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■縦糸と横糸
縦糸だけでは生地はできない。横糸があって初めて生地はできる。
歴史という縦糸だけでは、人生を語ることはできない。もちろん人生という生地をつくることはできない。
ここでいう横糸とは比較である。多くの歴史を縦にみてもそれは前後との関係でしかわからない。だが、異文化との関係をみていくと、それぞれの歴史の姿勢というのが客観的に理解でき深まるのである。
縦の連携に追加されるのが横の連携である。
将棋の駒でいえば飛車。
詰将棋における飛車の動きは、まず横に動くところから始まる。
そうじゃないと縦に進むことは歩兵が邪魔をして不可能だからである。
歩兵の前に飛車が出ると、それこそ縦横無尽に動ける。
飛車の動きをイメージ化して、思考の縦糸と横糸は常に連携され、思考の生地は紡がれてゆくのである。
科挙という官吏登用試験が、かつての中国(清の時代まで)存在した。四書五経というそれぞれの縦糸の知識は、それぞれの分野(政治・経済・文化)のなかで、それぞれの知識として役立つものであろう。だが、それだけでは思考は硬直化する。ヴィクトリア女王が提唱したイギリスの植民地政策という奇想天外な発想にはついていけないのである。それまでになかった思想が中国に入ってきたとき、科挙という制度は崩壊した。
中国の歴史は3000年の縦の累積がある。諸子百家の思想は今でも通用するところはあるだろう。だが、「国際」という横糸の系列が儒教の縦社会のなかに入ってきたとき、そもそも中国は縦糸だけで生地をつくりあげようとした愚かさが露呈することとなったのである。
もちろん、将棋というゲームは中国産。
縦が解れば次はどのように連携してゆくかだ。
そういえばこんな夢を見たことがある。
習近平さんと一緒に湯舟に漬かった夢だ。
まあ〜細い目で気持ちよさそうに自分と淡々と対話している夢である。
自分は習氏の淡々と語る言葉をゆっくりと何度もうなずいていた。
彼は何を語っていたのだろうか。それは覚えていない。
こんな変な夢を見たもんだから、覚えていたまで。
■迎合
迎合する人は存在価値がない。なんの役にも立たないのが迎合する人である。迎合する人は自分の頭で考えていない。単なるイエスマンでしかない。
ただ、例外はある。天気。
「きょうはいい天気ですね」
「そうですね」
こうした挨拶は迎合ではなく、マナーである。マナーは特に考えなくてもよい。考えると、しょっぱなから人間関係をマイナスにしてゆく。マナーは当たり前である。だから考える必要はない。
人間関係のマナーを前提として、人間は迎合してはならない。
■中庸
中庸とは、両極端を知らないと理解することができない。
他方を知らねば、もう片方が中庸であるかどうかを確認することは不可能である。
他方に傾けば、もう片方に向かい、もう片方に向かえば、他方に向かう。
その間において、中庸とは何かを知ることができるのである。
古典が参考になる。
人間は歴史を知らねば中庸とは何かを知ることはできない。
歴史の不勉強の人間はどこか偏っているのである。
歴史は人間学の基礎である。
そして中庸を知る絶好の参考資料となる。
四書五経を丸暗記することが科挙の試験に合格するための条件である。
かつて中国に存在した官吏登用試験である。
36万の文字と内容を丸暗記して筆記しなければならなかったそうだ。
膨大な記憶力を必要とする。
だが、儒教のヒエラルキーを維持するためには、こうした記憶力がものを言う。知識という学習力で他を圧すれば、ヒエラルキーを維持することができるのである。世間知らずの井の中の蛙の間では通用するお話。
世に中庸を説いても、無視する者は多い。
いくら説いても、儒教ではどうにもならない。それが現代である。
だがそれは現代という多様化した異文化の集合体とメディアの発達から、そうならざるをえないという認識を儒教を推す人は十分に理解しておかねばならないであろう。
小さな世界に生きる者たちは、しょせん知識の正義を謳うのみ。
年中蛙の歌が聞こえてくるよ。
秋夜でもないのに喧しい。
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