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侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

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未来に

■未来に残す

 詳しくはここでは書かないが、未来に残すというのはとても大事だね。

 100年後の未来に残す。

 200年後の未来に残す。

 そうしたことを。

 まあ1000年意識すればいいか。



■良いものと悪いもの

 良いものはあるが、必ずそこに悪いものもある。

 悪いものはあるが、必ずそこに悪いものもある。

 サイコパスにはこれが理解できないようだ。

 良いものは絶対良いし、悪いものは絶対の悪だということ。

 手段を選ばないからこそ、そう考えるのである。

 だから運がいい。

 最適をつねに知っているからだ。




■色相

 世のほとんどの写真やそのままの映像やそれをこしらえたCG画像、映像は、自然の色相のまま表現してしまっている。自然はそれぞれの具象物が自然の摂理にしたがって自生しているにすぎないから、それらが自ら色相を意識して存在しているわけではない。色調のバランスを個々の具象物が意識しているわけではない。

 作品は、かような自然の存在をそのまま利用しようとしているため、人間の脳内における色相のバランスを作ってゆかねばならないのである。

 寒暖色、前進色、後退色、これらを意識している自然は存在せぬ。だからそれを利用する人間は、自然に存在するなかにこれらを見出してゆくのであるが、取捨選択することもできる。また色を加工することもできる。それをして初めて人間が意識した色相の作品となりうるのである。

 自然を利用したすべての表現者は自覚してそれを進めねばならない。

 たとえば富士山をいかなる角度から撮影しても、色相のズレが生じている。だから手前に桜の花を置いたり、奥に海を挿入したりして作ってゆかねば、作品にはならない。なぜなら、自然は人間の作品などどうでもいいからである。

 自然から学ぶのは人間であるが、自然は決して人間から学ぶことはない。



■癒し

 癒しは卑しいけれども必要な人には必要だ。心のやじろべえのようにどこか傾いている人が癒しを求めるのである。

 傾いている人の理由はそれぞれだろうが、それは自己管理がきちんとできていない人である。

 自己管理のできていない人は卑しくなる。

 自己管理ができていないゆえに、自尊自罰の意識を他で消化しようとする。それを卑しいという。

 あー言えば、こう言うという指向性のラインナップは自己の管理の思い込みや疑念が生じるからである。その思い込みや疑念を解消して自ら楽になろうとするために、ほうぼうにその答えを求めようとガツガツする。それもまた欲望のひとつ。それを卑しいという。
 

 だから、癒しも卑しいのである。その卑しさを解消できると思っているかぎりは、いつまで経ってもその卑しさは消えない。たとえ消化したとしても、また卑しくなる。だが癒しは常に多くの人が求めているのであろう。


 今までの人生にて自分は癒しを必要としたことはない。だが、癒しを求めている人へは、その癒しを与えるように努めているつもりだ。



■中庸

 人間の赤ん坊はまことに中庸を心得ておる。

 笑う。すぐ真顔に戻る。

 たいへんおもしろいが、これが中庸である。

 笑いをひきずらない。
  

 世の中には、

 笑いすぎる人。

 怒りすぎる人。

 喜びすぎる人。

 哀しみすぎる人。

 楽しみすぎる人。

 かような者たちは、中庸を心得て居らず。


 思い出し笑いをする人。

 思い出し怒りをする人。

 思い出し悲しむ人。

 思い出し楽しむ人。

 かような者たちも、中庸を心得て居らず。


 何事も感情をひきずらない赤ん坊こそが中庸の鏡である。

 世の妬み、恨み、噂、愚痴、過去の指摘、思い込み、こうした人間の情念とは無縁の存在が中庸である。

 中庸は感情を引きずらない。


 いっぽう、子どもは何でも過剰である。

 食べ過ぎ。マナー知らず。興味を持ちすぎ。

 暴れすぎ。笑いすぎ。怒りすぎ。走りすぎ。

 これをたしなめるのが大人なのであるが、その都度厳しく指摘し良いことと悪いことをきちんと教えてゆかねばらばならい。

 これは子どもを持つことで大人が成長できる視点である。

 子どもを持たない大人はその経験をしていない。


 人間は躾をすることで自ら中庸を知ることができるのである。


 中庸とは、過度にならず、その場で仕舞いにすることである。すべての感情を。

 怒るときは大きく怒り、笑うときは大きく笑い、喜ぶときは大きく喜び、悲しむときや楽しむときは全身で悲しむ。

 それぞれがとても大事であるが、引きずらないことである。

 男も女も子どもを持てばわかる。

 中庸を守れば感情に振り回されることはない。大人のドラマはそれを過剰に表現する。それが正しいのだと思わせるように仕向ける。だから大人のドラマは子どもっぽい。ドラマ作りをする人も、子どもだ。




■夫婦の値打ち

 特に女性は意識をしているのかもしれない。

 夫婦の値打ちをプリミティブに理解しているのは、女性であるということだ。

 夫婦1年目の紙婚式。ダイヤモンドに比べれば、最初の紙は価値はない。

 ヒノキの家は1年目は明るく軽い調子に見える。

 それが100年200年経つと、重厚さを増し、家は立派に威厳を持つようになる。

 現代の建築素材はせいぜい50年程度か。ビニールの壁は20年程度しかもたない。

 価値というものを初めから意識しておれば、年々増えてゆくものをはじめに選んでおくべきだろう。

 

■バカにつける薬はない

 これは思い込みを戻す方法はないということを意味している。

 人間は想いこむとそれ以外の方法で理解しようとしなくなる。

 この理解というものが無知よりも恐れることである。

 無知であることになんら恥ずかしい想いをする必要はないが、理解力のなさに対しては非常に恥ずかしいと想う必要がある。

 無知は恐れるな。理解力のなさを恐れよ。




■風邪かな?と思えば即効ネギ味噌汁!


 「バカは風邪をひかない」なんて言う人がいる。

 バカとは中国故事の「馬鹿」のネタを由来としているとおりに、馬と鹿の区別がつかない人のことをさしている。物事の分別(ぶんべつ)をすることができないか、知らないかの人のことをバカという。ただ、バカは知れば治る。バカは単なる無知という病気でしかない。その病気は知識を得れば、即座に治る。誰でも。だからバカにされたからといって、少しも落ち込むことはない。単に知らなかっただけなんだから。

 そう考えると、「バカは風邪をひかない」ことの意味がよくわからなくなってくる。

 物事を深く考えすぎると精神的な病になる。この病を患う人は体調不良を起こし、体の抵抗力が弱くなる。抵抗力が弱くなるとは、粘膜のばい菌吸着力が衰えるということを意味している。粘膜の力を強めるためには、納豆を食べるがよろし。あのネバネバしたものが、粘膜となり体外から入ってくるばい菌を吸着してくれる。それが正常に機能している間は、痰という形で対外に押し出される。それができなくなると、ばい菌は体内に送り込まれるため、白血球という警備隊が猛烈に活動しはじめ、ばい菌を抹殺するために活動しはじめると同時に、警備隊はこれ以上ばい菌が体内に送り込まれることを防止するために、神経を過敏にさせる。人間の身体に張り巡らされている神経が過敏になると、身体のあちこちが痛くなる。だが警備隊は、ばい菌が入ってくる入口の神経を最も過敏にさせることが最も効果的であることを知っているため、まずはじめに喉の神経を猛烈に過敏にさせるのである。それが喉の痛みだ。

 風邪は必ず喉の痛みから始まる。

 これが風邪として現れる諸症状の一番はじめの警告である。

 だが人間は自意識で喉の警告を無視することもできる。


 そこで白血球という警備隊は喉の警告を無視されると、次に喉の筋肉をひきしめてばい菌が含まれる空気の流入を遮断するわけにはいかないため(窒息する)、鼻腔の空気流動通路を遮断する。呼吸は鼻からだけでなく口からもできるため、呼吸ができるようにしながら、少しでも空気の流入を抑制してゆく。
 これが鼻づまり。

 それが人間の自意識で無視されると、警備隊は粘膜強化のために粘液をたくさん鼻腔に発生させる。粘液が多く放出されると空気のなかに含まれるばい菌を吸着率が高まるためである。
 これが鼻水。

 ここまでが警備隊による警告だ。これ以上、人間は自意識で警備隊の警告を無視するとと、警備隊は我慢の尾が切れてカンカンに怒る。

 鼻腔の処置だけではばい菌流入を防ぐことはできない。かといって喉の筋肉を引き締めると窒息する。そこで喉の筋肉をさらに神経過敏にさせて咳を出させるのである。
 これが咳。

 
 もう一度書こう。

 「バカは風邪をひかない」=「賢い人は風邪をひく」という反意の表現から考えると、本当に賢いのかな?と想えるのである。

 賢い人は、風邪を引かないように注意をする。警備隊の警告を無視しない。

 
 端的に書くと、自意識が高い人は自分の身体の警告を無視しやすい。これは自意識は自意識、体は体と分別(ぶんべつ)することで、自分の体調を無視しやすいということになる。これを賢いと言えるのだろうか。


 自意識過剰な人ほど、風邪をひきやすい。という結論をここで書いておく。


 決してバカは風邪をひかないわけではなく、自分の身体に注意深く体調維持を賢明に実施しつづけている人であるということである。むしろ自意識過剰な人ほど自らの体調を無視するため、自意識とは何かを具体的によく考えていない人と言える。これをアホという。アホとは論理的に深く考えない人のことをいう。


 そもそも自意識とは人間の大脳に存在しているわけではない。

 ここに気がついている人は非常に少ない。

 存在に関してはハイデガーを読んでほしいのだが、存在とは何かについて彼はひたすら哲学として研究している。難解だから読むのに1年かかるかもしれないが、存在に関して少しは理解できるだろう。


 自意識は存在していないというのが結論である。

 もし存在しているならば、それを見せてほしい。

 そこに気がつかない人が風邪をひきやすいのである。


 それをアホといいます。バカとアホの区別は、自意識の高いひとならわかるだろう。


 さて自意識と身体を分別しない人は、風邪にかかりそうだと気がつくと、ネギ味噌汁を飲む。


 ネギ味噌汁の成分を知り、栄養が体にどのような効果をもたらすかを知り、学習する。そうすると確実に風邪にはならないことを知るのである。

 風邪をひく人はアホです。バカではないがアホである。


 アホとは研究しない人のことを言う。単に分別するだけであって、しっかりと学習しない人のことをアホといいます。ゴミの分別を知らない人はバカであるが、アホにまで到達していない。アホにまで到達しても、なぜゴミの分別をしなければならないのかを研究しない人はアホのままである。


 風邪をひく人をバカにする人は、バカの壁を乗り越えて自らアホであることに気がつく必要がある。


 孫氏の兵法にはアホに関して具体的に明記してある。兵法を記した孫武は
全戦全勝した。理由は、弱い相手に対して万全に準備をして確実に攻めていったからである。現実主義者である。

 かの現実主義者からすれば、アホは相手にしない。勝つための論法を具体的に研究しないアホを相手にしないということだ。

 風邪をひかないためには、風邪にならないように予防する。これが兵法である。

 あたりまえのことをしているだけであるから、あたりまえのことをすることを賢いという。

 賢いとは研究することである。

 人をバカにするアホは研究しないため賢いとは言えない。バカは知らないだけの善意なる存在だが、アホは悪意の存在である。その悪意の存在は分別だけでは足りないのである。

 バカとアホ、そして賢いとは何かについて明快に記した。

 バカはかわいらしい。アホは憎たらしい(分別くさい)。賢いはもう何も言うことはない。あたりまえだからだ。

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