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■世界で最も美しい本
そもそも論で書く。
本というのはそもそも本の体裁をさしている。
本の形状を意味しているため、本といえば背表紙があり、その間に複数のページに該当する紙が挟まれており、それらがひとつに綴じられている物をさしている。
ここで世界で最も美しい本とは何かを示しておく。
それはタイトルも、出版社名も、価格も、そしてすべてのページに何も表現されていない、いわば何も書かれていないし挿絵もない、まっさらな物である。
本という物の形状だけに着眼した物、それが世界で最も美しい本である。
本といえば何が書かれているのが常識である。
だが、人間はいろいろなことを書き始めると、そこにつまらぬ指向性というものが生まれる。
この指向性というものが、純然たる美を阻害してしまうのである。
人間は美の追求をし始めると、さまざまな表現を模索し露わにしてゆこうとする。それが常識論である。
人間は思考を突き詰めてゆくと、さまざまな論理を見出して、そこに真実を見出そうとする。それが常識論である。
つまり、本とは目に見えない美を露わにしようとしたり、真実を見出そうとする過程を論理として表現し、それを著者以外の第三者に伝達するための情報伝達媒体でしかないということがここで判るだろう。
人間は情報を求め、本を手にとる。そこの情報を知る。そのための道具が本というものだ。
では、ここでもうひとつ別の視点を示しておく。
誰も考えたことがないかもしれない。抽象性が非常に高いため、より具体的に示すことができればと思う。
たとえば、東洋と西洋の相違について自分は常に比較し研究しつづける者である。その視点から、東洋の情報と西洋の情報の性質の違いについて以下のように考えている。
ざっくりと書けば抽象性がさらに高まる。東洋でいえば、東洋思想である。それに対置されるのが西洋思想だ。
東洋思想というものは、すなわち、中国の古典思想である。
諸子百家の思想の学習をすれば、東洋の思想を理解することができる。
(そもそも日本には思想というものはない。すべて中国の思想からの受け売りだ。日本は商売の国だから根底から何かを発想するという考え方は存在しない。独自の考え方の発生を否定している国である。日本オリジナルだと考えられていることでも、すでに古代の中国において考えられているものである。3000年の歴史がありますから。あの国は。)
中国の古代思想もまた本の形式で後世に伝達されている。
だが、その内容は非常に奥が深い。人間がどう生きるべきかまで記しているものがある。
一方、西洋の思想は、東洋の思想に比べれば人間研究の底が非常に浅い。
だが、それもまた西洋人の生き方の本質を根底に作られたものである。だから浅い。西洋人は心というよりも物理を大事にする。だから何を考えているかの表現が簡単にわかるものである。表情という物理がその思考内容をそのまま露わにしている。一方、東洋人は、特に日本人は表情に思考をあらわにすることを避ける傾向にある。西洋人は考えたことがそのまま顔に出て口に出る。わかりやすい。東洋人は、特に日本人はそのまま顔に出すことはないし、言葉を選んでゆっくりと問い尋ねてゆく思考法をもつ(そうじゃない人は単に酔っ払っているだけだ)。
先日、兵庫県立美術館にてベラスケスの傑作のひとつ「東方三博士の礼拝」を観賞したとき、ベラスケスは西洋人ぽくないなと思った。
マリアが息子の幼児であるイエス・キリストを東方の三人の博士に示している姿である。
幼児のイエス・キリストは幼児でありながらも無邪気ながら(幼児だから当然だ)さらに凛々しさをもその表情にある。
凛とした表情のもとに平伏す三博士の姿と、彼らにイエスを差し見せるマリアの母性がベラスケスの卓越した技量で表現されている。
そしてイエスの表情そのものが、まさに「何も書かれていない本」そのものであると自分は理解した。だから美しいと思ったのである。
中国思想のひとつに荀子の性悪説というものがある。彼の性悪説は彼の思想の最後のほうに現れ、彼の根本思想の「礼」を補完するための人間本来の生き方の姿勢を示している。この生き方のゆえに、礼を重んじなければならないというのが性悪説である。
人間はね、ひとりひとりがタイトルも内容も何も書かれていない本を生まれたときに1冊手渡されて世に現れる。自分はそう考えている。それぞれがそれぞれの生き方にて自分の人生を1冊の本に書いてゆく。
ところが、人間は何も知らずに生まれてくるものだから、当然、すでに存在しているさまざまな情報をひとつひとつ取捨選択しながら成長をしてゆくものだから、中国の思想は人間がどう生きるべきかの思想を先に示し、先人の生き方の手法を学ぶように、という姿勢がある。
だが、西洋にはそれがない。
イエスの表情が何も書かれていない本を示しているのに、西洋には物理しかないのである。
その代わり、物理の長所は、東洋人にはるかに及ばない技術の進歩をもたらしてくれる。
西洋にもかつて多くの哲学者が現れた。彼らは物理として人間を捉えることだけに執着した。自分が読んでいたブレンターノやフッサールやハイデガーの現象学も物理である。アリストテレスも、デカルトも、レヴィナスもニーチェもデリダのエリクチュールも物理であり、物理的観点からしか西洋人の思想は発展しないことがわかるだろう。
人間の精神をも物理で捉えようとしているのが西洋思想史である。
彼らには心というものがないため、物理の技術が東洋よりも早く発展したのだ。
東洋の思想は、人間が成長するにつれ、多くの情報に触れることで、誤った方向へ進まぬようにわざわざ書籍として後世に書き残しているが、西洋の思想には、人間の成長は多くの情報をつくりだし、そこには誤った方向かどうかは不明であるという視点が彼らの根底にある。前者は道を示し、後者は道をつくりだす。後者には道を示すものがない。前者は教師であり、後者は冒険者である。
教師か、冒険者か。この両方の思想に対して、日本人は誠に無垢であり無知である。
だから、個々の個性にしたがってそれぞれの姿勢を示してゆく。それに見合ったものを取捨選択してゆくのである。
(アメリカでは宗教を持っているかどうかで、人間の生き方が問われる。アメリカもまた冒険者であり、クリスチャンが多い。インドの思想、神道、仏教といった思想を受け入れている人もいるが、どの思想でもよい。思想を持っていない人はアメリカ社会から疎外されるのである。どこの思想の持主かを確認することが人格の認識に必須。これがアメリカである。)
思想を重視しない日本からすれば信じられないほど、世界は思想に飢えているし、思想を重視している。
それは物理中心主義でそれを思想とも呼んできた西洋思想の発展からきている。それが思想を重視する原因だ。右に傾けば左を求める人間の無意識の行動姿勢である。
思想を重視する国は物理中心で動いている、という意味である。
「世界で最も美しい本」とは、ひとりひとりがどのように考えてタイトルをつけて、内容を書き込む前の本であり、そこからはいっさいの情報を得ることができない本である。
自分は、西洋思想の欠陥を東洋思想で補完してゆく姿勢を絶えず意識して情報を獲得しつづける。ベラスケスの描いたイエスは何も書かれていない本であるから、それはもう自然風景を眺めるような気分にさせられる。人間が自然を眺めたときに、美しいと言える自分を決して見失うことはない。
ベラスケス自身がイエスを通じて人間の知識をリセットし、それを蓄積された知識の塊である博士たちに見せた理由は何か。思うに自分は、物理としての成長や知識の集積と、それに代わるそこの欠点を補完する教育の姿勢との融合が西洋の歴史と東洋の歴史を通じ記された1冊の本の出現を予感させるものだ。
人間はわがままだ。深く考えることもなく、抽象的に考えることもなく、疑問に思うこともすくない、というかほとんどしないという性質を持つ者は、非常に多い。
つまり、学んで、なぜなのかどうしてなのかという疑問を持つ姿勢を持つ者は少ない。簡単に書くと、「考えることができない」者が多いということである。
それは物理だけの世界しか知らない者だからである。
いいかえれば、物理を通した結果でしか考えることができない者だからである。
東洋思想の教育とは先人の生き方の知恵であり、西洋思想の実践は先人の物理からの発展である。経済は西洋思想でうまく機能する。ただそれだけだ。何も残らないし何も残そうとしない。だから東洋思想には遠く及ばない。
だからこそ西洋思想は子どものように無邪気であり、単純なのである。
日本に高級ブランドがない理由は、物理としての発展が遅れたからという理由もあって、そうバカにできたものでもないのである。西洋の思想についてはね。PCエンジニアリング関係や半導体の技術といった物理も、もともとはアメリカの技術を基礎としているからね。技術立国日本であっても、オリジナルの発生がやはり遅れている。日本は後出しじゃんけんが強い。ずるい。そこが商売のお国柄なんだね。特許技術においても基本発明がすくない(ほどんどない)のはそこだ。
■価値
このような話を嫌う人が多い。だから書いておく。現実だ。
「え? それぐらいの価値しかないの?」と考える人と、「え? そんなに価値があるの?」と考える人の姿勢はまったく異なる。
前者はコップ半分の水しかないことに着眼する人であり、後者はコップ半分の水もあると着眼する人である。
もっと簡潔にわかりやすく言うと、前者は危機意識を持っている人であり、後者は危機意識を持っていない人である。
もっともっとわかりやすく言うと、前者は貪欲であり調査を怠らない人であり価値を知っている人であり、後者はすべて裏返しである。言い換えれば、後者は何もわかっていない善良な人である。
エルメスのバーキンのバッグを買取る業者に対して、とある女性はこんな対応をした。
「え? 500万円しかしないの? もうちょっと高く買い取ってくれないかしら?」
業者は興味が湧いて「おいくつ持っていらっしゃるんですか?」
その女性は自宅に9つのケリーやバーキンを持っていた。
業者は笑った。
とんでもない金持ちであったのである。
金持ちはお金にシビアである。嗅覚が鋭い。
そうじゃない人は、お金に鈍感なため、「え? そんなに高く買ってくれるの?」という具合に、所有品の価値を知らない。だから金持ちではないのである。
日本にはそもそもブランド志向というものがない。だから、物の価値を知らない人が非常に多い。これが大衆である。そうじゃない人は、物の価値をよく知っている。
希少性、優秀性、知名度の極端な高さ、この3点が市販品においては世界に通用する価値をもつ。
また、安く買いたたく人は、その価値を知らないか、あるいは、儲けをたくらむ人である。前者が善人。後者が悪人。
■礼節を重んじる
荀子の性悪説は、人間の欲はキリのないものであり、どこかで制約をしていかないと野獣と化す。つまり人間ではなくなる。という姿勢が、荀子の根本思想にある。
物欲について人間はとめどがない。これは当たり前の欲望であり、物を欲しがることを誰も抑えることはできないから、自ら戒めとしないかぎり、欲の達成に生涯を費やすことになるだろう。
しかし、欲というのは実際に達成されると理解できる点がある。そこで欲が留まるかどうかという自己認識から、欲を分析し始めるのである。実は、人間は欲が達成されるまで欲自体の分析をすることはない。仮に分析をしたところで、それは未達の事項であるから、現実化しているものではないからである。
現実化していない欲について分析をしようとすれば、それは他の現実化している者の意見や心証を確認するぐらいのことしかできないのである。
分析というのは、新しい技術を開発するときには、必ずその前の技術を持った製品を分解し、その意図を確認しながら、機構の構図を調べて、不備な点、過不足なきかの視点が加わってくることである。
現実というものは、脳内の主観性に基づいたものではないため、現物が存在するところの認識から始まる。その理解から始まるのである。欲というものは、常に現実に対置される物から生じる。必然、物を知らない(知識において)、あるいは現物を知らない場合において、なお、人間は不利不便の生じる状況を改変するためにいくつもの想定を生じさせることもできるが、未達の環境においては想定を現実化した物を探すほかない。たとえば雨で靴が濡れた。天日に干せば乾くが、もっと早く乾かしたいという欲が生じたとき、靴乾燥機というものを探すところから始める。それは現実化されているため、購入を通じて欲の達成を図ることができる。
物欲とは、未達の心が終わらぬ限り続く。それを抑圧することは誰にもできない。欲とは自己認識においても他の認識においても制御することができぬほど、底なしの泉の如く湧き上がるのである。だからこそ、それを自己認識で制御しあるいは社会規範をつくりその規範どおりに進めることが、欲のコントロールをする方法となりえるのである。
人間は、たとえばAさん、Bさんという人がいたとする。人間の欲は老若男女を問わないため、いかなる存在であってもよいが、あくまで人間である。
Aさん、Bさん、それぞれの欲はそれぞれが持っている。それを各自で規制することは可能であるが、欲の発生自体を規制することはできない。
そもそも規制とは権限が必要である。権限なき者が他を規制することはできないため、Aさん、Bさん以外の何らかの権限に基づいてそれぞれの欲を規制する。
これが礼節というものだ。礼節を分析するとそこに存在しているものが人間の欲である。それをどのように扱うかで、それを礼節と扱うか、そうではないかが決まる。
荀子の思想の中心は礼にある。
欲の規制をするものが礼というものである。
ただ、人間の心には未達の意識が残る。そこが荀子の性悪説の大きな欠陥である。
その意識は誰にも消すことはできず、誤魔化すこともできない。
そこでこれを改変する方法が必要となる。
これが芸術である。
欲を洗練させることが芸術である。
目先の物欲を達成させるには、孫氏の兵法(軍事思想家孫武の思想)どおりに「横綱相撲」をとることだ。つまり、子ども相手に大相撲の横綱が相撲をとることである。たとえば自動販売機は一時の快楽を満たし無駄金を使わせるためのひとつの経済手法である。子どもは自動販売機の前に立ち、取り出し口を覗いたり、商品のボタンを押したりして、親に振り返り「飲みたい」と言う。必ずこれを実行するのが子どもだ。それを我慢させるのが親の務めである。これが大人になると、財布から小銭を出して簡単に購入してしまう。大人は目先の物欲の達成をするために、それを自己コントロールできるからである。自己コントロールできるがゆえに、飲むという欲求を達成させることは容易である。
自動販売機は、利益を追求する企業の姿勢として誠に的を得ている。利益をあげるためには弱者を相手にすれば、必ず達成されるからである。兵法では決して難しいことをしない。自分が勝てない分野には足を踏み入れず、容易に人間の欲を達成させることで利益をあげる楽な思考方法をすることが大事である。
子どもの欲というのは目先の物欲達成のための純粋な指向性である。しtがってこれを洗練させることが芸術である。
この芸術が、孫氏にとっては敵となる。
孫氏が勝てない考え方、これが洗練された指向である。
孫氏の兵法が役立つのは、人間の心の野生という純粋な指向性のなかにおいてだけだ。
人間は獰猛であり粗野な思考しかもっていない。それを前提として戦略をつくりだすのが孫氏の兵法だ。子どもの粗野な欲を達成させるために、ゲームが開発され、グリーのコンガチャのような存在が出現してくる。コンガチャとは、ゲームキャラクターを強化するための武器の実価販売である。たとえ数百円であっても、いろいろと武器を取りそろえれば高い値段になる。そこが社会問題となった。ゲームの世界は単純な人間の欲を仮想空間で達成させ現実の世界に影響を与えないように仕組ませる商法である。人間はそう簡単には相手の話に乗らないため、人間の原始的欲求を満たすように唆すことで新たな商売が出現する。悪賢いやりかただが、これが横綱相撲である。横綱が子どもに例外なく勝つことができるように儲かる。大人げないことをして確実に勝利するのが孫氏の兵法である。この兵法では、勝てない相手に近寄ることはしない。幼稚化した大人は洗練された大人に近寄ることもしない。
親というものは、子育てを通じて自ら洗練されてゆくものである。それもまた芸術的に。
人間の欲にはとめどがない。だからこそ、社会規範の前において、親がしっかりと子どもに躾をしてゆくことが、身を美しくするための親心なのである。
孫氏は汚いが、これもまた人間の心理を知っているがゆえである。それに対抗できるのは美しい心、すなわち強い心を持った人間である。
この考え方は荀子の性悪説の欠点を補完し、かつ孫氏の兵法にも対抗できる唯ひとつのものだ。
自然を味方につけた諸葛孔明の研究は不十分であるが、おそらく諸葛孔明がこの考え方に近いのかもしれない。
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