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■平成最後の日
本日が平成最後の日。
明日から令和になる。
平成はね、地面が平に成ったところもいくつもあるだろう。その痕跡がまだ残っている。
明治大正昭和平成そして令和。1、2、3、4、5の時代を通過している者もいるだろう。
日本の元号の特異性はガラ系の連中を大量に生み出した風土にある。
人間の記憶は意外にその時代の環境に意識せずとも影響を受けている。
天地人という言葉をきちんと知っている人は、その意味を丁寧に理解していることであろう。
天は元号であり、その下で生きる地という環境のなかで、多くの人が天地の影響を知らず知らずのうちに受けているのである。これは個々人の個性はまったく関係ない。物事の見方がごく自然にそれぞれの天と地と人との関係性において、それぞれの考えとして身についている。この土着性、これがガラ系というものである。これはすべての元号下においてそれぞれの影響を日本人だけが意識せずとも感覚として受け取ってしまい、その感覚を持ってしまう。
日本は伝統行事類を除いて旧暦(太陰暦・天保歴)をほとんど意識していないが、西洋歴と元号の意識は深い。元号は新暦であろうと旧暦であろうと関係ない。江戸時代以前においては暦の基本となっていたが、西洋歴(太陽暦)が日本に導入されてから、いろいろな混乱を経たのちに、元号の変遷もその上に乗っかっている。太陽暦は地球が太陽の周りを1周すると1年と決めた暦の計算方法であり、元号の変遷は天皇の交替で生じる日本独自の暦の変遷である。
年賀状には西洋歴で記している場合と元号で記している場合があるけれども、傾向としては西洋歴で示しているものが多い。祝2019年!という具合だ。自分はどちらも併記する。今年は令和元年となる。祝令和元年!という具合に今年の年賀状に書きたかったが、昨年の12月中旬にはまだ分からなかったから、祝2019!しか書けなかった。
どちらかというと、多くの人は西洋歴のほうを重視し、元号の年数ではピンとこないのではなかろうか。
今年は? というと、たいていの返答が西洋歴である。
天皇の存在の意識をほとんど持たない日本人たちは、太平洋戦争のあとにおいて顕著になり、今の時代において「日本人」を意識している人すらが少ないのではなかろうか。
なかには日本人を定義してくださいという疑問を投げかけて返答に窮するのを楽しむ哲学研究者もいるだろう。
日本人を定義することはとても簡単である。自分が日本人だと思う者が日本人であり、自分を宇宙人だと思う者は自分が宇宙人なのである。国籍、住所、居所、こういった天地人の地にあたるところは関係ない。〇〇人というのは感性の問題であり意識だけの問題である。仮にイタリア人が本人を日本人だと言えば、それで認めてやればよいのである。
別に平成だろうと令和だろうと深く考える必要はない。
ないのであるけれども、意識だけはしておくべきことである。
別に日本の旗を家の前に掲げるのは各家庭の勝手であるが、国旗と元号と日本人との関係性はない。本当にはないのであるが、意識だけはしておくことがガラ系の務めであろう。
あなたはどこに住んでいるのか。それを意識していない者が、元号に反発するのだ。好みや個性で考える者は天地人をまったく理解せず自分勝手に生きている者である。
■虚しく行きて満ちて還る
自ら納得を求めているあいだはまだまだ虚しいものだ。
気がつかぬあいだはまだまだ虚しいものだ。
虚しく行きて満ちて還る。
この言葉は未熟な道元が禅のひとつの方向性を中国の老典膳から学んだときに、気がついたことである。
道元は日本全体のことを日本人すべてのことを考えて、彼らがすべて納得できる何かしらの思想を求めていた。
口先だけではなく、どうすればすべての日本人が納得できるものを自ら得ることができるか。
決して、対等を求める小さなコミュニティのことを考えていたわけではない。
道元が対等を求めていたならば、決して得ることはできなかったであろうことを老典膳から知ったのである。
典膳とは寺社の料理番である。料理番をすることができる人は、寺社のなかで最も格の高い存在であることを道元がわからなければ、決して料理番から曹洞宗の根幹をなす精神を得ることはできなかったであろう。
道元は対等な存在など何一つ存在しないことを知っていたからこそ、数多くの情報に触れ、そのなかで道元が求めていた日本人すべての人が納得できる何かしらを選択することができたのである。
習いとは何か。学習とは何か。それをきちんと理解している人は、決して対等を求めたりはしない。
世の中、夫婦の離婚理由に「価値観」の違いを言っている人がいる。
価値観が違うからこそうまくいき、価値観の相違が学びを双方に得ることができる。ここに気がつかず、対等の価値観を求めている人がやがて双方の価値観のズレに気がついて、そこに我慢ができなくなったのであろう。
明確にかく。これを「馬鹿」という。
何もわかっていないために、価値観という物差しで対等を求めている。
対等を求めている人は、異業種交流会に出たりすることもなく、お茶会に出席することもない。
対等を求めている人らが集まって小さなコミュニティをつくり、それはやがて必ず崩壊してゆく。
何も気がついていない人々は、対等を求めたがるのであろう。学校ならば、対等を得られると思って学校や集会に出ることもできる。年齢性別職業を問わない対等な立場からの意見や考え方はそれぞれの自己主張の場として、けっきょくはそれぞれの個性に行きついてしまうのである。
子どもは大人が躾をしなければならない。子どもは背伸びして大人目線で捉えようとすると、躾が足りていないことになる。子どもは大人に対等を求めているからである。
対等を求めている限り、トラブルが生じる。
ガイアナ寺院。対等を求めた弱者らが集まってきて、一度に1000人近くの人間が集団自殺をした。
こうした小さなコミュニティは、対等を求めたすえに起きた集団トラブルとなれの果てだ。
対等を求める限り、価値観の相違とぶつかるのである。
価値観の相違とぶつかるゆえにトラブルが生じる。
道元は日本に還り曹洞宗を開いた。道元を頂点に多くの人が集まり、それが今も続いている。
価値観というものがそれぞれ違うことを認めあうことで、対等ではないことを知る。
対等ではないことを知ることで、礼儀作法を知る。
礼儀作法を知ることで、そこで本当にうまく組織は運営されてゆくのである。
猫好きがある分野の人々に多く集まっているのは、猫が人間を1種類としか見ていないことに気がついている。
自分は犬猫は嫌いであり興味がない。だが猫好きが多いのは事実である。
猫の習性をよく知っているのは猫を飼っている人や猫好きだけではない。自分のように猫を嫌っている者も猫の習性はよくわかっている。
猫好きは猫の習性のように世間と接したいという理想を持っている人であろう。
猫は人間を1種と見、そして猫と対等な立場であると猫自身が見做していることである。
猫は人間のそれぞれの価値観を理解しないし、人間を利用することで棲みやすくしているのである。
猫は対等の立場にたてないところには関わらないし避ける傾向にある。猫に社会性がまったくないというのは、こうしたところにある。
対等の立場に立つことを求める人は、対等の立場に立てないところに行かずに、そうした立場に立てるコミュニティに関わろうとするのであろう。
これを愚かという。
わざわざ自分の首を絞めにかかっているようなものである。価値観の相違を理解せず対等を求める環境に入り浸る者たちは、破滅するのである。
不思議なことに対等を求める人同士が絡み合うと、いつか必ず価値観の相違で衝突しあうようになる。
これは初めにおいて格差を認めていないからである。格差を認めて居れば、茶会はスムーズに運び、秀吉を激怒させることはない。千利休は秀吉を激怒させた。利休は切腹させられた。それを反省したのが後世の茶会である。
対等を求めた利休は切腹させられたのである。
立場をわきまえない者は、自然と対等の青い鳥を求める放浪者になるであろう。
世の躾ができていない者たちが世にのさばっていると、世はうまく動かぬ。
これの責任は躾を知っている人々がその厳しさのなかで子どもたちに躾をしなかったためにある。
それぞれの個性の開示を甘く許してやると、とんでもない存在が世に現れてくる。無礼な者たちだ。そうした無礼な存在たちはやはり小さな共同体をつくりそのなかでトラブルを生じさせるのであろう。いずれ消滅する。連合赤軍もそうだったのでは。
ま、こうした存在を作り出したのは、躾の厳しさを知っている人の責任である。
■ベースボール
ベースボールについて書く前に信念について書いておく。
信念とは観客が持つものである。
選手はヤキューに集中しているから、信念どころではないからである。
やきゅーをしていない者がyakyuuをしている者に対して、勝負の信念を持つ。
応援という形で。あるいは分析という形で。
信念とはまだ至らざる未来への願望を意味している。
密教においては、弘法大師空海の姿を秘している。どこぞの建物のなかに。
これが密教の秘密である。今も弘法大師が生きている。その建物のなかに。
この信心こそが信徒の証だ。
誰も弘法大師ではない。言い換えれば、誰も野球選手ではないのである。
だから信心を基盤とする信教が成立する。
弘法大師が生きていた頃は、弘法大師自身がみずからの存在価値を最も理解していたのであろう。だから多くの伝説を各所に創作した。この伝説を伝説と言う名で後世に広めるためである。自らカリスマと化すことで自らの死を永遠に秘した。今も空海が生きているという心象を信念にまで大衆に植え付けさせるために。無論、憲法上信教の自由は誰でもある。政府以外は。
ここでベースボールの話に戻る。
ベースボールは選手がボールとバットとグローブといった道具を実際に使って行う競技である。観客のなかにもグローブを持っている人がいて、ホームランボールを取ろうとする者もいるだろうが、その者自身はベースボールをしているわけではない。
観客は信念を持って野球を観戦し、勝負の行方を見守るしかない。
信念という道具を持っているのは観客であり、ベースボールに使用する道具を持っていない。
観客が持てる道具は信念しかないのである。そもそも信念なければ野球観戦をする必要はなく、信念なくして関心という道具だけ持っていても、関心という道具もまた信念と同様にこの世に実際存在しない。
野球選手はホームグラウンドという道具とそこで試合をするすべての道具を持っている。
現実に。
だが観客には信念しかない。また憶測という無体の言葉しかない。
野球評論家という者も同じである。
評論家は場外にいる人々に野球評論を伝えてゆく。観客にではない。
場外の人々に関心という無体の言葉を持ってもらうために評論するのである。
言葉というものは、抽象を意味する「線」と同じである。
抽象とは見えないものであり、見えない何かを伝播させるために生まれた言葉である。
文字も同様。見えないものをビジュアル化している記号にすぎない。
信念、関心、線、抽象といった言葉自体が見えないものである。
だが、野球のボールが見えなければ、ピッチャーはボールを投げることができない。
試合が始まらないのである。
試合を始めるには、まずは見えるものから手をつけることだね。
そうじゃないと観客が集まらない。
観客はなにしろ見えるものを持っていないのだから。
本当に見えるものを。
なお、信念という道具は、利用するのも利用されるのも自在である。
信念を利用しているつもりでも、いつのまにか信念に縛られて利用されていることもある。
かつて、天皇を神として信じさせた大本営が、いつのまにか布教目的に縛られて、自ら縛り首になったり、自らの首を絞めたり、他人の首を絞めたり、まあ〜本当にこの信念という道具の扱いには慎重にならねばならないのに、気軽に扱うために、日本を敗戦へと導いたのである。大本営という子どもたちの思想が日本全土に多大な負債を残した。
子どもは信念を軽々しく扱ってはならぬ。
ぶっちゃけ信念を持つなと諭しておこう。
信念よりもベースボールをしましょう。
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