|
日本人写真家で著名な方は、荒木経惟(通称アラーキー)、篠山紀信、蜷川美花、星野道夫(故人)、上田優紀など存命中含めいろいろといらっしゃるが、みなさんメジャーである。自分はマイナーが正直好きではない。マイナーの欠点は、自己満足に浸るところにあるからである。この自己満足が個性となり個性主義の盾を掲げて追求してゆく。
話は変わるが、歌手とマネージャーやプロデューサーとの関係もメジャーとマイナーとの差は大きい。メジャーは自らマネージメントできるし、プロデュースすることもできるが、マイナーはそれができない。正直、メジャー歌手は自ら働きかけることができ、それがすべて当たるため、プロデューサーを別に持たなくてもいいし、マネージャーは歌手の指示通りに動くだけである。メジャーはパワフルであり、マイナーは小さなところでパワーを発揮する。
話を戻す。
自分は土門拳の写真が好きだ。
モノクロ画像の彼の表現力は非常に地についたしっかりとした絵画力を持っている。絵画も写真も言葉で表現できない何かしらの感覚を表現できる媒体のひとつである。この何かしらの感覚とは何か。写真家の個性は被写体に余計なポーズをとらせないことで、被写体自体の個性を消してはじめて初めて撮影主の個性が表現できる。
写真展よりも写真集がよろしいのは、写真展は単なる写真のお披露目会の役割しかなく、実質収入は写真集にあるから、写真集に力を注ぐのは当然のことだろう。展示写真が良ければ、ブースで即売する写真を買わせるのである。この写真集のほうが実に素晴らしいのである。写真が絵画のように壁に架けるという発想は目新しいものではない。
土門拳の手で撮影された昭和の著名人の写真集を見ても、下町の子どもたちの賑やかな写真集を見ても、名所の仏像の写真集を見ても、どれをとっても素晴らしいのひとことである。
これが地に足のついたヒューマニズムなんだね。
このヒューマニズムを失ったのはいつからなんだろうか。
人間力を失った人々は、個々の個性に基づいたつまらぬ美意識を追求しはじめる。土門拳の人間観察力にははるかに及ばない、個々人の自己満足性が世にはびこっているのである。
人間を見失った写真家は人間力が劣化し、器物の趣向に走るのだろう。
これがプロアマ問わず、趣味思考的な商業思考に沿うものとなったのかもしれない。
モノからコトを重視するあまりに、モノを丹念に観察することができなくなった。それはカメラ性能の劇的なる向上からくる、撮影者自身の人間性の劣化である。
人間をきちんと撮影することができる人は、本当に少なくなったのではなかろうか。
メーカー同士の熾烈な競争から、いかにカメラの性能が向上しようとも、絶対に乗り越えることができないものがある。
それは裸眼そのものである。
当たり前だ。
肉眼ほど精密さを持っているカメラはまだ存在しないからである。
だからカメラの性能比較なぞする人がいて、カメラの撮影技術や性能やらいろいろな技術的観点を延々と議論している人もいるのである。
人間の裸眼にどれだけ近づくことができるか。
それは無理だ。
一眼レフの意味をよく考えてみなさい。
人間の眼は一つ目小僧じゃない。写真はどうしても片目で見ていることしかできないので、微妙なズレと整合性を脳内で整理し視覚野で認識する人間技には敵うはずはないのである。
人間の両目は車の運転をするときによくわかる。自動車を運転するとき、人間の両目は無意識に非常に多くの視点を周囲にばらまいている。これが、実は車を運転しないときにも、人間の両目が周囲にばらまかれていることに気がついている人は少ないと思われる。両眼でも一眼でも焦点はとても狭い。だからカメラ撮影すると、どうしても焦点がボケてくるところが生じるのは当然のこと。カメラに無茶をさせているのである。人間は一度ですべてを見ることは不可能だ。だが、撮影者はカメラにそれをさせているのである。ボケる部分が生じるのは当たり前だ。だからつまらぬマクロ撮影なんてもんが流行ったりする。撮影した写真を検分するとき、おかしなところがプロアマ問わず必ず生じる。だが肉眼ではそれは絶対に生じない。無意識なる視点移動がそれをさせないからだ。写真がつまらないのは、肉眼では確認できる存在感と実(現)感が平面上に表現することが不可能であるからだ。こうして写真が単なる情報素材にすぎないという化けの皮がはがれると、次に人間がする方向性は、個性の撮影技術となってしまう。
そこで、写真の向かう先に、ヒューマニズムを追求するという方向性が生まれた。
土門の仏像写真を見ると、通常仏像を観察するときの視点とは異なる、仏像の心を映し出している。心とはすなわち仏像に化生した人間の万有の心である。
土門が撮影した昭和の著名人の写真を見てもそうだ。たとえば梅原龍三郎の写真がある。彼は梅原家に出向き、梅原がいるかどうかを家人(奥さん)に尋ねる。すると「奥で将棋を指しております」と言った。撮影の旨を既に伝えているので、呼び出してもらったところ、梅原は将棋を中断して土門の前に現れた。着物姿。梅原は洋画家であるが、将棋も大好きであった。さっそく土門の指示通りにポーズをとって、土門は撮影した。自分が描いているイーゼルにおいた裸婦の前の椅子に座り土門に向いた。
梅原は撮影が終わるとすぐ将棋を指しに戻った。
梅原はとても忙しいのである。洋画家であるが、将棋を指すこともまた同じように大切なことだ。友達を待たせておくわけにはいかないからである。これもまたヒューマニズムである。
土門に撮影してもらった著名人は非常に多い。後世に残る白黒写真の多くがそうだ。
澄ました著名人の写真よりも土門の力量発揮は下町の子どもたちを撮影したときにいかんなく発揮される。
とても生き生きとした子どもたちの様子は写真を見ている自分も微笑ましく想う。これもまたヒューマニズムである。
土門の作品からはツマラヌ美意識というものがほんのわずかでも垣間見られることはない。
これは土門の視点であるが、実は人間の視点であって、時代の視点でもなく、個性の視点でもないのである。
ここをようく理解したほうがいい。今の人は。
|

>
- 芸術と人文
>
- 文学
>
- ノンフィクション、エッセイ






