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侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

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大切なもの

■居酒屋

 そういえば居酒屋の数々の一品料理は、なぜおいしいのか。


 それはね、ひとつひとつが凝っているからさ。

 どれも値段がつく料理だからさ。

 家庭料理では出せない味だからさ。

 家で作れるんだったら、居酒屋には出さないよ。


 だがね、値段のつかない料理もまた日常には必要だ。

 なぜかって?

 それは、これがあるからこそ、プロの味が引き立つのである。




■大切なもの


 小さなころは大切なものがそこらじゅうにあふれていたが、大きくなってくると、それがだんだんと減ってくる。これがそうだ。本当に大切なものだけがどうしても残ってくるんだね。

 本当に大切なものが見えてきた証拠だ。

 子どもっぽい人は、これがまたぜんぜんまだまだ見えていない。だがいつかわかるだろう。


 子どもっぽい人はあれこれ自分の想うようにしたがる。

 だがそうはならないことをおいおい気がつくことになるんだね。

 いつかね。
 
 見えていない人が多すぎる。


 注文の多い料理店という宮沢賢治原作の童話がある。

 この童話は大人の狩人を待ち構えていた猫が食ってしまおうとする話だ。だが最後に狩人が飼っていた犬がやってきて猫を追い払ってしまう。

 猫はわがままで本当に聞き分けのない子どもと同じである。

 大切なものって何かがぜんぜん見えていない。これを宮沢賢治は童話で語っているんだね。

 知らないことを理解しようとしないこともまた、子どもの証拠である。

 子どもを持つとそれがわかるようになる。

 大人はね。





■人間の器

 そういえば森村誠一原作の小説「砂の器」を思い出した。

 タイトルに示されている「器」とは、人間の器量を指している。


 砂はもろくも崩れてゆく存在だ。

 だから小説では、人間の器量が砂上の楼閣のように崩れてゆくさまを描き出している。


 器量が失われると、人格が失われる。人格が失われるともはや人間でなくなる。器量が失われた人間は心がたいへん醜くなる。


 人間であり続けるためには、こうした人格を失った存在を回復させてやる必要性があるね。

 「砂の器」のテーマはライ病患者に対する人間の心の持ち方である。ライ病に対する偏見や差別は患者には予想外のことであろう。ライ病患者は毎年21万人ほど新規にできあがるという。感染源は、患者自身が多い。接触感染だ。ただ濃密な肉体接触があったとしても、大人は抵抗力を持っているゆえに感染しない。そこを過度に勘違いして差別意識を持つようになる。ゾンビに触れるわけにはいかない、自分がゾンビになってしまうと考えれば、これが差別である。大人の勘違いだ。本能の防御意識が勘違いをさせてしまう。

 感染源はほかに昆虫もという報告もある。いちおう社会的に隔離する必要はあるだろう。感染することはないのだが、偏見や差別が隔離を要する。
 
 ここで大切なことは偏見や差別は人間の器量を問う。


 器量とは何かを説明すると、人間が物事に処する姿勢の深さである。言い換えれば知識力と理解力である。

 量とは度量を示し、清濁併せ呑む幅広い視点を持っていることも度量に位置する。それだけではない。だから「も」としている。


 「器」は人間の視点が広く大きいほど「器」は大きくなり、人間の視点が狭く小さいほど「器」は小さくなる。

 「器量良し」とは単に見た目の麗しさだけではない。

 麗しいとは心そのものが麗しいかも含まれるのである。

 ここもまた「も」としている。

 器量とはまだまだある。いろいろな視点がある。



 ただはっきりとわかるのは、物事の処し方ひとつからして、その者の器量を推し量ることができよう。  

 大器か。小器か。

 ただこれだけは言える。

 大器は、数多くの小器で留まる人のなかから現れてくる。

 小器どもの意見を聞き流しているわけではなく、しっかりと耳に入れているうちに、清濁併せのむことが出来る。

 だから時間がかかるんだ。

 無知な人間は弱い。だからいろいろな声を耳にすることがある。

 居酒屋ではね。





■何がわからないのかがわからない人へ


 要は、スタートからゴールを設定しており、そのゴールの結果が見えてこないと思っている人は、その途中の「何がわからないのかがわかっていない」人なのである。


 もっと砕けていうと、「原因」を特定できていない。

 世の現象のすべては因果の法則で成り立っている。


 原因が特定できれば、そこを改善することである。

 だが、その原因が特定できていないために、「何がわからないのかがわからない」のである。


 言い換えれば「なぜ結果がでない」のか、なぜ「想ったとおりにならない」のか、がわかっていないのである。


 おもしろいことに因果の法則をきちんと理解している人はあんがい少ないのではあるまいか。


 一言でいえば、戦略ミスである。

 その戦略構築には結論の原因がすべて含まれている。

 想定外の結論になったとすれば、想定自体が戦略構築のなかに含まれているからである。

 その想定のなかに原因はある。その想定の検証を繰り返し調べあげない限り、想定外の結果が常につきまとう。


 必ず水は上から下へ流れる。例外なく。これが自然現象である。


 他に何も考える必要はない。当たり前だ。


 それに逆らって何らかの想定をしていると、それが原因であることに気がつかないのであろう。


 何がわからないのか、という文言の「何が」といのはそれだ。


 想定そのものである。

 思い込みという奴である。


 人間はその思い込みという奴で自分を騙すことさえできてしまうし、他人に語らないことさえできてしまうのであろう。

 そこが原因だ。


 思い込みの精査をしない人、これを愚か者という。

 火に触れば熱いに決まっている。


 1+1=2であり、1−1=0。

 当たり前だ。

 それ以外の想定をするから、いつになっても何がわからないのかがわからない人であり続けるのであろう。。

 想定は漫画やアニメではない。小説でもないし映画でもない。

 

■思考の現実化


 人間にはいろいろな性格がある。

 3÷2=1.5だが、2÷3=0.6666666666666・・・・と無限に割り切れることはない。


 人生を数字と同様に考えて割り切れないものだと考える人もいる。また、割り切る人もいる。これがモノの見方である。3÷2か2÷3か。


 また読書をする人もいれば、読書をしない人もいる。


 他人の話をきちんと聴いて、考える人もいれば、まったく他人の話を聴かない人もいる。

 それをまた職務上の関係で捉える人もいれば、職務とは関係なく捉える人もいる。

 学んで実践する人もいれば、学びを求めない人もいる。

 学びを求めない人は学びを求めない人の思考がそのまま現実化している。経験論者である。実体験のみ信望する人である。それが学んでいることに気がついていない。


 これら人間それぞれの個性だ。性差国籍年齢をいっさい問わない。

 ともかく、

 いかなる人であっても思考は現実化しているのである。

 人間ひとりひとりにおいて。

 ひとりひとりの考え方自体がそのままそれぞれの人間の行動に現れてくるのである。

 考え自体は決して見えないものである。

 自分にも他人にも、誰にも物理的に見えないものである。

 物理的に見えるものは、視覚のみだ。

 この際視力の良しあしは置いておく。

 ここで初めに書いておくが、

 すべてのモノはそのモノだけで存在できるわけがない。
 
 モノの存在可能性は物理要因だけである。

 物理はひとつの物理だけで成立していることは絶対にありえないのである。

 具体的には地球が自転しているおかげで、大気は宇宙空間に飛散しない。

 これが求心力というものだ。大気を地表に引き寄せる力は地球の自転のおかげである。
 
 大気があるからこそ、そこに含まれる酸素の力で動物の心臓の活動は可能となり、植物の光合成は一部例外を除き可能となる。

 自然現象論をひとことで語るとすれば、それは多種多様で複雑な自然現象をガッチリと組み合わせる法則そのものである。

 しかし、人間は何らかのひとつの物を見たとき、往々にして誤解する。

 視覚でさえ誤解してしまうのである。

 視覚の誤解のことを錯視というが、これが起きる原因は、その物の周囲との関係性とその物自体への前提となる認識である。

 この関係性が個々の経験則に基づき、さらに個々の物自体への前提となる認識自体もまた個々の経験則に基づいている。

 ということは、人間はきちんと物を見ているようで、見ていないということだ。

 思考の現実化というのは、人間は思考で物事を見ていることを意味している。

 現実に存在している物自体を見ることはできないのである。

 これは視覚という感覚器官のひとつを通して認識しているためである。

 もっと具体的に説明すると、たとえば美術教育においてトルソーのデッサンを想定する。トルソーとはデッサン練習のひとつの材料であり、石膏で作られたギリシャ彫刻の胸像である。それをデッサンしている最中に、それの配置や向きを変更してみよう。これでデッサンが壊れる。いちからやりなおしとなる。全部練り消しで消して、また初めから描きなおさねばならなくなる。
 だが、ここでそのまんま描いたとしたらどうなるだろうか。たとえば正面を向いているトルソーを描いている最中に、それを少し横に向かせる。そのまま構わずに描き続ける。それからまた、それを少し横に向かせる。そうやって、構わずに描いている最中にトルソーの位置はどんどん変わってゆくのである。トルソーをぐるりと一回転させてみたあと、出来上がったデッサンは果たしてどうなるか。とてもミョウチキリンな代物ができあがる。
 簡潔にいえばこれがキュビズムだ。ピカソで有名なあのヘンチクリンな絵画があるけれども、キュビズムは多視点で物の存在を表わそうとする手法である。

 物の存在そのものを描くことは本当に難しいということがこれでわかるだろう。

 視覚がいかに志向性に頼っているかがこれでわかる。

 哲学の話になるが、ノーベル文学賞を蹴ったジャン・ポール・サルトルが庭木を見て嘔吐したそうである。果たしてサルトルの前にある木は本当に存在しているのだろうか。それを証明する方法はどこにあるのか。これが「存在と無」。

 物の存在を証明する方法は、視覚以外にも触覚がある。少なくとも見えている物が触覚によって確認できる。

 だが触覚で確認できない場合は、どうすればよいのか。

 他の感覚で確認する以外に存在を証明することはできない。

 人間がいかに知覚で物事を判断しているかが、これでよくわかるだろう。

 したがって知覚を通した思考が現実化するのは当たり前である。

 なぜなら、その現実化したこと自体もまた知覚を通して確認するほかないからだ。






 
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