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■美術と芸術
術とは手段を意味し、それが美なのか芸なのかの相違で美術と芸術の違いがある。
つまり美を表現すべき手段が美術であり、芸を表現すべき手段が芸術である。
美と芸も視点が異なる。
猿芝居も芸であるが、そこに美の視点を示すとそれは美術ともなりうるということである。
つまり、美術の上位概念が芸術であり、美術は芸術のなかに含まれるということである。
したがって何が美なのか、何が芸なのかという違いを考えること自体がおこがましい。
芸となるものはすべて芸術であり、そこに美的観点を指摘し美的手段として表現したものが美術である、ということだ。
文芸は芸術であるから、美術評論は芸術である。したがって美術評論の内容は、論者の美術的史観や視観に基づいた1視点を示したものにすぎないのであり、それを読者が鵜呑みにするようなことがあってはならない。美術評論は美術評論者同士のネタを作っているだけである。要はこれもまた小さな世界の自己満足者同士の自己表現にすぎない。
文芸の典型は三島由紀夫の作品に診ることができる。これぞ文芸の古典というべきであろう。美意識の高い過剰な修飾語に満ちた文体は読んでいると、意味不明なところが多々出てくる。それを解読する楽しみは文芸評論家たちにありそこが彼らの独壇場である。そこでしか彼らは自己表現をすることができない。文芸が難解であればあるほど彼らは喜ぶのである。
いっぽう自然主義文学もまた文芸のひとつであるが、意味不明な文章は何ひとつない。そこが評論家には実につまらないと思えるのだろう。文芸評論が文芸の流れを作っているのではなくて、あくまで彼らの趣味で好む小説の類を料理するだけだ。小難しそうなネタを見つけると、必ずどこかの評論家が食いついている。
ほうれ見たか。やっぱりだ。という具合に。善意なる読者はそれを読んで知ったかぶりをして満足するだけである。
芸術の幅は無辺である。芸術ではないもの以外のものがすべて芸術であるといって差し支えないのであるが、そもそもそれは当たり前のことだ。どこに芸があるのかを診断すれば、そこに芸術を知ることができる。
もちろん料理も芸術である。散髪も芸術であり、ドライビングテクニックも芸術である。
そこで思うに、美術というものは芸術と一体化していると見ることもできるだろう。結果論として美が施されているか結果物に美を見つけることができるのであれば、手段としての経過を顧慮するに値する。
ただ、双方ともにそれだけの存在である。
■魅力
魅力とは魑魅魍魎の如く腑に落ちない不明なるところが対象物に存在するときに人間を惹きつける力である。
人間はね、子どもの好奇心を残したまんま大人になる。その好奇心を失った者は、魅力づくりをすることは不可能である。それは自分に対しても他の人に対しても他に対してもである。
たとえば、たくさんの大人たちがおおきな輪になって囲んで何かを覗き込んでいる。
大人の背丈の半分しかないひとりの男の子がそれが気になった。それから、大人の間に割り入って、一番前で覗き込むのである。
その何かとは巨大な丸い穴を。
星新一の小説に、地面に1つの大きな穴があって、そこに大人たちは町のゴミをどんどん捨てるようになった短編がある。
その穴はどこまで深いのか分からないのであるが、はじめは生ごみやプラスチックのゴミや段ボールや新聞などを人間は捨てていたが、だんだんそれがエスカレートして廃液や産業廃棄物を捨てるようになる。しかしいくらその穴にゴミを捨ててもいっこうに満タンになる様子がない。ついに下水処理がめんどうなので人間の糞尿までもその穴にすべて流し込んだ。
これで町はとても綺麗になった。
ここに自分の想像の追加である(原作にはない)が、人間は原子炉まで町につくり核廃棄物まで捨てるようになった。
非常に危険な核廃棄物まで簡単に捨てることができる。人間たちは大いに喜んだ。
それから10年後。
町はおかげで繁栄し多くの人が住みやがて都市化した。高層ビルや高層マンションが林立し巨大なモールもできたのである。
ところがある日、男の子が空を見上げていた。
それから指をさして回りの大人たちに叫んだ。
「何かが落ちてくる!!」
町の大人たちは子どもの指さす空を見上げていると、なんと今まで穴に捨てた10年分のゴミがすべて空から落ちてきた。
おかげで都市はゴミに埋まってしまった。おまけに10年分の糞尿と核放射能にまみれてしまったとさ。
というお話である。
もちろんこれはSFだ。星は社会風刺の天才である。
テーマは自業自得。
魅力づくりとはこのような穴を指している。
いったい何の穴なんだろう?
今回は町づくりの魅力について書いた。
魅力づくりにオチは必要ないと思うが、観光誘致のために是非盛んになってもらいたい。
■抽象性と単調化
人間の思考システムはいかに複雑に考えようとしても、実に単調にならざるをえない構造をしている。
自然はとても複雑である。というか、自然ほど複雑なものは人間界にもない。
それを単純化することしか人間はすることができない。自然に対して人間ができることはそこしかないのである。
抽象性の高い内容は実際の自然をモチーフにしないかぎり、単調である。
単調化と単純化とは異なる。単純化は自然の複雑さを丁寧に観察しモチーフ(テーマ)としての扱いにおいて複雑さをひとつの方向性をもとに洗練させてゆくことだ。
自然をモチーフにしない人間の思念のみのイメージはいかに複雑に表現しようとしても、すべてが単調となる。
そもそも自然のベースのない抽象性は抽象とは言えない。抽象とは素材の吟味と洗練化という意味であって、素材が現実に存在していないものを取り扱えば、それはいかに抽象的な表現を求めたとしてもすべて妄想でしかなくなるのである。
ポップスの歌詞は妄想と抽象化されたものとに分かれる。松任谷由実の作品は、すべて実体験をもとにしているようだ。たとえば彼女が喫茶店でカフェを飲んでいるときに見た光景、何気なく見える風景の観察力が彼女自身の歌詞に現れている。これが抽象化された歌詞である。この歌詞が人間の心を捉えるのである。いっぽう妄想の歌詞とは、作者の希望、現実に存在していない憧れを素直に表現したものである。これが脳内麻薬(ドーパミン)の発生による脳神経のイメージ化である。歌詞においても自然観察はとても重要であり、それ以外のものは、まあ〜好き勝手に歌っておれという自己満足の世界で終わる狼の遠吠えとなるのである。
人間の行動には自然のところもあり不自然なところもある。自然とは自分で気がつかない行動である。鼻くそをほじる癖もまた自然であり、髪をいじる、かきあげる行動もまた自然である。アンリ・トゥールーズ・ロートレックは貴族であったが、自ら貴族の地位から離れて画家になった。これは後天性の両脚の事故によるものである。その彼が庶民の世界を描いたのは、貴族という不自然の世界に窒息していた彼自身の解放を庶民の何気ない自然な行動に感動しそこに着眼したからであろう。 抽象に至るには足を使わねばならない。それをせぬものはすべて妄想となる。だがロートレックには車いすがあった。それが彼の足である。
抽象というものは自然からしか見出すことができない。そこには単調というものが存在しない。単純しかないのである。
もし自然から離れた思念から生まれたものを抽象とするならば、その抽象は抽象とは言えず、単調な人間の思念でしかないのである。
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