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三好達治が書いた「雪」という詩は、2行詩である。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ
非常に短い詩であるが、この詩を絵コンテで表現する入学試験問題を武蔵野美大(通称ムサビ)が出したそうだ。
これに対する受験生の回答が、トンデモナイ発想で描かれているものがあり、採点者は困ったそうである。
現代人は「眠らせ」という言葉を、「殺す」と考えてしまうのだろうか。
この詩の優れた視点をまったく無視した珍解答に苦笑せざるをえない。
「殺す」という理解の仕方であれば、連続殺人事件の絵コンテになってしまうのである。
詩というのは、文と文を構成するそれぞれの語句の意味との関連性から想起される情景描写である。
太郎と次郎を別個の家と解釈するのもよし、兄弟であるという解釈するのもよし、であるが、「眠らせる」という言葉からどうして「殺す」という発想が湧くのであろうか。
おそらくこれが現代人のテレビドラマなどの類から刻印された記憶なのであろうと思われるのである。
たとえばこんなドラマのセリフがあったとすれば、それは死を意味している。
「あいつは草葉の陰に眠っているんだよ」
ちょっとカッコいい表現かもしれないが、眠るという意味をセリフとして理解してしまうと、普通に寝起きするときの眠るの意味とは異なり、別の意味としてとらえてそちらを優先してしまう想起になるのである。
ドラマは刺激を与えるために過度の感性を人間の心理に刻印するように仕向けられている。語義には複数の捉え方があるけれども、三好達治自身は詩「雪」を書いたときにかような連続殺人事件の想像をしていたのではないことは自明である。
おもしろく解釈したい、変わった物の見方を提示したい、そんな思考を持っている者はたしかにいる。
かように考えるならば、「雪」の意味が奇妙なドラマ仕立てとなってしまい、三好が伝えたい想いがまったく伝わらなくなってしまうのである。
しんしんと降る雪の重みが三好の感性のなかにあり、この重みと白い世界が布団のなかで夢見心地に至る太郎と次郎の安らかな気持を見事代弁している。これが情景描写というものである。
太郎と次郎の立場にたたないから、太郎と次郎を殺すという視点をもってしまう。
詩というのは、詩に登場する主人公の気持を察するところに詩の本当の理解があり、主人公の立場に立つところから、三好の本当に伝えたい感覚を共感することができるのである。
それがあくまで客観的にというか、覚めているというか、第三者の立場から太郎と次郎を考えてしまうと、それはもう探偵をするしかなくなってしまう。
探偵は事件が起きたあとにいろいろな状況証拠を調べて事件の原因を探し始める。犯人が見つかれば、それで物語は終わってしまう。
自分本位が過ぎる現代人の視点は、個々人の物の見方を肯定してしまうところに、相手の立場にたつことができなくなっているのである。
三好は太郎と次郎の姿を通して、三好が持つ雪景色の印象と安らかな人間の眠りを2人の心に三好の心を代弁させている。
映画「シャイニング」の結末に、発狂した小説家が雪のなかで凍死するワンカットがある。たった数秒のワンカットであるが、これもドラマである。
雪のイメージをどのように捉えるかは、受験生が試験を受けるまでに得られた数々の経験に基づくものであるが、
一般的な雪への印象を、現代人はすっかり忘れてしまっているのではなかろうか。
詩を探偵のごとく観察するようでは、とうてい共感することはできぬ。
共感とは相手の立場を理解するところから始まる。
倫理というものが教養以前に欠けているのか、誰も教えなかったのだろうか。
美大芸大に教養を問うことはできないけれども、それ以前の倫理を躾けるのは親の責任である。突き放されて育てられた子は、さまざまな分析に力を入れるようになり、共感能力が育たない。素直に物事を考える力は、とても簡単なことから始めることである。大きいものは大きい。小さいものは小さい。大きいものに感動し、小さいものに感動する。親がそうした感動をもつことで、子どもはその影響を受け、素直になるのである。
こんな分析能力を発揮する珍回答は笑うに笑えない。受験生の生い立ちや環境がそうさせているのであろうか。
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