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ほうれん草はとても栄養価が高い。野菜の中で鉄分が最も多く、鉄分の吸収を助けるビタミンCも豊富に含まれています。 その他にも、カロテン、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンCなどビタミン類も多く、さらに葉酸、食物繊維も豊富なので、非常に栄養価の高い野菜といえるでしょう。←引用はコチラ
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だが、野菜のほうれん草よりも大事なものがこちらの報連相。
報連相とは、報告、連絡、相談である。
これを怠る人は、物事を軽々しく見る傾向にある。
一時が万事という。
報告しなくても大丈夫。
連絡しなくても解るでしょう。
相談する必要ないよ。
すべて自己本位の物事の見方である。自分の思い通りに物事を運びたい人は、かようなことを考える。
要は、
報連相を怠った人が全責任をとることができるのか? その者が全責任を負うことができるならば、怠ればよい。恐らく潰れてしまうだろう。何の権限があって報連相を怠るのか? 本人がすべて管理できる権限と力量を持っているのか?
ということである。
これは相手にとても失礼な行為であるばかりでなく、物事をより複雑化し問題を発生させ、誤魔化しまで産んでしまうという副産物が生じるのである。双方ともにデメリットが高いのであるが、当の本人が気がついていない。。
報連相は物事を滞りなく進め、単純化し、事前に問題を生じさせず、また問題が生じたとしても、ごく軽微に収束させ、報連相をしなかったことによる辻褄合わせに誤魔化しをすることもなくなる。
報連相は社会人としての基礎だけでなく家庭人としての基礎でもあり、そもそも人間関係としての基本中の基本である。
問題を起こし、さらに問題を悪化させてしまうのが報連相の怠慢である。
おそらく報連相を怠る人は相手を甘く見ているのか、自己本位に物事を進めることができると思い込んでいるのか、信頼関係を築こうという意識がないのか、これらすべての要素を持っているのだろう。個人主義を標榜する者の愚かな盾であろう。
報連相を怠る人は、相手を信頼していない。信頼関係を作ろうともしていない人である。
信頼関係を崩すと、けっきょく報連相を怠った人にすべての責任が返ってくる。
これが鏡の原理である。
ただ、鈍感すぎる人はその責任が自ら引き起こしたものであることに気がついていない。
治療も同じである。
癌を隠している人とか。
報告連絡相談をしない人がすべて責任を負うことになる。
責任は報告連絡相談をすることにより分かち合うことが可能である。共同責任にすることができるのに、そこに気がつかない人は、自ら苦しんてゆく。だが、これも鈍感すぎる人は死ぬまで気がつかないのだ。
渡る世間は鬼ばかりでなく、物事の視点や別のアイディアを提示できる人もおおい。
そもそも人間は信頼感が双方の心を安定に導いてゆくのである。不安を作るのはいずれか片方の思い込みからである。
自ら怪我を大きくする人が報連相を怠る人だ。ナメテかかる人もね。こういう者をアホという。
バカではない。バカは鈍感であるが、アホは敏感だ。だから問題を大きくする。
その信を取り戻すことは、バカよりも難しい。この手のアホはどこかでコケて消えるのみ。
中川一政は教え子の初老女性から「先生は、女性をモデルに使わないのですか?」と尋ねられたそうだ。
彼はニコニコ笑って「女性をモデルに使うといつのまにか帯買ってくれと言い出すから」と言った。
帯とは着物の帯である。帯だけでは済まないから着物まで買わされる。着物だけでは済まないから草履やバッグまで買わされる。アホとはこういう女である。ナメてかかっている。
中川は文化勲章受章者であり、舞鶴に彼の美術館がある。
■意識
自分が意識して受け入れたとき、それに変貌する。
鬼仏同宮。
算命学に調舒星 という星がある。調舒星とは四柱推命で言うと傷官星。
芸術の星とも反抗の星とも言われ自分は1つ持っている。
それが3つ持っている人もいるようだ。
調舒星が3つあると鬼仏同宮というらしい。
鬼仏同宮とは鬼の性格と仏の性格を両方持っている両極端な性格である。
怒るときは烈火のごとく、しかも、その怒りは相手を破滅させるまで続く。手加減なし。これが鬼の顔。凄まじい。映画「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカが祖父を殺害した兵士たちをわずか数秒ですべて殺害してしまう。「・・・・・・あ〜あ。みんな殺しちまいやがった」とナウシカのそばにいたトルメキア軍クシャナ殿下に仕える老け顔の参謀クロトワが呆れた顔で言う場面がある。あの場面のナウシカの烈火の如くの怒りが鬼である。
いっぽうで慈愛に満ちた優しさは比類がなく何人も公平に扱い温かく接することもできる。これが仏の顔。これもナウシカが風の谷の動植物を観察するときに見せる優しい姿が仏の顔である。腐海についても同じ目線を持っている。鬼仏同宮を説明するときナウシカの気持の入れ替わりはとてもわかりやすいものとなるだろう。
こんな両極端な性格を持つ人はさぞ疲れるのではなかろうかと思われる。これがコロコロ入れ替わると本人のみならず周りの人も疲れるのではなかろうか。
こっちでは鬼の顔、あちらでは仏の顔を太鼓持ちのように繰り返せば、滑稽である。これじゃあ商売人の顔だ。使用人には鬼の顔。お客様には仏の顔。
だが、案ずるなかれ。
自分が意識して受け入れたとき、それに変貌するという意味をきちんと理解すれば、算命学も四柱推命も受け入れなければ、変貌しないということになるだろう。
自分は傷官星を年柱にもっているが、それを意識したことはない。だからその性格はいっさい認めていない。
人間の意識というものはたいへん面白いものであり、無意識から意識するときの方向性がたとえば正官星の七殺である傷官星の性格であったり、正官星の性格であったりするだけだ。レッテル付けされた性格は生来のものという正体不明な原理を信じてしまうことは非常に危険である。生年月日ですでに性格が決定されるのならば、その根拠がまったく合理性に欠くものである。合理性とは、自然の原理に基づくならば、それを利用しているのが算命学や四柱推命である。だが、人間は四季や月日を意識して生まれてきているわけではない。
「私は7月7日に生まれた」と判ってオギャアと泣いて生まれた子はいない。その理由は尋ねることができないからである。まだ言葉を話せないからだ。ただ、言葉を話せないからといって理解できていないとは言い切れまい。ただし、赤ん坊は24時間の感覚が育つまで時間がかかることは事実である。24時間の意味すらも解っていないのだから年月日など解ろうはずもないだろうという推測は合理性がある。
生まれた年月日時分と性格との関連性は実にミステリアスであり、子平を見てもはっきりとした根拠がなく、生命の原理と日時との接点は実に不可解なのである。かといって、スピリッチュアルなものとして一蹴すべきものかどうかは、疑問だ。それは以下において調べてみると、意外な結果となったからである。
自分のを見ると、本質は丁卯であり、外見は甲寅、物事の決定は戊申。丁甲戊は10個あるうちの天干の意味であり、大樹でいえば幹を表わす。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列がある。それぞれ木火土金水の五行が順列に2つずつ当てはまる。五行は自然の流れである。卯寅申は十二支である。これが地支と呼ばれ、枝に相当する。四柱推命では天干の用神を最も大切にしなければならないようだ。
さて簡単に説明する。
丁卯。丁卯を持つ男性は、さわやかさを感じさせる人が多いでしょう。
やや飽きっぽく、気持ちが変わりやすい面はあるものの、周囲の評判を気にしない芯の強さを感じさせます。納音は炉中火
甲寅。温厚で真面目で思慮深く、仕事熱心で努力家。ことの白黒をはっきりしないと気がすまない。好き嫌いははげしく頑固で融通性に欠ける性格。納音は大渓水。甲寅・乙卯=大渓水(だいけいすい)…谷川の水のことです。渓谷の小さな流れもやがては大海に到達するとし、水の量は少なくても澄んだ心を持ち、ゆっくりだが着実に成果を出して行く。学問、技芸の天分のある星で、積極性は乏しいので、田舎の方が合うかもしれない。
戊申。社交性あって活発な努力家。短気で強情なところがありますが根はやさしくて、情にもろく人の面倒見はよい。真面目は長所ですがやや神経質なところが欠点です。納音は大駅土。人馬や荷物が集まる街道の要所で、土徳を表象しています。栄える場所・大都会。理想よりも現実を重要視し、自分の周りに人や物を引き付ける力を持ち、包容力のある性格。自己自分の努力が天道によって正しく報われる星。
納音でまとめると、性格は炉中火であり、外見は大渓水であり、物事の判断は大駅土である。
3つ合わせて1つの性格だ。ほう、全部当たっているではないか。どうして判るのかが、よくわからない。
実に不可解だ。
単に自分のご都合主義という面もあろうが。 自分は好奇心が強いため、多方面に興味を示すが、根拠があいまいなものについては、いっさい切り捨てる。
かような術に偏見はつきものであるが、それはもう多面的な意見が数多く出てくるだろう。
だが、性格が生まれつき決まっていることについて誰も正確な根拠を示すことができない以上、否定することもできない。だから、自分は切り捨てるだけだ。なぜかというと、因果の法則というものにすべての人が意識しようとしまいと縛られているからである。
因果の法則に縛られると、常に根拠を求めようとする。そうすると、その根拠の物差しをどこにもってゆくかである。
コップのなかの水を飲めば水はなくなる。これが物理現象である。
これは誰が行っても同じ結果になる。
この場合の因果の法則とは、水を飲む行為が原因であり、コップの水が無くなったことが結果である。
なぜこの結果が生じたかというと、コップの水を飲んだからである。では、なぜそのコップの水を飲んだかというと、そこが多くの理由が生じる原因だ。飲みたいから飲んだ。飲めと言われたから飲んだ。飲んでみようと試みた。ほかにもあるだろう。原因が生じるための動機である。これらの動機は誰の目にも見えず、コップの水を飲む本人にも見えない。
因果の法則の根拠というものはかような多面的な動機のなかで設定されるために、根拠というものがとてもあいまいなものとなってしまうのである。
そもそも動機を問わず、あなたは水を飲んだ。これが事実である。
四柱推命や算命学に動機を求めようとしても、それはひとつの見方であって、これはやはりスピリッチュアルなものとして扱うべきものではなかろうかと思える。
人間はあまり考えないために、すぐに思考を直結化させようとする。その直結化とは、想定されていた動機といものを各個人の経験からすぐにそこに結び付けようとするのである。
人間の思考は各自の経験と想定との繰り返しだ。
突然だが「ツチノコって存在するのか?」という疑問が湧いた。
伝説上の動物であって、遭遇した者もいるとのこと。
だが有力説はアオジタトカゲが正体と言っている。
では、そのトカゲがなぜ日本にいるのかは不明だ。インドネシア、オーストリア、パプアニューギニアなどの南洋にしかいないトカゲである。
これは単に有力説にすぎない。
自分なら、ツチノコは存在している人には存在している、存在していない人には存在していないという見方を示す。自分はいずれでもよい。
四柱推命や算命学を根拠にしたい人はそれを根拠にするがよく、それを根拠にしない人には根拠にしなくていい。
自分はそういう立場である。自分はいずれでもいい。
要はパンドラの箱である。中身は空っぽであるが、外見で何かを想像する行為そのものがパンドラの箱である。パンドラの箱とは信じる人には黄金の箱であり、信じない人には箱自体見えないものだ。実は後者が正解である。箱自体が見えないものに、箱の中身がわかるわけがないし、中身そのものがないことは自明のことである。
ただ、信じたい人には黄金でもダイヤモンドでもそんな箱であってもいいのだが、明けてみると、信じない人と同じ結果となる。
箱の中身は何もない。
だからこれをパンドラの箱というんだ。
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