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デザインのカテゴリにしたが、そういえばAIがデザインをすることができるようになったそうだ。
人工知能がデザインをすることができるようになると、デザイナーは不要になる。
AIの膨大な知識データを人間が瞬時に抽出することはできない。人間はのろまに論理的に考えてゆく生き物だからである。したがって即座に答えを出すことができるAIに人間は勝つことはできない。
デザインというものが、知識データの集束から提出されたものであれば、AIに勝つことはできないということである。
ただ、人間の知能と人工知能の違いは、縦の知識と横の考えの絡み合いができるかどうかである。
縦の知識だけの知能の提出であれば、絶対にAIに勝つことはできないが、横の考えを取り入れることができる人間となると、AIが提出できないデザインが可能となる。この点においてのみ、人間はAIに勝利することができる。
馬鹿な人は横の考えを持つことができない。だからAIに勝利することはできぬ。
カニ歩き思考ができる人がAIに勝利することができる。ただ、大病院を無くせばがん患者や透析患者が減るというAIの診断は誠に的確である。自己管理ができぬ者たちを減らすことがけっきょくは人間の長寿命化につながることをAIは知っていたのであろう。課題提示されたとき、その課題をどのように克服するか。その課題すらも課題だと思わない人にはとうてい意味のないことをここで書いた。
現代は、子どもだましはいっさい通用しない。なぜなら子どもは自ら調べることができるからである。1万円のバッグを10万円だと言って子どもに与えると、子どもはそのバッグが本当に10万円なのかを調べることが可能な時代である。昔はそれができなかったからこそ、この思い込みシステムは組織においてうまく働いた。
だが、物の価値は価格だけではない。あげるという行為そのものに価値がある。いっそのこと大人は手作りの品をあげたらどうか。それだと調べようがない。
余談終了。
フォルムというのは何かというと、形である。
六法における応物象形。気韻生動は最後に使われる法であり、他の土台をもとにした感性そのものだ。気韻生動とは感性である。きちんと物を見ることができない人に気韻生動だけを申し述べることは誤った方向性を指し示してしまうことになる。
正しい眼で事物を観察するには、余計なものを一切排除する必要がある。
つぎに重要なのが伝移模写。古典を知らぬ者、歴史を知らぬ者にクリエイティブをすることはできない。歴史好きというのは、縦の知識である。いわば基本である。基本を踏襲できぬ者にはさらなる進歩はなく、そこに客観性というのもは決して存在しえぬということである。
伝移模写を通じ、経営布置を学び、 賦彩随類と骨法用筆を理解する。つぎに応物象形である。物事の理解には順番がある。感覚で捉えると、ぐっちゃぐちゃになる。フォルムの重要性にまで気がつくと、それ以前の集積が役に立つ。そして最後が気韻生動である。温故知新がこれ。人間を育てるのと遊ばせるのとはぜんぜん訳が異なる。
映画音楽を聴くと、クラッシック音楽のフレーズに気がつく。古典研究は最新の表現形態に必要不可欠である。
万葉集などの和歌を知らぬ者に現代詩を理解させると、とんでもない発想が出てくる。これがカニ歩きの発想である。縦の歴史を知らぬゆえに、詩文に書かれた内容をそのまま横の知識で補おうとするから、トンデモナイ発想が生じるのである。三好達治の詩について書いた先日の記事どおりの連続殺人事件の物語を紡ぎだしてしまう。
本来のカニ歩きとは、それぞれの縦の歴史を十二分によく理解し検証したうえでの発想の転換である。中途半端な学習では縦の知識の足かせが緩いため、奔放な発想に結び付く。
眼は横につき、鼻は縦についている。
道元の言葉であるが、鼻はその者の歴史を語り、両目はその者の「今」をさしている。
人相学では両目の幅が大きいほどよいとされている。両目の幅が狭い人は鼻に偏る。
縦は歴史であり、横は今だ。
フォルムというのはしっかりとした縦を具備した者が現実にあるものを診るということである。
こうは書いても、理解できる人は少ないのだろうか。
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