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■自然主義
美化を否定すれば、本当の美がそこにあることに気づくことができる。
自分は美化を嫌っている。
「化」とは美を隠して美だと決めつけてしまう姿勢を持つ人の表現である。
本当の美というものは、美の化粧をはぎおとしたそこに存在する。
自然主義は文豪エミール・ゾラが提唱した。
ゾラの親友がセザンヌである。
あの、ポール・セザンヌ。
近代絵画の父と呼ばれ20世紀絵画に大変革を起こした画家である。西洋の絵画史はセザンヌ以前と以後に分けることができる。彼はミケランジェロやダヴィンチという巨匠と肩を並べているどころか、追い越した。巨匠中の巨匠になった。
アトリエには美化がある。それは病気だ。なぜかといえば、アトリエには太陽がない。風もない。木も水もない。石も空もない。どこに美があるのか。そこに気づくと美化とは何かがよくわかるだろう。
美化を剥ぎ取ることはとても容易である。簡単に壊せるものが美化されたものである。
だが、本当の美は決して壊すことができない。
これは決して独善的な見方ではなく、多くの人間が目をそむけ美化に走った結果、見落とされたきた真実である。
世に美術なんてものがあるけれども、美術とは決して美化を目的にしたものではない。
美術史は、本当の美を見つけるために幾世紀も時を経て紡がれた人々の積層である。
自然は決して美化しない。だから自然はもっとも美しいのである。その美に近づくためのたゆまぬ人間の努力、これが美術である。
人間は美化を始めると、真実からしだいに遠ざかり、それはまるで通販の化粧品をむさぼる愚かな餓鬼と変わらなくなる。美化は欲と空想と妄想の現れである。初回限定数百円であったとしても、それから顧客になってしまう。提供者の美の奴隷となる。その愚かな餓鬼になるか、それから外れるかだ。商売は顧客を求めている。美は化粧で隠すのではなく、内側から維持し表に出してゆかねばならない。そうじゃないとすぐ剥げる。すぐ剥げるから、顧客になってしまうのである。
美化の上塗りをし続ける者たちが多すぎることに危惧する。
自分は自然主義者である。かといって美化と美を混同しているわけではない。
機能美は、美化とは異なる。機能を追求した結果に現れた美は人間のすばらしい仕事である。流体力学に基づいたスポーツカーのデザインは機能美の典型である。
機能に基づいた電化製品もしかり。服のデザインも同様。各パーツの意図が美観を奏するのは結果論であって、決して機能が美観を奏するための奴隷となってはいない。
また、装飾美については、それが機能的に納得できる面のみ美的結果として認めうる。それ以外は美化にすぎないとして自分はすべて認めない。
ここで美化の事例について書いておく。
化粧とは真実を隠蔽し俗論として良しとされるものの志向性の意である。
言葉で語義を説明するとかような難しい表現となる。
化粧には、たとえば太っている人を痩せているように見せたり、背の低い人を高い人のように見せたり、不細工だと思っている人を綺麗であると思い込むように見せたり、個々人の美観を刺激するようなもの、それから機能に対するパーツや色彩の不統一性、それから良く見せようとする過剰な思いやり・過剰な修飾表現(盛った表現)、自尊自虐を含めた自意識過剰なすべての行動や表現、それからゲームや賭博や宝くじの如く射幸心を煽るもの、俗論の基準、こうしたものが例となる。
自然主義はこれらすべてを排除する。
次に、美化と美観は異なる。美化とは隠蔽であり、美観を保つとは「何が自然か?」という自然志向への人間の試みと努力である。化粧は隠蔽、環境は向上だ。
人間に散髪が必要なように植物にも散髪は必要だ。美観を損ねる風体、指向を徒過した設備や施設の安全基準の放置はきちんとした散髪が出来ていない野方図そのものである。自然を管理するという人間の意識はおこがましい。しかし、管理を放置することも自然主義の立場からすれば排除の対象となる。
人間自体は不自然な存在である。それは管理する意識を自然は持っていないためである。自然は自己管理することはできない。それを管掌する人間の姿勢は自然に存する美観を見出していることの現れであり、この美観について自然主義の立場ではこのように解している。
美観とは決して美化を狙うことではない。自然観察の深度を高めることである。自然主義者とは観察者の鏡とならねばならない。
すなわち謙虚であること、これが観察者の姿勢の根幹である。
■用の美
日常品に用いる器物は機能が充足していることを前提として、そこに美観が初めて生じる。美観を前提として機能が生じることではない。用途の前提条件を洗練させること、すなわち日常使いの可能な限りの観点から機能の構図を画定することから始まるのである。
大量生産を目的としたデザインは、生産工程の確立を前提としている。設備の充足並びに生産工程の安定化したパターン化が自由なデザインを可能にするのである。
デザインの限定は製品化のポテンシャルにかかっていると言えるだろう。ポテンシャルの幅が広ければデザインの幅は広がってくる。
さらに、選定された素材から美観の創出が起きることもある。
用の美の探索は器物の源流を遡ることから、もうひとつ深く器物の創出をすることができる。器物においては土、石である。
素材を極める意識をもつと、デザインの志向性の限定枠とは異なる観点において器物の地域性が生まれてくる。実はデザインには地域性がないのである。
そこでしかとれない土、そこでしかとれない石、こうした素材の研究が本当の用の美を現出させてくれる。
用の美とは普遍性の機能と素材の特殊を両輪の軸とする芸術である。
■支持
支持は詭弁にすぎない。
ちょうど二股をかけているのと同じだ。
右足が自分、左足が支持。
これを片方棺桶に突っ込んでいるという。
解離性の二重人格者は支持をする。
表の顔と裏の顔。
雰囲気に合わせた太鼓持ちではないから性格が分解しているのである。
統一性のある人格ではない。
支持者は要注意。
ただし形式者は問題なし。
■国旗掲揚
日本人ならどこの家庭にも日の丸の旗を持っている、なんてのは誰が最初に言い出したことなのか。
こうした主張というものは支持が集まれば正統性があるかのように思う人は決して少なくあるまい。
主張には、そもそもそれを支える真理は存在せぬ。
真理は存在しないという絶対条件のもとで、主張をしっかりと観察せねばならない。
人間の思想は自然法則ではない。
自然法則はバランスをとることをしないが、人間の思想はバランスをとろうとする。そこに主張がつけいる人工の根拠が産出される。
あらゆる出版社、あらゆる言説、自己表現、そこに生まれるテーマと主張は、世間に波紋を作ることをしたがる元気な厄介者の集まりである。老人クラブで騒ぐ人々のように自己の存在意義を最後まで認めさせんがための未熟さだ。
ここで国旗掲揚について書いておく。
したければすればいいし、したくなければしなくていい。
政府主導は憲法上不可能であるから、それだけでじゅうぶんなのである。
主張したいものは主張すればいいし、それに反発したいものは反発すればいい。なんの意味もないことだが、それに意義を求めている人にとって、国家の介入がされないだけ、戦後と戦前の違いが確実に表れているのである。それに感謝することである。日本国民全員が。自分はノンポリかどうかはわからない。ノンポリかどうかを考える人は、ポリシーの必要性を訴えて何かしらの変動を期待している人である。自分は期待をもたない。するか、しないか。いずれかである。波紋を起こす人は、いつも外から中を観察している。自ら中に入らないから、期待するのである。自分は入るか、入らないかのいずれかしかない。入らなければ、期待する必要はない。入っても期待する必要はない。いずれにしても期待をもったことはない。
自分は日の丸のデザインはとても素晴らしいものだと思う。それだけの認識しかもたない。
国旗掲揚をするとかしないとかという無駄な考えをすること自体、未熟だ。
これをデザインした人は、実に・・・・・・。
ナイスガイ。
■何より
抽象度が高いことを書く。
「それが何よりです」 ■抽象度
抽象度が高い人は、具体的事実からの抽象性を高めることができる。だが抽象度の低い人、いいかえれば「お子様」は低い次元の世界でしか生きることができない。
子どもは誰もが例外なく抽象度が低い。
それが成長するにしたがって抽象度はあがってゆく。
抽象とは、具体的事実と事実の間柄から抽出されるコンセプトの志向性の根源となる創出をさしている。
この創出が一過性のものかロジックを定立できるものかのスキルについては個々人の熟考からなり、決して個々の性格から画策されるものではない。 |

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