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侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

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究極の禅

■究極の禅


 究極の禅とは何かというと、禅をしないことである。

 禅に関わらないことが究極の禅ということだ。

 禅を学ぶ世界には2つの手法があり、ひとつは座禅でありもうひとつは公案である。

 座禅とは考えないことを目的とする。公案は考えることを目的とする。

 したがってこの2つの手法は相対性をもつ背理同士の関係である。


 究極の禅とは禅をしないことであるから、考えることと考えないことの両方をも捨てることだ。

 さああなたは何ができるであろうか。

 答えは簡単である。

 禅の世界を忘れた日常生活を送ればそれでよいということだ。

 この答えに気がつくまで延々と修行をして遠回りする。

 禅の修行過程を描いた十牛図というものがある。

 十枚の牛と人間の姿が描かれているが、1枚目から10枚目まで順番に1つの物語形式となった絵画だ。現代メディアに該当するものを考えると絵本と変わらない形式となっており、1枚1枚の構成が絵と文になっている。

 そして最後のページにてすべての禅の修行が完了した形となっているのである。

 究極の禅の意味は最後の10枚目に描かれている。
  
 繰り返すが、禅の究極の目標とは禅の世界を知らない日常生活を送ることである。

 いいかえると、「余計なことを考えるな」という意味だ。

 世の中の禅僧は余計なことを考えすぎているからまだまだ修行の過程から抜け出ることができないでいる。

 世の中は余計なことを考える人のために座禅することを勧められるのである。


 しかし、十牛図の1ページ目というスタートラインに立ち、そこからページをめくって最後の10枚目のページにたどりついたとき、そこで改めて気がつくことは、1ページ目に戻っているかどうかである。

 そこで1ページ目に戻っている者は、またページをめくりなおさないといけない。

 何度読んでも理解できないからである。

 そしていつか理解することができて十牛図を忘れてしまったときに、初めて十牛図の完璧なる理解が完成することとなる。

 
 禅の完全なる理解とは、禅を忘れることである。

 だが、禅を忘れるということは禅を知らぬ者との差に天地の開きがあるということをじゅうぶんに踏まえておくことだ。


 忘れたことは思い出せるが、知らないことは思い出すこともできないからである。

 人間の子は禅を知らぬ。教えても絶対に理解できぬ。

 理解できない過程においては、いくら教えても理解することが絶対にできない。

 せっかく井戸の水が飲めるほど美味しい水で生まれてきたのに、そこに世の中の泥がドンドン投げ込まれて汚くなり、とうとう大人になったときには、飲めない水と化してしまう。

 そうなると、いくら禅の真理である「忘却」を教えても理解できない頭になってしまうのである。

 忘却とは知っていることを忘れることであり、知らないことを受け入れてから忘却が始まる。

 ここで最も肝心なことは、知らないことを教えても受け入れない状態では、忘却することに到達することができないということである。

 受け入れる姿勢ができていないと、濁った心の水はいつまでたっても心の井戸の奥底に沈殿して取り出すことができない!いくら教えても無駄であり、本人が気がついて努力しない限り他人は手の施しようがないということだ。


 洋画家の中川一政が洋画家でありながらも水墨画や書をたしなんだ理由はおそらくそこに気がついていたのではないのかと思われる。

 このブログで何度も紹介しているが彼の言葉を引用すれば「井戸のなかの濁った水を全部出し切らなければ、本当の絵画を描くことはできない」と東京芸大の学生どもに語った点である。

 自分はジャンルを飛び越えて古今東西の美術作品を数々検分してきたが、古典はすべて井戸のかいぼりがきちんとできていた。清純なる井戸水の心で描かれている作品ばかりであった。

 これは別に美術の分野だけではなく、他のあらゆる分野にも共通し、かつ、推し進めていかねばならない思想であると思われる。

 忘却の域に達した者がそれを思い出して語る言葉には、最も深い含蓄があり、これに対して一切の者は言い訳無用である。「だが」「でも」「しかし」の接続詞を口頭に述べてはならず、受け入れなければならない。
 


■10年修行


 鮨屋にて一人前の板前になるには10年かかるそうだ。そこをいろいろ考えさまざまな意見を斟酌してみたが、自分の結論はこうである。少子高齢化の問題が背景にあるのかもしれないと。しかしこれは別の視点で考えると、大衆が減少するだけであって、個々の人間交流の差は希釈化するどころかますます深く密なる関係に移行してゆくのではないかとも言えるのである。


 そこで必要となるのが、すでに着々と準備していた10年修行が役に立つ。


 一人前の板前とは、店の運営の全責任者として、あらゆる鮨ネタの仕入れから調理、接待、清算までひとりで全部できることを意味する。ここに書いた条件のひとつも欠けては一人前の板前とは言えない。

 これを考えると、10年では足りないと思われる。むしろ修行は一生続くものと考えられる。

 そのいっぽうで、この一人前の板前の条件から外れた考え方をするならば、回転ずしチェーン店のような存在が世間にはびこることとなる現象はじゅうぶんに理解できるだろう。

 世の中には、10年修行すること自体、要領がよろしくないとか、考える人もいるが、それは鮨職人の仕事をしたことがない関わったこともない人の言う身勝手な放言である。

 直接現場を知らぬ者が語る内容は、空理空論の妄想にすぎないのである。


 美味しい鮨を美味しい日本酒と一緒に飲食しつつ板前と語り合いながら過ごす極上の時間を知らぬ者が、板前の努力を知らないのである。

 要領を気軽に軽口言う者は、考えが浅い。浅すぎる。


 要領を語る場合に合理性をもつのは、商売道具の選定だけである。

 それ以外は、人間の力ですべてをやりこなさねばならないので、そこを十分に勘案すれば、決して要領や器用という言葉は出てこない。

 簡単にやりこなしているように見せたり思わせたりする技術は、慣れであって、この慣れは、鮨職人に限らない。

 さまざまなオーダーが毎日入ってきて適切に最上の料理を提供することができる京都の有名料理店の鮮やかな慣れた作業は、簡単な要領で覚えてすぐ作業できるはずもない。10年以上同じ現場のなかであらゆる注文に答えながら、適切に要領よく料理を作ってゆくには、慣れが必要である。その慣れを体得するのに他の料理の場合も10年以上かかるということだ。


 大量に大量製品を販売する要領は、誰でも簡単におもいつく。


 そんなことを思いついても誰も賢いとは思わない。

 ダイソーの社長がなぜメディアに出ないかというと、自分のしている仕事内容が、下品であるからと知っているからである。


■ 推薦と一般の違い

 自分は一般入試組だったが、ゼミの友人の多くが推薦組であった。だからちょっと、あんまりね、一生懸命勉強しようという意識が足りないと思われた。

 1点に100人以上が並ぶ入試の世界では、1点に泣く人もおおいだろう。あと1点あれば合格できたのにと。

 だが、満点とるつもりで、高校3年の全範囲の学習をくまなく隅々までやっておけば、入試など怖くないのである。

 穴を作らないこと。山を張らないことである。

 平均的にどこからでてもきちんと答えられるようにすれば不安はおきない。

 学習とは、とにかく誰でもじっくりと腰を据えてかかれば、必ず習得できるようなシステマチックな体系をもつものであり、それが教科である。

 人によって教科のなかに苦手な部分と得意な部分とがあるかもしれない。そこを苦手ではないけれども得意でもない状態にまで一応きちんと正解を出すことができるように均すことが学習のポイントである。

 したがって、入試レベル程度では、ハーバードやケンブリッジやスタンフォードであろうと、常識レベルをちょっと変形した質問が出てきても、自信をもって間違った答えを言えばよいのである。その間違った答えが常識である。

 そうすると、その常識を突っ込んだ別の角度で質問がくるだろうから、そのケース事例の場合を適切に答えればよい。

 いきなりあらゆるケース事例を想定した総合的な回答をしようとすれば、試験官は必ず混乱することになる。

 まずは基本をきちんと抑えることで、試験官を安心させ、そこから面接者は戦闘準備に入るのだ。


 高校までの学習範囲は常識であるから、まずは常識の質問が与えられると、その常識に対する正当な答えを提示する。ここで余計な考えを出してはいけない。それ以上の深い考察を勝手に加えて答えてはならないのである。それ以上の深い考察をするように仕向ける質問が次にくるからだ。

 基本をきちんとまず抑えてそこを指針としてから、応用事例に入ってゆくことが、面接の王道である。

 世界的に著名なスティーブン・スピルバーグ監督は自作監督作品のハリウッド映画「太陽の帝国」のキャスティングに日本人の軍人を配役として数多くの日本人の俳優と面接したそうだ。そこに映画やドラマ俳優の武田鉄也さんもキャスティング応募に参加してスティーブンと面接した。武田氏は事前にしっかりと英語の学習をしていたので、スティーブンの質問に対して、スラスラと流暢な英語で回答した。それにスティーブンはたいへん喜んだという。だが、配役で決まった日本人は、元プロボクサーのガッツ石松氏であった。ガッツ石松氏が採用されたことに武田氏はショックを受けたらしい。ガッツ石松氏は、英語がほとんどできなかった。だが、スティーブンは流ちょうな英語を話す日本人は軍人に向かないという情報をあらかじめ応募者に与えていなかった。そこで流ちょうな英語を話す武田氏を落としたのである。

 採用側の事情を深く勘ぐってけっきょく落とされた武田氏は感動したそうだ。「そういえばそうだ。大日本帝国陸軍の軍人が流ちょうな英語を話すとおかしいよね。ただの軍人であり通訳でもないのに」


 試験官の質問に関してはオウム返しの原則がある。

 この原則を外すと、試験官の心証は極めてよろしくない。

 推薦と一般の違いについて話を戻す。

 推薦は一般入試を経ていないため、オウム返しの原則を知らない。むしろ常識知らずの場合がほとんどである。


 クラッシックギターの名曲「禁じられた遊び」をカバーするとき、あくまで「禁じられた遊び」の基本コードは守らねばならない。

 弾き始めから「禁じられた遊び」ならぬ「禁じられていない遊び」になるようなオリジナリティを発揮してしまうと、それはもうカバーではなくなってしまうのである。


「禁じられた遊び」というルールがまずあって、そのルールを少し自己の感性にもとづいて編曲することがカバーであり、そのルールをいきなり踏み外した禁じられていない遊びをしてしまうと、編曲にならないのである。

 推薦組が常識としている学習範囲は、一般入試試験の範囲内を知らない状態においてそのまま入学してくる。これに関して、大学側はその試験範囲の実力を各高校の教育課程における理解が十分になされていると見なしているから、一般入試試験を受けなくてもよいとされているからである。

 一般入試組は、年に1度の試験をわずか数時間のあいだにすべての力を発揮しなければならない。あとにもさきにもそれしかないわけで、それ以外にも全国から集まってくる受験生と競争して勝ち残ってゆかねばならないのである。その集中力と学習力の違いが、推薦組の緩い意識にはなかなか理解できないところなのである。

 
 
■キムチ納豆玉子かけご飯

 倹約の賄い料理としてこの簡素な飯の奥深い味わいは、舞妓ソバに通じるものがあるのかもしれない。京都のとあるそば屋の裏メニューに舞妓ソバという舞妓の仕事を終えた女性たちの要望から生まれた独特なそばがある。ソバに入っている具が、キムチと納豆と玉子。それとめんつゆ。かき混ぜて重たくなったソバを箸ですすりこむように音を立てて食べるのである。これもまた乙な味わいらしい。キムチが疲れた体に合うようだ。

 京のお茶屋遊びは紹介制がほとんどであり、俗に”一見さんお断り”と言われる。一見さんとは懐具合を含め、店にとって正体がわからない飛び込み客である。飛び込み客が大方遊んだあとに支払いができない事態が生じるのを防止するという理由もあるが、本来の茶屋遊びの目的は、嫌らしい金品の授受を通さない状態をつくり人同士の心のつながりを大事にすることである。
茶屋遊びのあと招待客の接待費用の請求書は紹介者に届けられるので、店において直接支払いをすることがない。



■世界の果て

 孫悟空が金斗雲に乗り大空をはるか遠くへ飛んだところ、5本の柱が地上から突き出ていた。「ここが世界の果てか!」そう叫んで喜んだ悟空は柱の一本に大きな筆で「ここが世界の果てだ!」と書いた。そこで勇ましく引き返して釈迦如来に報告した。
「俺様は世界の果てに行ってきた! そこに柱が立っていたから目印をつけておいてやったぞ さあどうだ釈迦如来、おまえに俺のすごさがわかっただろう! 俺様が書いた字を見てこい! どうだ? おまえにはいけねえだろ? あっはっはっはっは」
悟空は誇らしげに釈迦を笑った。
 すると、釈迦はおもむろに自分の右手を悟空にさしだし「おまえが私の指に書いた字はこの字かい?」と言って優しく微笑んだ。
 釈迦の中指には悟空の字が「ここが世界の果てだ!」と大書されていたのである。
悟空は驚いた。
 釈迦は静かに諭した。
「悟空よ。どんなに遠くへおまえさんが飛んでも、けっきょくは私の手のうちから出ることもできないではないか。これがおまえさんの力なのか。愚か者め。井の中の蛙とはおまえさんのこと。私の桃園からおまえさんが私の許しも得ずに勝手に食べた桃の数だけ、おまえさんは岩のなかで反省するがよい」
 そして釈迦は悟空を五行の山の岩のなかに閉じ込めた。それから悟空は自然の摂理を顕す五行の山のなかで、自然の摂理に反する行為を行った罰として、10万年もの長い間を岩のなかで、死ぬこともできずに反省することとなった。

 伝呉承恩作「西遊記」の一部を改変した。人間は世界の果てを求めてインターネットの世界を通じて、国境を簡単に飛び越えることができるようになったが、それは単なる意識の課題克服であり、この意識の課題克服は生身の肉体を飛び越えることはできない。

 人間の意識とは、たとえ孫悟空のような空想の物語に例えられるように、無限なる想像をすることが可能である。

 その意識を、ちょっと本来の五行から考え直してみる。このフィフスエレメントが人間の基礎をなし、それを人力で可能な限り飛び越えようとする者たちが、インターネットの世界を作ってきた。

 パブロ・ピカソは自らの芸術で大富豪になったが、それを支えた妻の反抗により、自分のプライバシーを全世界にさらすこととなった。いかにして金儲けできるか、どうすれば儲かるか、どのようにアピールして広告すれば、自分の絵画を高く売ることができるか、妻のアドバイスがあったからこそ、ピカソの演技力の裏の顔を世界に知られてしまったのである。妻の著作物は世界的にヒットした。ピカソは怒り狂い、妻を訴えた。妻と闘い、敗訴した。

 敗訴したピカソが妻に言った言葉はこうである。

「負けたよ」

 ピカソは妻に侵害されたプライバシー権の復権を妻から奪い取り勝利するつもりだったのであるが、それが負けたのである。

 勝つつもりだった。

 勝つこと。

 勝利すること。

 このピカソの志向性が西洋人の意識そのものである。

 勝って何が悪い? 負けたほうが間違っているんだから。

 その西洋人の意識が日本に持ち込まれた。

 孫悟空は不老不死という人間がもてる最大の欲に駆られたが、西洋人は不老不死という自然の摂理に反した行為に逆らうつもりはない。逆らうのではなく、無視したのである。誰でも寿命はあるゆえ、その個々に与えられた寿命のなかであれば、いかなる闘争であろうと勝利を求めようと、それは人間の権利である。

 いつのまにかこうした小さな欲が人間の権利として、プライバシー権という問題をも踏み越えて、主張するようになった。

 世界は大富豪の大芸術家パブロ・ピカソの私生活を知りたがった。なぜ彼は大富豪になれたか? ピカソが大成功を収めた策略が妻の著作物にすべて書かれていたから、妻の著作物は大ヒットしたのである。

 これも欲だ。

 大衆の欲。羨望。嫉妬。

 人間は不老不死までは求めてはいないのだけれども、個々の寿命のなかで、それぞれの権利と欲を満たそうとすることは、良くないことだとは思っていない。

 だから五行のネタを一般はほとんど知らない。

 人間は欲の突っ張った連中らに自らを合わせるために、変化を遂げてゆく。

 欲深さが欲深さの連鎖を産み、それが大きくグローバル化してゆくのである。

 勝利するのは簡単である。相手を倒せばよい。

 可哀そうなのがプロボクシングだ。

 王者になると、次から次へと挑戦者があらわれてくる。

 王者は、弱い挑戦者を選んで、防衛を積み重ねることができる。

 自分が負けてしまう恐れがある強い挑戦者を選ばないのは防衛を維持する賢いやり方であるが、これが人間の縮図である。

 20世紀世界最大の芸術家であるパブロ・ピカソは妻に「負けたよ」と言った。

 彼は妻に勝つつもりだった。

 妻を甘くなめていたからである。

 男のエゴは、そこらじゅうにあふれかえっている。

 別にピカソだけではない。

 そこら全部だろうか。

 だが、エゴがあるからこそ、今の社会ができあがった。ありがとう。

 それに感謝する。

 自分はエゴイズムを正当化する。

 それは犯罪ではないし倫理にも反していない。

 五行に反することなく、

 決して輪廻転生はなく、

 一生は一度であることを思えば、

 エゴイズムはむしろ推進すべきものだと言えるだろう。

 需要を満たすために供給が実施される。

 この基本構造が全人類の古今を問わない人間行動の真理である。

 問題が生じれば、個々に対処すればよかろう。

 人間の欲には、それぞれ大小がある。

 さまざまな情報があれども、それを排斥することが、大事。





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    究極の禅とは禅をしないこと。と聞いて私はたいへん心が落ち着きました。
    座禅を知ったのは小学校3年の頃でした。中学の時は禅道会にも参加しました。
    公案の本や禅語の本も何冊か買い研究しました。得たものは多くありますが、どうしても心に引っかかっていたものがありました。それがきれいに取れたような気がして楽になりました。
    現在54歳になります。これからは禅問答や禅語を忘れた日常生活を送っていきたいと思います。本当にありがとうございました

    [ 克(かつ) ]

    2018/5/13(日) 午後 3:44

  • 顔アイコン

    kac***** さん、コメントありがとうございます。それは素晴らしいですね。自分が禅を知ったのはスティーブジョブスが禅を好んだ情報を知った最近です笑。彼はもう亡くなりましたが、スマホを全世界に紹介しインフラの基盤づくりをしました。
    いくつもの禅寺では、座禅会を定期的に今も開催されているようです。でも自分はけっきょく一度も行っていません。座禅する前に、禅について徹底的に調べ上げて要はこういうことなんじゃないの?という結論を導き出してしまうと、座禅をする必要性がなくなってしまったのです。いくつも本は読みましたが、十牛図を何度も見返していくうちに、そういうことだったんだという真理に気がついたわけです。
    気がつくというのはとても大切なことで年齢は問いません。生涯気がつかない人もいるでしょうし、子どものときに気がついている人もいるでしょう。けっこうそこを見落として今に至っている人もいます。

    novel1day

    2018/5/13(日) 午後 10:47

  • 顔アイコン

    (続き)忘れるということは思い出せるということです。
    いつでもアウトプットできる状態が本当の忘れるということ。これは日常仕事や家庭においてもいろいろあるときにそのときに思い出せればよいことなんです。学習したあとに忘れることはいつでも臨機応変に思い出せるということです。それが自制となり自省ともなります。
    コメントありがとうございます。

    novel1day

    2018/5/13(日) 午後 10:48

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