏同様、おいらの取材に協力し、平山家と榧野家、そして善助について教示下さった故・榧野岩光氏はすぐ上の兄岩信が大人しく病弱だった一方で、不動産経営で成功を収め、極めて哲学的、科学的、歴史的な知識を博く造詣する人物でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例せば、榧野氏の発祥とその歴史から始まって、以前、日本人はどこからどうやって移動して来たか、についての大著を読んで、その後の歴史観に大きな影響を受けた話から始まって、タイムマシンは10次元まで理解しないと造れないのではないだろうか、等々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10次元というのは恐らく、仏法でいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、縁覚、声聞、菩薩、仏の十界論に相当、ないし対応する概念なのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正14年（1925）3月23日、長らく甥の戸籍に入っていた平山留次郎一家が、石巻町門脇字浜横町13番地（石巻市門脇町）に分家独立します。漸く感が否めないのですが、3男時永、3女フヂもまた、父と共に新しい戸籍に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、北上川からの上水道利用は絶望とのことで、牧山からの山水を利用しようとの仰天の計画が石巻町に持ち上がりますが、まぁ結局と言いますか、当たり前と言いますか、現在も北上川の水を石巻市民は飲んでいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月、13代石巻町長に宇和野源三郎が就任します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
76に続きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006/41384482.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Apr 2019 10:20:47 +0900</pubDate>
			<category>宮城県</category>
		</item>
		</channel>
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