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■日本は10年遅れている
日本の今は、世界標準の今よりもすべてが10年遅れている。
だから、世界標準の今の10年前を知りたければ、今の日本を見よ、という話になるのである。
そこでは、今の日本人には理解しがたいことが往々にしてあるだろう。
その理解しがたいことが、今の世界標準である。
自分に理解できないところがあれば、今の自分は遅れていると見なしたらよい。
勘の鈍い人は日本はとても住みやすい。勘の鋭い人は日本は住みにくい。
だがそんな日本でも、日本にいると判らないことが世界では驚きの視点であるというものが多々ある。
10年遅れているがゆえに、10年進んでいる人々からすれば気がつかなかったことが目新しいのである。
進んでいるからといって、重視していない点は全部すっ飛ばして先に進むのであるから、いろんなところで見落としがある。
だから、そこを指摘すれば、彼らにとってはとても新しいことを発見したと想うのであろう。
具体的には、短所しかないように思える江戸時代の鎖国は長所もある。
日本ならではの伝統工芸、浮世絵といった世界の流行を知らない人々が淡々と続けてきたことが、明治の文明開化において、欧米に知れ渡ったことである。ガラパゴスと化したこの日本において、文明開化は衝撃だったのかもしれないが、その代わりに欧米人にとっても衝撃だったことがいくつもあるだろう。
だが、これらはあくまで古く今も続けられてきた慣習によるものであって、それもやがては目新しいものではなくなる。
そもそも鎖国というのは、重視していない点を全部すっ飛ばしてきた欧米人の姿勢ではなく、欧米人が政治の社会構造において気がつこうにも気がつくことができなかった事実を見落としてはならない。
こうした要因は現在は皆無であるから、日本人が気がつくべき点は最先端をまず知るところから始め、日本人ならばどう考えるか、どこを舞台とすべきか、ベースとすべきかを考察してゆく必要がある。
■考える人と考えない人
考える人は着眼点を持っている人である。考えない人はそれを持っていない。
なぜ印象派というものが出現したのか、これを考えてみよう。
これを印象派以前と以後に分けるのではなくて、印象派というものがひとつの着眼点を持って表現をしたために、その着眼点を持つ集団を印象派であると世間の連中は名付けているだけにすぎない。
したがって以前とか以後という分け方は存在しない。
視点を持つということは大事である。
それはあくまで物理としての視点である。
これは、好き嫌いもなく、したいとかしたくないとかという志向性を意味するものではない。
視点というものは、わからないことを調べる、からくりを調べるということである。
それが着眼点というものだ。
印象派の場合は、大脳生理学に基づく視覚と認識の観点から、現実に存在する実体物への接し方を絵画として表現した。
それ以外は、空想や妄想の世界を表現するために実体物を利用して表現しているだけにすぎない。
それは、国を問わず昔のみならず今も変わらない。
印象派は科学として絵画への志向分析を行い、それ以外は空想や妄想の表現として絵画への志向を行っているのである。
印象派が視覚芸術へ踏み出す端緒となったのである。それ以外は視覚ではなく脳内意識(自意識)の表現にすぎない。これは今も昔も変わらない。
考える人は、考えるべき視点の端緒を「そもそも」という観点から省察するところから始まる。
なぜ絵画に空想や妄想を表現したものが世に多く存在しているのか。
考えない人は、そこに気がつかない。
おそらく、それが許される世界が絵画であると思っているのかもしれないね。
だから、考えないのであろう。
笑。
さまざまな前提を深く考えることなく実行されているものが、実に多すぎるのである。これは絵画に限らず。
ということは、いかに考えない人が世に多いか、ということである。
どこぞの禅僧が座禅をするときは考えるなとのたもうた。
これは禅僧が考えたものである。それ以外の人はまじめに禅僧の「考えるな」というお言葉を信じ込んでいる。
世に「チキンラーメン」というものがある。「チキン」とは考えない人間を隠喩している言葉である。「チキン頭」というのは、なぜ考えないのかを揶揄している言葉である。
「チキンラーメン」が世に初めて現れて、それが売れると、たちまちそれに似た製品が数多く出回るようになる。
商売というものはヒット商品に便乗して他業者が数多く出現するものだ。
これが黄金ルールである。
これに気がつかずに初めてつくった人はそれを喜ぶものだ。
そしてあとで気がつく。
これは製造者の視点だ。
つぎに消費者の視点。
ラーメン作りは手間がかかる。それを簡易に作る方法があると、「便利」である。
この利便性が人間を考えなくさせるのだ。
製造者が考え消費者は考えない。
そこに大きな格差が現れる。
経済的においても。
消費者は経済的に楽になる。製造者は経済的にゆとりができる。
消費者は経済的に楽になったとしても決してゆとりができているわけではない。
あなたは考える人か、それとも考えない人か。
利便の意味をきちんと理解しているのか?
■人間、愚痴を言った瞬間に終わったと思え
自分は他人に愚痴を一度も言ったことがない。これまでもないし、これからもない。
人間であり続けるために言わないのである。
試しに自分が言った愚痴を録音して、自分に聞かせてごらん。
どれほど醜いか。それを聴かされた相手の立場を考えてみよ。
愚痴を言う人は自分のことしか考えないから、そんなことにも気がつかないのであろう。
愚痴は誰に語ってもしかたのないことである。愚痴で解決する問題は、個々の気分でしかなく、それもまた自分のことしか考えていない証拠だ。語って具体的に現実的に何も解決しないのならばそれをするだけ無駄なこと。
人間はその本人だけが生きているのではない。
甘ったれ屋さんが、愚痴を語るのである。
今までさんざん他人の愚痴を聴いてきてやった。
それを自分はすっかり忘れているが、聴いてきてやったということだけは覚えている。
ここで明確に書くがこれまで言ったこともない。
愚痴を吐く者は、精神が弱すぎる。 自尊自虐をする者も同じ。
■自分のことしか考えない人はすべて偶然だと考えてしまう。
世の事象に偶然というものは存在しない。すべてが必然だ。
これだけ明確に書いても、まだ偶然を信じている人がいるのだろう。
たとえば、AさんとBさんが旧知であり、かつ、長年会っていない場合において、ともに想定していないところで出会ったとしよう。
「あら、偶然ね」
ともにそう思うのである。
これが双方ともに自分のことしか考えていないために起こる心証である。
自分のこと以外を考えている人は、厚着をして夕方の寒さに備えることができる。
1日の寒暖は秋から冬へ続くなかでしだいに肌身に沁みてくるものである。
思い込みや決めつけをしてしまう人は、裸の王様のように夕方寒さにうち震えるであろう。 |

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