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■モノは考えよう
モノを考えようではなくて、モノは考えようである。シンキングスタイルにはポジティブとネガティブのいずれかの考えがある。
「私は私」と考えてしまうと、それはもう本当にネガティブな考え方である。
たとえば、人生に輪廻転生があると思っている人がいる。人生に輪廻転生があるとするならば、他の動植物にも必ずそれがあるということになる。生き物は人間だけではないからである。
自分はスピリッチュアリズムを完全に否定しているがゆえに、こうした考え方がひとつひとつの選択に無駄を減らすようにしている。
輪廻転生は得てしてそれを認める人の言い訳でしかない。現状に甘んじる人の言い訳だ。
スピリッチュアリズム自体はすべてそれを信じ込んでいる人の、言い訳である。
言い訳は人それぞれ持っているだろう。その考え自体がネガティブなのである。
モノを考えることは誰でもできるし、誰でも考えて行動する。当たり前である。
ただ、ほんのちょっとの考えようの違いによって、その行動に大きな差が生まれてくるのである。
考えること自体には価値はない。誰でもできることには価値はまったくない。誰でもできないことに価値があるのである。
それがモノは考えようである。
自分はネガティブシンキングをする人を遠ざけている。そこから離れることができない人であり、本人も気がつかずに周囲を巻き込んでしまうアリジゴクと化しているからである。ただ、アリジゴクにしても何らかの考えがあるのであろう。その考え自体には何ら価値がない。本人の体力の問題だけである。ネガティブシンキングをする人は、体力がない。ポジティブシンキングをする人には体力がある。これが正体である。
「タワシはタワシ(束子は束子)」であることは当たり前であり、「ワタシはワタシ」であることも当たり前だ。
だから? それ自体が体力のない証拠である。そう言うこと自体が体力のない証拠を表明していることになる。
モノは考えようによってモノの見方は変わる。
そういう人は本当にその本人の体力を自覚しているのか?
ないと思っているだけなんじゃないの?
人生とは体力そのものである。これは真実だ。
■同じような意見
同じような意見が頻発したとき、自分ならどう考えようか?と想うのである。モノは考えようによるし、見方にもよる。
同じような意見がでてきたときは、本当にそうなのかな?と想うことである。
要はひとりひとり素の本当の気持で納得しているのか、そのように普段から思って正しく検証しているのか、別の案もあるけれども、それは皆が納得できるようなものではないと思い込んでいるのか、強引にそう決めつけていないか、といったイメージの理解をもっているのではなかろうかと思えるのである。
たとえば、絶滅した動物は本当に絶滅しているのか?
これに関しては、誰もわからないことである。
幽霊は本当にいないのか?
UFOは本当に存在していないのか?
UMAはいるのかもしれない。。
といった、誰も想定しかできないような事柄に関して、同じような意見が出る。
それは
「NO」だ。
なぜ「NO」と言えるのか。
不存在の証明をしない限り、不存在であると認定することはできない。
同じような意見がでるときというのは、こうしたど〜でもいい興味の有無を要する事柄に関してである。
意見というのは、そもそも動いているところはどこか。
それは「口先」だけだ。
口先を動かす大脳の活動だけにすぎない。
大脳は頭蓋に囲まれて、実際に何も見えていないし理解できていないのである。
ひとりひとりの大脳はすべて頭蓋骨のなかに収められているゆえ、そのなかで考えていることは、実際ではない。現実ではないということだ。
「同じような意見」が出るときは、こうしたひとりひとりの大脳の働きによる発信でしかなく、立証性と客観性に対する個々の偏見並びに記憶でしかないことに気がつく必要があるだろう。
「同じような意見」が出るときは、気がついているところも同じところである。
他に気がついているところはないか。
いろいろ気づきがたくさんあると思うのであるが、それは個々の大脳のなかで勝手に処理してしまっているのかもしれない。
だから、「同じような意見」しか出ないのである。
こういうのを馬鹿という。
馬鹿は何も考えていない。
馬鹿は人数を問わない。
だが、誰でも気づくことはできるだろう。そこに着眼するか、そうしないかは、個々の英断に依る。 ■空想
空想で描かれたものは一切悟空であり、とうてい観察しうるものではない。そんなものに興味を示すことは自ら無駄な時間を費やしているだけのことである。
■輪廻転生
人間には数多くの思想を持っている人や一切の思想を信じていない人もいる。信じるか信じないかは個々人の勝手である。一切の思想を信じていない人に対しては特に問う疑問は生じないが、思想を信じている人に対しては、自分はいろいろな疑義を持つ。
そのうちのひとつ。輪廻転生という考え方がある。
インドの思想であり、具体的にはヒンズー教の思想のなかにおいて「輪廻転生」という考え方がある。
ヒンズー教というカースト制度を認めている社会において「輪廻転生」の考え方が肯定されているのである。
クシャトリアという貴族階級を維持するためには、バラモンという階級を維持するためには、どうしてもバイシャやシュードラという階級が必須不可欠である。
カーストという支配制度を末永く安定化し永続させるために必要なことは、輪廻転生という方便である。
生まれついて奴隷身分になった者は、生涯奴隷である。これに反発する奴隷を納得させるための方便が輪廻転生という考え方だ。
奴隷を奴隷として一生末永く生かせるためには、奴隷身分という動かしがたい現実を動かしてはならない。
だから、死後において次に生まれ変わるときには貴族階級にという願いを奴隷身分の人々に言い含める。クシャトリアがである。
そうすると、奴隷の反乱がおきない。
社会構造は安定するのである。
なかば奴隷たちは魂の転生という考えを受け入れてしまい魂の存在まで認めてしまうことになる。
これがスピリッチュアリズムの原点である。
輪廻転生は小説にも援用された。
山田風太郎原作の「魔界転生」。
現実の世界が魔界であるがゆえに、死後においても魔界にたどり着き、こうした黄泉の世界の住人たちが現実の世界に舞い戻ってくるSF物語である。現実の世界に生きる柳生十兵衛は魔界の世界から舞い戻った亡き実父柳生但馬守と現実の世界で対決する。そして父親に本当の死を教えるのである。
柳生十兵衛はいっさいの輪廻転生を認めていない。現実の世界だけに生きる男である。本当の死とは何かを知ることができなかった父親に対して、本当の死を教えるのである。スピリッチュアリズムとは魔界に翻弄されて金もうけに走る現実の人々の方便である。彼らは魔界すらも商売のネタにできている。カースト制度も認めてしまい、それを器用に利用して利益を得ている。
ここで結論のほうを先に書いておくが、輪廻転生は存在しない。人間も他の動物も同じ、一生である。二生も三生もない。
小説の世界を援用すると自分は柳生十兵衛の姿勢である。魔界転生を決して認めない一生である。現実が魔界であるとも考えたことはない。現実が魔界であると考えている人は、おそらくいろいろなグッズ販売を行ったり、講演をしたり、人集めに執着したりするのであろう。
世の中には輪廻転生という方便を信じている者がいる。面白いネタになるが、これはある意味さまざまな環境を受け入れて精神の安定を求める人々の方便である。十兵衛はそんなことは気にしない。笑い飛ばすだけだ。面白いネタとしてね。面白いとは他人の人為的操作を知らずに信じ込んでいる行為そのものである。誰が作り出したか知らない方便はいつのまにか世の中の人を納得させる力を持ってしまうのであろう。
宗教の凄さは現実を単純化し思念を複雑化するところにある。本当は逆なのであるが、それをそのままにしてしまう人々は、逆にすることができなかったからである。 |

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今晩は。あなたが遠ざけたい人間です。
馬鹿だしアリ地獄だという自覚はあるんですが…。
ただ、だから一生というのか、と思いました。
勉強になります。ありがとうございます。
[ shi***** ]
2019/5/21(火) 午後 10:39
shi***** さん、コメントありがとうございます。
誰でも知らないことは馬鹿なので(自分も同じです)、特に気に留める必要はありません。馬鹿は恥ではありませんよ。その代わりアホは良くありません。悪意だからです。馬鹿は善意なので何の問題もありません。そのあとのフォロー次第ですね。アリジゴクとは、要はネガティブ思考を愚痴という形で慰めているだけですね。それで周囲の反応を伺うことです。愚痴はね、信頼を損ないます。これは本当ですね。誰でも自覚はあっても、それを言ったところで何ら解決の道が見えてこないことを知っているからこそ、言わない人も多いですね。これこそ考え方次第です。一生は1度しかないので、どんどん勉強してゆくことが自分に自信をつけさせますよ。がんばれ!
2019/5/22(水) 午後 11:24