哲学

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思いて学ばざる

学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し
 
 
 
孔子の言葉です。
 
 
どんなに学んで知識を覚えていっても、
 
自分の頭で考えることをしなければ、ただの暗記になってしまい、
 
本当の意味で知識を身につけたと言うことはできない。
 
けど、自分一人で考えるばっかりで、
 
他から学ぶことをしなければ、それは独り善がりになってしまい、
 
これもまた危ういものである。
 
 
まあそんな意味で、初めてこの言葉を知った時から、
 
俺は「思いて学ばざる」人だよなーと自覚はしているのですが、
 
やっぱりナルシストなせいか、他の人から学ぶことが苦手です。
 
デカルトとかニーチェを初めて知った時も、
 
「あれ、こいつら俺と同じこと考えてね? それで教科書に載っちゃうとかどんだけ〜」
 
みたいな痛いことを思っていたくらいで、
 
それなら大抵誰かが考えてることなんて、自分一人で考えてても思いつけるじゃん、
 
なら勉強する必要なんてないね。
 
とか、もうそれはそれは独り善がりな思想になってしまい、
 
せっかくの孔子様の言葉も全く身になっていなかったわけです。
 
 
 
ただ確かに哲学レベルの話なんて、どんなに難しそうに書いてあっても、
 
結局は自分自身から発生する問題なので、独り善がりだろうと何だろうと構わないのですが、
 
実生活に関わってくる部分、つまり社会っていうのは人と人との繋がりの中にあるので、
 
長年培ってしまった独り善がりな「思いて学ばざる」のポリシーが、
 
いかに危険なものであるかということに今更ながら気付くわけです。
 
 
 
考えていることはいっちょまえでも、
 
現実の知識に紐づかないので、社会的には何の価値も生まれません。
 
ただの中二病でしかないのです。
 
 
 
要するに勉強しろよ、ということです。
 
でもしたくないからうだうだこんなことを書くのです。
 
 
 
 
……死にたい。

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死後の世界

死後の世界があるかと言う問いには明確に「ある」と断言する。

天国や地獄と言った具体的なものではなく、死後の世界は少なくとも「無」ではない、

という意味においてだが。

死後の世界が仮に無であった場合、今ここに「自我」が成立していること自体が不可能なのだ。




生まれる前の状態は確かに無であったと思う。

自分が生まれる前、初めての記憶を持つ以前のことは今では想起することが出来ない。

その状態がどのようなものであったか、想像することすらできないと言う時点で、

やはり生まれる前の状態は無であると断言することができる。




だが、それを死後の世界にも当てはめてしまうと奇妙なことが起こる。

われわれは現在「無」ではない存在であるにもかかわらず、

着々と「無」への道を辿っていると言うことになるのだ、

つまり想起することの出来ないあの生まれる前の世界へと、




しかしそんなことが果たして可能なのだろうか、

確かに生まれる前は無であったかもしれない、

だが、今現在自分は「自我」という「有」の存在になってしまっている。

これは紛れもない事実だ。

自我論やコギト命題は置いておくとして、現に自分が生きているというクオリアを持ち合わせているのは否定のしようがない。

故に、「自我」は「無」ではないと証明することが出来る。




しかし一旦「有」になってしまったものをまた「無」に戻すことは可能なのだろうか。

人間のクオリアと言うものが、単なる脳内の神経物質の伝達における随伴現象に過ぎないと言うのであれば、

脳の活動が停止した時点でそれらは消えてしまうと考えてもいいだろう。

しかしクオリアというものは、単純に脳の随伴現象として捉えられるものではない。

それは自らの「自我」が感覚的、経験的に認識するところでもある。

ある一定の波長の光が網膜に投影されたとき、それらが視神経を通って脳にある一定の刺激を送る。

その時に脳は「赤」という色を知覚する。これは脳波の測定などによって客観的に証明が可能かもしれない。

だが、自分が見ている赤がなぜ「この色」なのかは決してそれらの科学的証明と連動するものではない。

もしかしたら自分には「赤」だと思っている「この色」は実はAさんには自分の知覚する「緑」と同じ色に見えているのかもしれない。

もし自分とAさんの知覚を丸ごと入れ替えたら、人間はみなナメック星人のように見えてしまうかもしれないのだ。

しかもそれは永遠に証明が出来ない。

クオリアというものを何らかの形で共有することが出来ない限り、

否、クオリアを共有したと言う時点で、その知覚は一つに収縮されてしまっている。

クオリアを共有する以前のAさんの知覚について、自分はやはり永遠に知ることは出来ないのだ。




話がそれたが、つまりクオリアと言うものが、脳の活動と結びつけることが出来ない以上、

クオリアの終焉は脳の活動の停止と同一にすることは出来ないのである。

つまり一度生まれてしまったクオリアは、脳の活動が停止した程度ではなくならないのではないか、

むしろそれがなくなると言う状態を人間は想像できない。

「有」の存在である自我が「無」を想像することはできないのだから。

そしてそんな人間の自我に想像できないことが、人間の自我に起こりうるのだろうか。




例えばたった今、自分の脳の活動が停止したとしよう。

実は凄腕のスナイパーが自分の頭を狙っていて、その弾丸が音もなく頭蓋骨を貫通する。

そして自分は殺されたと言う認識もなく脳の活動を停止させる。

それは客観的に見たらその人間の死であるとされるだろう。

だが自我はどうだろうか、脳の活動が停止した瞬間に無に還るのだとしたら、

たった今、ここでタイピングをしていると言う印象、クオリアもなくなってしまうことになる。

だが「無」とは文字通り「無」である。

そこに空間や時間の概念はない。

「無」は過去を想起することが出来ない。

たった今まで持っていた文章をタイピングしているというクオリアがあったことも想起できない。

そんなことが実際に起こりうるのだろうか。




人間は「今現在」しか認識することが出来ない。

そして「今現在」というのは刻々と変わっていくものだ。

過去に起こった出来事というのは「今現在」の自分が、過去を想起することでしか思い起こすことが出来ない。

そして「今現在」は確実に死後の世界に向かって進んでいる。

もし死後の世界が「無」であるならば、この知覚できる「今現在」は「無」に近づいているともいえる。

というより「今現在」が「無」になることは疑いようのない事実。

つまり、過去を想起することも、自我を維持することも不可能な「無」になることがすでに決定している。と言うことになる。

そして、「無」になってしまえばそれはそこから変化することはない。それ以上にもそれ以下にもならない、絶対的な「無」が残るのみだ。




だがそうなったとき、自分が生きてきたこの「有」もなかったことになってしまう。

「有」が「無」になる。それは論理的にありえない。

だって現実にこうして知覚する自我である「有」があるのだから。

こうして実際に自分が「有」という存在になってしまっている時点で、死後の「無」はありえない。

それがどんな形であるにしろ。この「有」のクオリアは消えることはないのだ。




一つ、死後の世界は無であるのかもしれない、と思わせるのは痴呆症である。

人間は「無」である死後の世界に備えるために、限りなく自我を「無」に近づけるようになっているのかもしれない。

もしかしたらそうやって天寿を全うし、無に近い自我を手に入れた人間には「無」である死が用意されているのかもしれない。

しかしさっきのスナイパーの例のように直前まで自我を持ちながら死んでしまうという状況においては、

その説は適用されないだろう。

それは自殺者は天国に行けない、と言った言い伝えにも表れていることだと思う。

具体的な自分の死生観についてはまた述べるとして。

どんな形にしろ、死後の世界は存在する。

存在すると思って生きている方が、生きる楽しみも2倍になるというものだ。




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