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■責任感
責任感の強い人は、「それはあなたの責任だ」とは言わない。
自分の人生を生きている人は決して「それはあなたの責任だ」「それはあなたに原因がある」とは言わない。
忍耐力の強い人は、「それはあなたの責任だ」「それはあなたに原因がある」「忍耐力が弱いね」とは言わない。
つながれている犬は、ワンワン吠える。
責任感のない人は犬と変わらない。
犬は単につながれている環境に侵入してくる異物に対して警戒しているだけである。
責任感のない人は自己の警戒心から相手の責任を見つけたがるのである。
犬はつながれているからことあるごとに主人に責任があると思うだけだ。
芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」がある。ご存じの方は多いだろう。彼は古典を題材にしそれをアレンジして短編小説にしてその古典に含まれるテーマを強く引き出すことに長けていた。というか、それ以外の自然主義文学に挑もうとして死んだ。彼は志賀直哉の近づこうとして死んだのである。志賀直哉の近づこうとしたのに出来なかったのである。自然主義は、自己責任の塊の文学である。相手に責任転嫁をするような小説を書かない。書けないのではなく書かないのである。
志賀直哉が芥川から小説を書くことができないという悩みの相談を受けたとき、書けないときは書かないほうがいい、書けるまで待つことだとアドバイスした。無用な何かから追われている意識に常に苛まれていたのは芥川である。
「蜘蛛の糸」は血の池地獄で溺れている主人公カンダタが天から降りてきた一本の蜘蛛の糸にしがみついてよじのぼり天国へ行こうとする物語である。カンダタがよじのぼりはじめると他の亡者たちもそこにつかまってよじのぼりはじめようとする。それに対して怒ったのがカンダタであった。すると糸が切れて、カンダタは他の亡者どもとともに血の池地獄に真っ先に落ちた。この作品だけでなく、起承転結のお手本は芥川から学ぶことができる。どの作品も起承転結の硬いお決まりのパターンで決まっている。
カンダタの責任を見抜いて糸を切ったのは、その糸を天国から地獄へ垂らしていた釈迦であった。正確には、釈迦は切ったとは言えないのであろう。糸は切れないようにできていることを知っていたのは釈迦だけである。糸を切ったのはカンダタ自身の心であった。カンダタの心が自らを救済できるのみならずすべての人を救済できることを一本の糸に託して信頼しておれば、その糸をよじのぼって、カンダタのみならずすべての亡者が天国へゆくことができたであろう。本作品にはカンダタのあとを追う無数の亡者の心境を説明していない。すべての亡者はカンダタのよじのぼる姿をみて、ただそこに救いがあるだけだと思い必死によじのぼっていただけである。そこが滑稽なところだ。彼らは必死であるから、糸が切れることに思いを寄せることはなかった。
そのいっぽうで、カンダタが他の亡者と同様によじのぼっておれば、筒井康隆のアレンジ同様になる。筒井康隆の小説では、ユニークなことに他の亡者とカンダタ自身が全員蜘蛛の糸をよじのぼり天国へ行ってしまった。それに慌てたのが釈迦である。あまりに慌てた釈迦は、はるか下の地獄を見降ろしたときに、自らまっさかさまに落ちて地獄の池で溺れることになった。見事なアレンジだが、これは笑えない。皮肉がきつすぎるのである。そもそもSFは社会風刺のために書かれるのだが、皮肉がきつすぎる。これじゃ、社会転覆を図る革命家の思想だ。
きつい皮肉をしないのであれば、全員が天国で楽しく生き、地獄が勝手に消滅するという終わり方で締めるであろう。釈迦は渋々認めざるをえないとして。因果応報の習いに従って、カンダタだけに救済の道を与えたのだが、それにつるんで余計な者たちまですべて天国へ上ってきてしまったのは釈迦の想定外という終わり方であり、釈迦の苦笑と諦めが描かれておればそれで充分な顛末である。天国は地獄の亡者であふれかえり、彼らは永久に宴会騒ぎをし、釈迦だけがため息をついている。このような設定を筒井康隆の小説では描かれていないのである。これがマイルドな終わり方だ。
原作ではカンダタが意図しない糸切れにより他の亡者と同様に地獄へ落ち戻った。そこにため息をついたのが釈迦である。
欧米人は他人の責任にすることが得意なようだ。カトリックは免罪符で責任転嫁をした。その影響を受けている現代日本人は気軽に楽な方を選ぶようになったらしい。その欧米人のなかにも、かつての日本映画「切腹」という映画の内容に共感を受けた者もいるのだろう。中には。
かつての芸人?ギター侍という存在がいた。今もいるのかもしれないのだが、自分は知らない。彼の芸は自ら滑稽な社会風刺をして、それに対して自ら切腹するという言葉で締めることを繰り返していた。ピン芸人として一世を風靡したが、彼の姿勢は誠に真摯であることがうかがえるのである。
自分の人生を生きている人は、接し方が異なる。自分の人生を生きていない人に対してため息をつかざるをえないのである。
かように相手に責任があるとは言わないのである。血の池地獄へ戻ったカンダタが周囲の亡者に対して責任転嫁を送る永久の日々。これ容易に推測されるのだ。
責任転嫁をしやすい人は普段から命ぜられるままに生き、何も考えてはいないか、どのように相手を利用できるか、そのように利用することばかり考え、楽に利を得ることばかり考えているのである。
人間の言動はその本人の行動、普段見えない本人の環境の鏡である。
自分の人生を生きている人は、軽々しく「それは〇〇の責任だ」というふうに責任転嫁をしないものだ。「蜘蛛の糸」では描かれていないが、地獄へ落ち戻ったカンダタが糸が細すぎたとか、他の亡者の責任にするとか、そんなことはしないものである。
自分はかつてブログに芥川の蜘蛛の糸をアレンジした作品を載せたことがある。ほんの一部だけ改変した。わずか2、3行だけ改変しただけだ。これが自分の姿勢だ。この姿勢とは他人の責任には決してしないということである。一種の菩薩業。
考える力のない者が即座に言う言葉、これが「それはあなたの責任だ」という。モンスターペアレンツも同様。モンスターペアレンツは不自然だ。 普段から不満を抱えている人が責任転嫁をする。自然主義者はそんなことはしない。
なお、もうひとつ書いておこう。
ZOZOTOWNの創業者がZOZOスーツの不始末や本業に集中していない理由かで株価が下落している。社会批判を浴びて本人がツイッターを停止しているようだ。
彼は自己責任を常に負っている。言い訳はいっさいしていない。責任転嫁もしていない。
責任転嫁をしやすいのは、一般庶民であり、それに影響を受けている投資家である。
両者とも道理が解っておらぬバカタレどもだ。
責任感のない者は他にもたくさんいるだろう。
出版社もそうなのではないのかな。
責任感のない読者側に立つのだから。
責任感のない読者側に立つものだから、出版分野は読者側にたって釣るようなことばかりしている。
■正見悟空
どうやらポール・セザンヌは正見悟空の手法を用いて、サロンに挑んでいたようだ。
サロンに落選し続け、1度だけサロンの付き合いで入選したが、その1度限りの付き合いが無くなった翌年からは、いつもどおりに落選し続けた。
どうしてセザンヌは不正の見方を持つことができなかったのであろうか。
サロンの不正の見方である。
エドゥワール・マネは不正の見方を知っていた。だから入選し続けた。彼の狡猾なところは不正の見方を表向きに表現しつつ、別の新しい視点を示したことである。マネはサロンの不正の見方を知っていたから、彼らが気がつかないところでひとつの新しい試みを作品に仕込んだのである。
セザンヌの滑稽さは、正見の手法だけでサロンに堂々と挑んだことである。
サロンの方向性を無視した。
サロンは保守的なグループである。だから方向性を無視された作品はすべて刎ねる。これは当たり前だ。
サロンは紙面においても影響力を持っていた。だが、紙面の扱いがセザンヌのほうへ変わってゆくと、サロンは自分たちの方向性における影響力がしだいになくなりつつあるのを知り、やがてサロンの方向性自体も変わっていったのである。
不正な見方とは美術評論家や文学者たちが思い込んでいる評価しやすい空想や妄想の世界観で扱われる見方である。そもそも絵画とはかような見方をするものであって、絵画の意味とはかようなものを、言い換えればテーマを表現するものであった。テーマを表現するものであるから、評価をしやすい。不正の見方では、テーマがない、たとえば「無題」、「コンポジション」といった題名だけの作品は、単にテーマに至るための落書き程度にしか扱われない。絵画とはこうした狭い世界に生きる人々の講評の場を提供するために存在していたのである。また彼らはそれを生活の糧としていた。彼らは絵画を描くことはできない。スケッチをすることすらも、デッサンをすることすらもできないし、彼らが使う鉛筆は文字を書くためだけにある。文字で思想や視点を考えることを生業としている者たちである。だから、物理というものを無視している。
物理を無視するがゆえに、空想や妄想の世界を描くことが絵画であると思い込み、それらが描かれておれば、評価しやすいし、それらが描かれておらなければ評価をすることができない。
だから、文学者たち(詩人も含む)や美術評論家たちはサロンの見方と同様の指摘をセザンヌに対して行ったのである。
正見とは物理である。不正な見方とは妄想だ。妄想や空想は叩きやすいし評価しやすい。描けない者たちにとって。
そもそも論における表現形態の力学の構造。これが絵画の基本である。
これを徹底的に追及したのがセザンヌであった。
現代絵画は近代絵画を基礎としているが、近代絵画をすっ飛ばしてさらに古い古典に舞い戻っている者たちも多い。実は現代は多様性と個人の志向性との許された世界観のもとに好き勝手に個々の志向性を追っている。好みで選ぶ世界となっているのである。
そもそも論における物理を追求する者は、
皆無なのではないのかな? 絵画は妄想を表現することだと思っているひとたちが、ほとんどではないのかな?
これが正見であることを、現代の多様性は軽視しているのであろう。
なお、悟空の意味は孫悟空の名前ではなく、空密を悟るという意味である。
空密についてはかつて自分なりの答えをブログに示してきた。
空即ち密であり、密すなわち空である。密は自然にのみ存在している。人間の頭脳にはない。自然主義者であるセザンヌは水墨画や浮世絵を否定していたが、彼自身が否定していた世界観を彼自身が具現化していたとは、非常におもしろいのである。
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