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侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

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■東山魁夷作『道』

 若くして両親を亡くし天涯孤独の身となった東山が青森県八戸市大字鮫町日蔭沢にある県道1号線を歩いているときに思い浮かんだ作品は『道』である。

 彼の作品は実景がモデルとなっている。すべて。


 実景の1号線は作品のような1本道が右に折れて左に曲がっている草原の風景から、建物を全部消去して描かれているため異なる。彼の想像力がかの名作をつくりだしたのである。

 この作品は手前から一本道がまっすぐ奥へ伸び、草原の傾斜につれて上にあがっている。そして、黄金比率に基づいた絵画の重心から右に折れて画面の右側へと道は流れ、そこから小高い丘に消えるように道が消失しているかのように表現されている。

 しかし道は途切れているように見えても、左側に続いていた。

 この『道』という作品は東山が画家としての行き詰まりを象徴しているかのような作品である。何を描いたらよいのかひたすら自然に問いかけて見出した作品である。

 それが解りやすいように余計な建物を描かず、道と空と草原だけを描いた。ここまで無駄をそぎ落とすと、精神性が高まる抽象画となる。

 
■陽明学と朱子学

 論文はポイント突いてアッサリと。どこぞの特許事務所の所長がこうのたまわった。それを思い出すと、理由付けをすべて法目的にしてしまうと、「この人、本当に理解しているのだろうか?」という疑問を投げかけられてもしかたがない。
 確かに、すべての条文は法目的に収束されるように設計されている。だからといって、アッサリと法目的に叶うためという理由付けで条文が設計された経緯を説明することは、間違ってはいないけれども、時事に応じて追加あるいは削除される条文自体の存在意義をきちんと理解していないことになるだろう。

 ま、こんなことはどうでもよい。では、エッセイもポイント突いてアッサリと書くべきなんだろうか?という疑問が生じてくるのである。解る人には解るのだろうが、解らない人は、そもそもエッセイを読まない傾向にあるのだから、けっきょくは好みの問題となるだけである。しょせんエッセイは簡潔に書いてもよいし、冗長に書いてもよい。

 ならば陽明学と朱子学について書いてみることにするが、これを冗長に書きすぎると記事に収まらない。したがって簡潔に書いてみることにしよう。別に学問を縛る法というものはない。

 陽明学とは、オンザジョブトレーニング。なぜならば、王陽明は龍光星の人間だからである。

 朱子学とは、教師、学者。なぜならば、朱熹は玉堂星の人間だからである。

 2つの学問を簡潔にその特徴を捉えてみたが、もっとわかりやすく書くと、前者は幕末浪士。後者は幕府の家老。という感じかな。もっと言えば、前者はやってみないと解らない。後者はやらなくても解る。という感じかな。



■ミュージシャン


 プロと素人のミュージシャンの違いは、そのスタートラインから異なる。才能というのは声の質や生来の音楽性というものではなく、メジャーな曲をカバーするところから始めるか、それをしないで始めるかである。

 カバーというのは自らの音楽性を高める王道の道であり、これもまた孫氏の兵法である。したがって生来というものは存在しない。兵法は明確であり王道の絶対なる成功への道である。そもそも努力すること自体、問題を抱えているところから愚かなことである。人間は決して努力をしてはいけない。
兵法では、努力の必要な問題点を先んじて明確化し、あとあと問題にならないように問題の種を先に摘んでおくことである。そうすれば努力は不要である。
カバーが成功への道となると初めから書いているのに、それをしないでプロになろうとする人は決してプロになることは不可能である。また、カバーをすることで、自らの方向性を見定めることができる。自らが好む方向性だ。演歌をカバーする人は演歌歌手になるべし。ロックをカバーする人はロック歌手になるべし。問題は余計な分野と橋渡しするかのごとく、ポップスと演歌やロックとポップスやクラッシックと演歌など、複数の分野のことも視野に入れて努力することである。もうその時点で問題が生じるため、その問題を解決するために努力が生じる。それが無駄というものだ。

 声の質は自覚するものである。他人から指摘される場合もある。だが、いずれにしても自覚から始まる。これも努力ではない。努力をしてはならない。


■実話ベースと創作ベース


 実話ベースで登場人物のひとりの結末が不明な場合は、実話としてやむなきことであり、たとえば「地雷踏んだらサヨウナラ」という映画のモデルとなった戦場カメラマン一ノ瀬泰三氏の死がどのような形で亡くなったのかが不明として映像化するのは問題ない。事実が明瞭なところまで描いているからである。

 だが、SFつまり創作ベースに登場した人物像は作者がいる。作者の全責任で登場人物の行く末をすべて決定できるのである。実話の場合は作者がいない。だからわからないことはそのまま表現してよいが、創作ベースの物語はすべて作者が登場人物の起承転結を決定できる権限をもつため、意図的に行方不明とした設定をつくり、読者・視聴者に考えさせることは、創作の論理構成として空想から妄想へと発展させるように仕組んでいる。そこが問題である。


 たとえば、スティーブン・スピルバーグ監督作品のひとつに「宇宙戦争」がある。そこに登場した主人公の息子はひとりで戦場に向かい、そのまま映像の最後まで行方知れずの状態で終わってしまう。そこが視聴者に疑問符を残してしまうのである。「宇宙戦争」自体はSF作家H・G・ウェルズの原作をもとにした映画作品であり、原作自体が完全なる創作である。ただ、自分は原作を読んでいないため、映画と同じ設定になっているのかはわからない。だが、小説を映像化する際に映像に登場する人物の結末はすべて監督が決定することができる。それを意図的にスティーブンが行方知れずの状態をつくりだすのは、空想物語から視聴者に対して妄想をつくりだすように仕向けている作為である。

いずれにしても、創作ベースでは完全なる作者の意図で登場人物の動向と結末を決定できるため、それを如何にも実話モデルのように行方知れずの状態を作り出してはならない。

嘘、虚飾で作られた創作ほど、登場する主人公やキャラクターの動向の結末をしっかりと描きつくさねばならないのである。

 嘘の話ほど信用できないものはない。スティーブン自身が「インチキおじさん」と化しているのはSF作品をナメテかかっているからなのではないのか。
架空の設定には信頼性はない。だからこそキャラクターの動向について結論をしっかりと表現しなければならないのである。現実の世界はどうしても不明な点が出てくる。そこはリアルな世界を調査しきれない現実の問題が立ちはだかるからである。だからそれをあえてドキュメンタリーあるいは実話ものとして作品づくりをする場合に不明な点の制作者側からの指摘は読者・視聴者を納得
させるものとなる。

 インチキ臭いものとは、妄想の世界のことであり、決して空想の世界のことを指摘しているわけではない。空想の世界においてもしっかりとした構成をし、読者・視聴者に疑問を残さないように設定した作品づくりをすれば、作品としてインチキ臭いものとはならないのである。


 インチキ臭いものが出来上がる理由にはいくつもの要因がある。それは妄想を意図的に表現させている場合や、作品構成の単純な準備不足あるいは度忘れ、作品構成における環境設定のやむなき事情の発生、などの要因である。


しかしこうした設定は作者に対する読者・視聴者への疑念や「頭がおかしいのではないのか?」という嘲笑を誘うことになるのは当然であり、それを作者が甘受して作品を大ヒットさせる実情を鑑みれば、インチキ臭いものほど、人間は惹きつけられるという習性を作者は知っているのではないのかとも思えるのである。

 マジックもすべて種がある。超常現象は絶対にありえない。ありえないことはわかっていながらも、マジックを見てしまう。どのような仕組みでマジックが作られているのか、それを考えているうちにいつのまにかそこに見入ってしまうのである。


 パンダは動物園の人気者。巷の人寄せパンダはゆるキャラが担当している。
子どもたちはゆるキャラを見つけると走り寄ってきて喜ぶからである。

 ゆるキャラ自体が市民権を得ているのは、よくわからない造形の着ぐるみが現実の世界に登場し、それが多くの人々の関心を誘っているからである。もちろんゆるキャラのマジックの種は、中に人間が入っている。だが着ぐるみ自体は、妄想の世界のクリーチャーである。仮面ライダーショー、ウルトラマンショーと変わらない。そこに多くの人がインチキ臭いという想いを持たないため、こうしたキャラクターは市民権を得ているのである。


 市民権とは、ほとんどの人があまりよく考えずに感覚的に捉える人間の習性を利用して得られた存在の認知である。


 この認知があるかぎり、「宇宙戦争」という映画であっても、娯楽作品として大衆は喜んで楽しむのである。

 必ずしもゆるキャラの中に誰が入っていて、普段どのような生活をしているのかとか、その人物とゆるキャラ自体の存在の実情を知る必要はない。インチキ臭いとわかっていても、そこに魅了される人が多くあらば、アニメ「ちびまるこちゃん」のOPに登場する「インチキおじさん」の存在もまた市民権を得るのである。いちから最後まで結末が整っているだけが面白いわけではない。妄想もまたひとつの表現手法なのである。

 とあるアートディレクターが絵本に関して「起承転結」だけでなく「起起起起」という具合に最後までキャラクターの顛末を明瞭化させない発想を示した。これもまた妄想のひとつとして一興である。

 人間はよく解らないものに対して注目するような現象学としての観点から捉えることができるのである。

 なお、ブレンターノからフッサールへそしてハイデガーに続く現象学の結論は彼ら自身がよく解っていない。

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