ここから本文です
侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

書庫全体表示

汎神論

■最も大切なもの

 各自が想う自分にとって最も大切なものとは何だろうか。

 自分は「時間」である。

 「時間」だと思う人は他にいるのだろうか。

 誰しもが想う他の言葉は、すべて時間に行きつくのである。

 例外なくね。

 そう思うことがまた時間が許しているからだ。

 時間というものは、24時間万人平等に付与されている。

 それをどう扱うかは、個々人の使い方次第。

 最も大切なものは、時間はどこか?である。

 個々人の勝手な考えはやはり時間の扱い方である。

 それをどう見るかだ。

 たぶんここに書かれている内容で意味の解らない人は、時間を無駄にしている。

 自分は決して時間を無駄にしない。

 それが最も大切なことだからだ。



■思いやりの科学
 
 満足を得ている人には思いやりがあり、満足を得ていない人には思いやりがない。

 科学として心理分析をすると、思いやりを持っている人と思いやりを持っていない人とがいる。それは深層心理(自分で気がつかない志向性・渇望)の観点から考えると実によくわかるのである。

 水には必ず源流がある。

 その源流をたどると、そこに何らかの原因がある。

 思いやりという川幅の広い下流域の意識構造における源流においては、その者の満足が足りぬところを発見することができるだろう。

 思いやりというのを学ぶこともできる。

 こういうものが思いやりだという教科書として文献からも学ぶことができ、身近な人からも、袖振り合う人からも学ぶことができるだろう。袖振り合う人とは縁あって知る機会を与えてくれる人である。

 彼らも一様に同じであるが、自分に満足している人は周囲に目を向けることができる。それができない人には周囲に目を向けることができない。

 それが思いやりだ。

 思いやりとは満足を得ている人だけが気がつくことのできる気遣いである。

 このような考え方もある。
 こうされたら自分は嬉しい。だから自分もこうしてやろう。キリスト教的な考え方だ。このような「我を愛するが如く隣人を愛せ」という考えもあるが、往々にして人間はみな個性が異なる。個性で考えてしまうと、それぞれの個性において思いやりを扱ってしまうことになってしまうのである。我の愛し方がみなそれぞれ違うんだ。だから自分の愛し方の個性にしたがって他人を愛そうとするため、齟齬、食い違いが生じてしまうこともある。この食い違いをなくすためには、別の考え方を示さねばならない。

 確かに人間は自らを愛さないと満足を得ることはできない。満足とは愛である。だが、それが目的となってしまうと、満足を得ること自体が「愛」になってしまうのである。ここでは満足と愛との関係も外す必要がある。

 満足と他のすべての思想をすべて外したあとに残る満足、そこから生じる思いやりこそが、本当の思いやりである。これが思いやりの科学である。

 これはクイズである。各自考えることだ。

 残ったものとは何か。それと思いやりとの関係とは。



■心血を注げ

 心血を注いでいない者からは離れよ。

 それから残らない事柄類すべてからは離れよ。


 この2か条を非情の鉄則とし、掟とせよ。

 それから歴史を重んじない者からも離れよ。

 それは個人の歴史ではなく国家の歴史、あらゆる歴史である。

 それを知らず無視し個人の歴史を披露するわがままな者からも離れよ。合わせるな。

 たとえば日本の歴史を知らぬ者の言葉と歴史を知っている者の言葉は隔絶たる知性の隔たりがある。馬鹿を相手にはするな。本人が気がつかないでいるからである。

 なお、心血を注ぐことについては個々の采配であって他人がどうのこうのと指図すべきものではない。

 歴史を知れば心血を注ぐことの意味が各自理解できることになるだろう。

 
  欧州の大学の歴史は数百年。日本の大学の歴史はたかだか100年前後だろう。今から数百年を見通してつくる意図もあろう。


 欧州のブランドの歴史はたかだか200年。だが日本のブランドは300年以上経たないと、ブランドとは言えない。そのようなブランドは数百ある。


 歴史というものはこれだけではない。政治史のみならずあらゆる歴史もそうである。知らぬ者は学べ。努力を怠る者は甘えている。そのような者は無視せよ。

 それからどこか諦めている人からの考えには触れるな。近寄ってきても避けよ。

 決して。心血を注いでいない者はなおさら論外だ。無視せよ。









■汎神論

 自分は汎神論の立場をとる。

 世にアダムとイブの子孫と称する連中らがいるそうだが、彼らだけが人間であるとする彼らの主張には反対である。彼らは神に選ばれし者、すなわちアダムとイブの子どもたちであると主張し、彼らだけが人間であると、それ以外の人間を人間とは見做さないという考えである。

 汎神論の立場からすれば、その考えはとても滑稽である。

 考古学的観点からすれば、確かにホモサピエンスは昔も今も変わらない。

 クロマニョン人やネアンデアタール人が滅びたときにもホモサピエンスは生き残った。その末裔が我々現代の人類である。我々はホモサピエンスである。

 だが、ホモサピエンスの原型は誰もわからない。おそらくアダムとイブが最初のホモサピエンスであったという確証はどこにもないのである。

 アダムとイブというのは架空の作り話であり、神話として後世に伝えられ現代においてもそれを信じている者たちがいる。

 というか多い。

 彼らは聖書に書かれたことだけを守り、それ以外のことはすべて自由に何してもいいと考えている。


 神という考え方は、誠に人間の都合に合わせてつくられたものである。



 弘法大師空海が民衆から布施を募り大きな寺を建てるとき、その寺は空海が住む寺ではないことを民衆に伝えているのであろう。

 だから、民衆は布施をするのである。


 人間は自分のために募金を求めると、その者がその者の宿業にて受けた試練以外において、他の人間はいっさいの募金をすることは決してない。


 自己の利益を図るためだけにおいて募金を求める者に対して、ほかの人間はいっさい無視するのである。

 人間は自分のためではなく自分以外の何かの存在に対して協力を求めると他の人間を惹き込むことができることを知っているのである。

 これが人間の都合というものである。

 神のために協力を求めると、大衆は心を動かされるのだ。

 人間の都合というのは、自己利益を図るためではなく、他の利益を図るためならば、力を出すということを何人も知っていて、そこに着眼された資金集めというものである。


 アダムとイブに関しても、その主張を唱えることで、アダムとイブの子孫ではない者たちを排他し、自らの優位性を高めるために作られた思想にすぎない。

 そうして集まった群れは、万事において自らのみを人間とみなしている。

 それら以外の生物はすべてケダモノということだ。

 世に複数の宗教はあるけれども、アダムとイブの子孫以外の者たちの群れもまたケダモノでしかないということである。

 実に滑稽な人間思想である。

 これをまともに信じている人が多いということが実に滑稽だ。

 神というものは確かに人間の創造物であるけれども、その創造はすべて自然が行っていることに彼らは気がついていないのである。

 ホモサピエンスを作ったのはアダムとイブではない。

 自然が創り上げた。

 アダムとイブは決して自然ではない。人間の不自然なる思想が創り上げた空想上の絵巻に登場する存在にすぎないのである。


 自然主義者の立場である自分から考えると、少なくとも汎神論の立場は科学的に理解できる。だから自分は汎神論の立場をとる。


 汎神論とは、一切の存在は神であり、神と世界とは一体のものだとする宗教観・哲学観である。

 そこに排他性というものはいっさい存在しない。

 人間だけが自分の都合の良いように排他性を見出すのである。

 だから自分は都合というものを嫌う。言い訳はいっさいせず、他の言い訳もいっさい聴かないし無視する。




■無法という法

 リーガルマインドという法の精神は無知の人ならば知って理解すればよく、知ったからといって、理解したからといって、そこになんらの価値があるわけではない。

 基本というものは、法の精神の如く人々のなかから発見され流用されてゆくものである。

 第二次世界大戦の「勝てば官軍、負ければ賊軍」という考え方は、別に第二次世界大戦だけではなく、太平洋戦争だけでもなく、人類史上のすべての歴史におけるあらゆる人間の闘争の結果として現れており、たとえ国際法という世界の法が存在したとしても、無視されるのである。

 市民への無差別爆撃や攻撃に対する戦争責任は、勝者には通用しない。勝者はいっさいの戦争責任を追及されることなく、敗者に対して戦争責任を追及し、敗者に対して戦争の賠償を要求し、敗者をより悲惨な状況に追い込んでゆくことが正当化されているのである。誰によって正当化されているか。それは誰も非を問えないという点でしかない。誰も非を問えないから、正当化するのである。


 ここに勝者敗者を問わず公平な裁断を下す機能があったとしても、勝者は裁断者の意向において、勝者の都合に合わない考え方を完全に無視することができるのである。

法があったとしても、世の中は実力主義であるから、勝った者の論理が正当化され、法の内容は勝者の観点から勝者側の都合の良いところしか引用されないようになっている。

 これが無法の法であり、この無法の法はあらゆる法律や法の上位概念に位置するのである。

 勝てばあらゆる法律に縛られず、負ければあらゆる法律に縛られてゆく。

 勝者が法をこしらえ世を勝者の観点に従った安寧に導かれるのである。


 かつてこれまで勝者側に戦争責任が問われることはなかったし、これからもない。

 責任とは常に敗者側にあるのである。

 責任の対義語とはなにか。

 これは自由である。

 勝者は常に自由であり、無法の法に基づいているから、自由という名の法である。

 自由とはいっさいの責任の束縛から離れ、すべての管理を掌握することができることだ。

 これが勝者の証である。

 そこに賠償というものは存在しない。

 
 かつて古代ローマにおいて数々の剣闘士がコロッセウムにおける勝者となり自由を得てきた。

 勝った彼らは、自由を得るために数多くの殺戮を繰り返した。大観衆の応援するなかで。

 その殺戮に対しての責任を勝者はいっさい追わない。

そして彼らは自由を得たのである。

 論理は勝者がつくり敗者の考えはすべて非論理となるのである。

 そこに正義という思弁や主張は勝者にも敗者にも通用しない。

 これが人類という生物である。

 人間はいつか自由を得るために闘い続けるのである。


 個々に自由だと思えば勝者の証であり不自由だと思えば敗者の証となる。


 したがって人間は部分的に勝ち部分的に負けるこの衡平の原理を保つ必要性が出てくるであろう。実は両極端はとても陳腐なものであってつまらないことだからである。

 自由と不自由。この双方を保つことが衡平の原理であってそこに新発想が生まれるのだ。

 人間はひとつひとつの現象を注意深く観察し、それが自由なのか不自由なのかの判断を各自行ってゆかねばならない。

 それをしないと、


 本当に戦争が起きてしまう。戦争には勝者にも敗者にもいずれにおいても人的物的被害が生じる。これを引き起こしてはならない。

 戦争を未然に防止するためには衡平の調整を日々行ってゆかねばらない。



novel1day
novel1day
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

検索 検索
友だち(18)
  • 蜂蜜の風
  • 鬼ノ目発進号
  • 鷹翔
  • ばっど
友だち一覧

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』

その他のキャンペーン

みんなの更新記事