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侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

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書という風景

■想像

 想像には裏がない。裏がおもてに出てしまっているからである。

 物には裏がある。人間の眼は決して物のすべての面を同時に見ることはできない。

 だから必ず裏があるのである。

 想像とはもともと隠れており見えないものであるから、それを表現してしまうと裏を見せていることとなるのである。だから、想像には裏がない。

 




■書という風景

 自分はただの説明にはまったく興味はない。説明は調べればわかることだからである。基本はすでに学習していることが前提である。事前学習がすべての基本だ。教育でいえば、予習。予習の重要性は、理解できていないところをあらかじめある程度明確化して準備しておくことである。わからないところをあらかじめ知っておくことが予習であり、それをすることでポイントを絞って不明な点を学習することができる。つまり、時間の節約となる。予習は時間の節約のために必須である。


 絵画にも風景は見えるけれども、書においても風景は見える。

 中国の芸術として書画というくくりで観るとするならば、書のほうが画よりも格は上である。

 その理由は、風景を削る作業において書は最も洗練された芸術であるからである。

 そもそも人間の表現とはすべて抽象である。具象を模する表現行為そのものが抽象である。

 たとえば三遠法という手法を例にとると、画には画を構成する要素に余計な表現が含まれざるをえない性質があるけれども、書は象形・会意を通じてそこに見得る風景の象徴を究極に削ったものであるから、画を構成する遠景・中景・近景これらに付される構成要素のいちいちを意識する必要はない。むしろ風景を究極に純化し、風景を見る人間の心の機微を細やかに的確に表現することが可能な点において、やはり書は画よりも格が上であると言わざるを得ないのである。

 書は凝縮された心の風景であるから、必然書き手の姿勢や筆の動作の姿まで明瞭に想像しうる。

 そもそも水墨画の由緒は書が出来ぬ者より創めた新しい芸術である。書が先にあり水墨画の歴史はその後だ。書の風景を上手に描けぬ者による具象に至ろうとする試みが水墨画の誕生となった。

 古典の書には数々の風景を見ることができる。

 個性ある書もまた多い。

 だがこれら個性の書法家らの頂点にいまだに君臨し続ける者もいる。

 それが王義之である。

 王義之の書の風景は決して力みや魅了させうるものではなく清冽素朴に自然を見ている眼だ。

 この眼が最も自然に素直に描かれているのである。字形間の空白を基準とし流れる墨の姿と止め撥ねの極意、それから文字自体に見られる強弱のバランス、同じ字形がひとつもないというところも含めて、自然そのものを見ることができる。

 王義之の書には真蹟が存在しない。すべて臨本である。少なくとも臨本者は王義之の真蹟を目の当たりにしているのであろう。臨本者は王義之の眼を理解し王義之が見た風景を見ようと試みながら臨本に励んだのであろう。けっこう難しいものではなかったのであるまいか。

 それを今、自分は診ている。
 
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