川音の記

猛威をふるった低気圧。それから一転秋晴れの日々。続いてくれるといいなあ。

義母の認知症

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要介護認定

先日認知症の義母のことを少し書いたが、
義母は亡くなるまでの2年間を特養で過ごした。
その時にはもう他人を識別するのも困難な時間が多かった。
その前1年半は老健。
このときは特養の入所待ちという条件で入っていたから、
この3年半は、家族にとって施設探しから解放された、
安心の期間だった。

介護保険が始まってから施設を利用しようとすれば、
介護認定を受けなければならなくなった。
受けるときには福祉センターへ行く。
そこでカウンセラーと専門医が面接する。
義母が受けた頃は、
自立可、要支援1、2、要介護1〜5、
という段階に分けられていた。
今はもっと細かく別れているかも知れない。
最初の頃、認知症はこの段階が低く判定されることが多く、
認知症患者の家族から多くの不満が出された。
なにしろ、認知症患者は多くの場合外面が良く、見栄っ張りで、
自宅では数々の問題行動を起こすのに、
カウンセラーや専門医の前ではしっかり応対する。
義母も何度かの面接で1度として破綻を見せなかった。
しかしそこは良くしたもので、慣れているのか、
専門家はそんな認知症患者の「演技」には騙されない。
そこは専門家を信用して良いと感じた。
しかし、相対的に要介護度の認定が低かったことも否めない。
なにしろ、身体はどこも何ともないのだから。
身体に持病を抱え、歩けなかったり、車いすだったり、
寝たきりだったりすると要介護度が高くなる傾向があった。
こういう傾向に対し認知症患者を抱える家族は、
「いっそ寝たきりになってくれれば」
といって嘆いた。
が、それも最近は改善されてきたようだ。
まあ、これは医学的研究が進んできたことによるのだろう。
それとともに認知症に対する世間の理解も格段に進んだ。

介護度の認定は主治医の所見や福祉センターでの
専門家の面接を経て、判定会で決定される。
義母はいきなり要介護2に判定されたから、
福祉センターの担当者に感謝しなければならない。
あとはケアマネージャーと相談しつつ、
介護方針を決めるのだが、問題はここから。
介護方針が決まっても施設はどこも満杯。
思うように方針通りに運ばない。
ヘルパーの派遣、デイケア、特養への短期入所、
老健、グループホーム、病院、特養と、
あらゆる公的支援や施設を利用したが、
どこもこうした老人であふれていた。
そして先にも触れたように認知症は受け入れ施設が少ない。
デイケアは定員オーバーで利用できるのはせいぜい週1回。
特養は2〜3年待ちはざら。
老健もなかなか入れない。

最初の頃妻が仕事を持っていたから、
たびたびヘルパーさんを頼んだが、
そのうち義母が、
「あの人の味付けは濃くて、わたしには食べられない」
「あの人は買い物の釣り銭をごまかす」
「わたしの指輪がなくなった。あの人が盗んだに違いない」
などというに及んで、ヘルパーさんに来てもらうのを諦めた。
誓っていうが、ヘルパーさんはそんなことはしない。
すべて義母の思いこみだ。
週1回のデイケアでは義母は外面の良さを発揮した。
一度、デイケアセンターを訪ねたときのことだが、
門の前に男の老人が小学校にあるような机を前に椅子に座っている。
昼時だったが、そこへ職員が食事を運んできた。
盆に載せられた食事を前に老人は、
腕組みをして憮然とした表情で通りを眺め、
いつになっても箸を付けようとしない。
中の用事を済ませ、門の前まで戻ってくると、
老人は先ほどの姿勢をなおも崩さない。
職員が所在なげにそのそばに立ちつくしている。
先ほどから1時間は経っているというのに。
暗澹とした気分に襲われたことを今も鮮明に覚えている。
職員に聞いたところでは、
この老人は軽度の認知症でデイケアに週に2回来るそうだが、
いつもこうだという。
そして家族とともに福祉センターへ行くのも拒んでいるという。
そう、最初に連れて行くときこそ大変なのである。

脳血管性認知症

ぼくがときどきおじゃまする「ごまめでも尾頭つき」
というブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/anzuk2)で、
ご自分のお母様の認知症診断に触れられていた。
ぼくの義母は80歳を超えた頃から症状が顕れ、
89歳で亡くなるまでずっとこの病気に悩まされた。
認知症(痴呆症)には二つの種類がある。
アルツハイマー型と脳血管性型である。
日本人はこのうち脳血管性型が圧倒的に多いとされる。
欧米では1:1くらいだそうだが、
日本では8割方脳血管性だ。
脳血管性の場合、CTスキャン、MRIなどではっきりわかる。
過去の小さな梗塞や出血の痕跡が鮮明に映し出されるからである。
しかし、難しいのは点々と多数写るこうした部分が、
必ずしも認知症の程度や症状を示すわけではないところだ。
難しいことは専門家に譲るが、
例えば脳のこの部位に多くの梗塞が見られるから、
こういう分野に影響があるだろうとといったことがわからないのだ。
しかも言語や記憶、運動能力や空間認知ばかりでなく、
猜疑心が強くなったり、強迫観念にとらわれたり、
他人に攻撃的になったり、自閉的になったりと、
さまざまに心の領域に属する問題も出てくる。
妻はこの義母の3人姉妹の末っ子で、
上2人の姉が遠隔地にいたため、
亭主と2人で面倒を見ていた。
最初はまだらぼけで、ぼけていると思われる時もごく一瞬で、
まあ、とんちんかんな対話を楽しんでいた程度だったが、
そのうち少しずつぼけている時間が長くなり出した。
最初の症状を呈してからおよそ5〜6年経つと、
1日のうちぼけている時間とそうでない時間が逆転した。
さらに死の2年前くらいからはほとんど「正気」に戻らなくなった。
義母が本格的に認知症の症状を見せるようになったのは、
83歳の頃だったが、妻への強い不信感を言いつのるようになった。
「年金手帳を娘にとられた」
「土地の権利証を娘に売り飛ばされた」
などと親戚のものから電話がかかってくるたびに訴えるようになって、
手始めに妻は区の福祉センターに駆け込み、
カウンセラーや専門医に相談した。
いつも大きな袋にCTスキャンとMRIで撮影したフィルムを抱えて、
駆け回っていた。
ガスを使うことを止めるようにいったのはそんな頃だった。
いくら口を酸っぱくしていっても、義母はガスを使うのをやめなかった。
やれミルクを温める、おじやを煮直す、といってはガスを使う。
ガスを使うのを止めさせようと思ったのは、
ミルクを温めようとしてガスにかけ、そのまま忘れてしまったからだ。
ミルクが吹きこぼれ、ガスの火を消してガスが漏れだした。
その間義母は自分の部屋に戻って長電話をしていた。
ガスを使っていたことをすっかり忘れていたのだ。
その直後に妻が帰宅し、ガスが台所に充満しているのに仰天した。
ガスが充満していた台所にいたワンコがよろよろと近づいてきて妻に助けを求めた。
こんなことが2度3度と続いた。
すぐにガス会社に連絡、オーブン付のガス台を3段階の安全装置のあるものに換え、
ガス漏れがあると自動的にガスを遮断するとともに、
電話でもガスを遮断できる「マイツーホー」を設備した。
それ以来、病院、老健、特養と施設巡りが始まった。
義母には呼吸器系の別の病気もあって、
そちらの治療もしなければならず病院とは縁が切れなかった。
しかし、認知症が始まると、点滴は勝手に引っこ抜く、
夜中に病室の天井の隅に敵がいて襲って来るだのと強迫観念に襲われ、
挙げ句には徘徊も始め、警察のお世話になったことも一再ならずあった。
時に自傷行為も行った。
ある夜病院を訪ねると、義母は全身血に染まり、
白い髪を逆立て、虚ろな目で壁を見ていた。
妻とぼくは顔を見合わせ、
「安達太良山の鬼婆か」
昼間「正気」と見えるときにも病院中を歩き回り、
そこら中のテッシュペーパーを集めまくった。
このため義母のベッドの周りは白い紙だらけ。
どこかの新興宗教か!と笑ってばかりもいられない。
認知症にかかっている老人を受け入れてくれる施設は、
思っていた以上に少ないこともわかった。
軽度の時には受け入れてくれるところも多いが、
中度以上になると極端に受け入れてくれるところが少なくなる。
が、想像以上に良心的、献身的な施設もあることも知った。
制度的にも以前老健は6ヶ月単位の入所が基本で、
帰宅することが前提だったが、今は運用が大幅に改善され、
特養の入所待ちの間、2年近く受け入れてくれるところもあるようになった。
しかしこれは、施設を運営する人々の考え方次第で、
こうした仕事に従事する人々の善意に依存している印象で、
制度的にはまだまだ遅れているのが現実のようだ。

介護もまた楽し

義母が亡くなるまでお世話になっていた施設が、
八王子市の郊外にあった。
施設は渓流・北浅川の流れに面し、
山側には斜面に開かれた寺院があり、
その後背は深い山が連なっていた。
義母というのは妻の母で、
この施設にお世話になる数年前から認知症にかかり、
引き受けてくれる施設がなくて大変に苦労した。
しかし、この施設とその前にお世話になった、
その近くにあった老健ではとても行き届いた介護を受け、
晩年は平安に暮らすことが出来た。
施設は自宅から50キロほど離れていたが、
週に1回のちょうど良いドライブは、
ほどよい気分転換になった。
施設への行き帰り、あちこち行くことも出来た。
「夕焼け小焼け公園」へ行って、
地元で採れたジャンボ椎茸はとくに気に入った。
この公園内の食堂の田舎そばは野趣豊かでなかなか美味しい。
陣馬街道沿いには他にも見るところがたくさんあった。
八王子に来る前まで、
義母は茨城県常陸太田市の病院にいた。
当時ここしか受け入れてくれるところがなかったためである。
東京から片道165キロ。
洗濯物など荷物も多いことから、
それまであまりしなかった車の運転を余儀なくされた。
妻が車で往復しくたびれ果てるのを見かねた結果であった。
ところがやはり週に1回、
定期的に往復し出すと、
行き帰りにいろんなところに立ち寄ることになる。
おまけに常陸太田市周辺には、
行って楽しいところが多い。
水戸黄門の西山荘、奥久慈の袋田の滝、
久慈海岸、龍神渓谷(大吊り橋)などなど。
周辺の果樹園地帯なども季節によっては良い。
益子焼、笠間焼の里にも行った。
ぼくがとくに気に入っていたのは、
常陸太田から奥久慈の途中を山へ入って行くと、
山から流れ出る清流がある。
そのほとりにこの渓流を利用して川魚を養殖しているところがある。
北沢というところだ。
そこでは釣り堀もあってイワナ、ニジマスを釣ることが出来る。
釣り上げた魚は食堂で焼いてくれる。
もちろんそのまま持ち帰ることも出来る。
ぼくはイワナを専門に釣り、
ワタを抜いて塩をふってもらい、
家に持ち帰って焼いて食べるのを常にしていた。
飼っていたワンコたちも義母が会いたがるせいもあって、
いつも連れて行ったが、彼らもこの非日常を楽しんだ。
ワンコはアメリカン・コッカー・スパニエルの雄、
それにシーズーとマルチーズのミックスの雌の2匹。
アメリカン・コッカーが車に弱く、高速は大丈夫なのだが、
田舎道を走ると決まってゲーゲーやった。
道中、酔ったワンコを慰め、励まして通った。
だがそれも通った2年間の後半にはなれたようで、
酔わなくなった。
もちろん八王子に代わってからもワンコは一緒だったが、
50キロくらいの距離はへでもなくなった。
こうして茨城県全部とはいわないが、
常陸太田市周辺を知悉できるようになった。
陣馬街道沿いは極める前に義母が命を召された。
こうしてみると、義母の介護がなければ、
いずれも縁もゆかりもない土地だった。
介護もまた楽しというべきか。

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