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■発心
発心は無心の境地より現る。
無心ならざれば欲知らず。
欲知らぬ者 是心ばかり也。
心ばかり也は 必要知らず。
まずは心失い示し 必要を知れ。
心滅せば 即座にそれを知る。
人間には上心と下心とがある。
いずれもが本心の現出を邪魔しておる。
上心も下心も滅しやっと本心が顔を出すのである。
これこそ真の発心也。
■物語の虚実
世に多くの物語がある。
しかし
物語を通じて得られる真実への道程は果てしなく遠く、そこにたどり着ける人間は少ない。
だからこそ人間は弱いのである。弱い人は怒るし強い人は怒らない。
弱い人間はすぐ怒り物語の嘘を糾弾し、強い人は物語の真実を知っているがゆえに鷹揚に構えるのである。
弱い人間は実に弱いのだから、物語の上っ面しか見ていないし理解していない。創作を真実だと思ってしまうからだ。
だが強い人間は、創作の下地になっている物語の真意に気がつき、それを称賛するのである。この真意が真実だからである。
真実は見えるものばかりではない。見えるものしか信じない人は、視力が落ちると同時に信じるものが少なくなる。
世の中には強い人と弱い人がいる。
弱い人は物語を嘘だからと決めつけて、それ以上考えない。
物語は嘘に決まっているのが真実だ。表向きの真実はね。
物語はもちろん作り話であるから、虚である。
だがなかには強い人もいる。物語の虚実を知っている人である。
物語は嘘であるが、そこにある真実を見抜いている人である。
真実を見抜いている人は弱い人たちを先に導くために、わざわざ物語をこしらえて彼らを勇気づけさせるのである。
世に正しい物語と間違った物語がある。
正しい物語は弱い人間を正しい道へと勇気づけ、
間違った物語は弱い人間を誤った方向に陥れる。
いずれにしても物語は虚である。
だが真実へと誘う物語は前者であり、真実とは異なるほうへ導くのは後者である。
そこで思うに、何が正しいか、何が誤っているかを事前に覚知している者の考えをすべての人があらかじめわかっておれば、先導者は不要になるだろう。
正しいとは真実につながる物語、誤っているとは虚につながる物語と言えるわけだ。
いずれにしても真実も嘘もそれはすでに現実化されている到達点である。
到達点が蜃気楼では嘘となる。
到達点が本当の湖であれば真実である。
山のなかで遭遇する生物において最も怖い存在はなにか。
それが人間である。
こんなところにいるはずがないと思い込んでいる者が最も怖い存在こそが人間である。
特に注意しなければならないのは、山のなかで迷っている人が遭遇する人間から、誤った道標を指し示されることだ。
世に問われる詐欺師は、迷っている人間を捕まえる。
弱い人間をさらに迷わせる。少ない財産をすべて奪うのが詐欺師である。
詐欺師から示される道標のまま進んでしまうと、すべてを失う。
山のなかで迷っている人は山のなかで迷い続けて力突きて死ぬ。
しかし山をよく知っており、正しい道を示すことができる人間に出会えたならば、山のなかで迷っている人は無事に下山できる。
これが幸運ということである。
詐欺師は欲の皮の突っ張った者をかき集めて彼らに利があると見せかけて、彼らからすべてを奪う。
欲に目がくらんだ人々はとても弱い。
強いと思っている本人すらも目の色が変わってしまうのである。
そうです。人間は欲に弱い。
詐欺師は彼らの責任にしてしまう。欲に駆られた人間の責任にね。
騙されたほうが悪いとね。
これが間違った物語である。
山はすべて科学である。
科学は常識から離れた観点に位置し、常に常識を監視している。
誤った常識を前提にした物語を語る者は詐欺師であり、科学から考えた物語を語る者は先導者である。
物語に2とおりあるというのはこういうことだ。
物語の虚実とはこれである。
決して科学の監視の目を忘れてしまってはならぬ。
人間は欲に目がくらむと、科学の監視の目を忘れてしまう。
世の常識を常に監視するのは科学であるが、科学の目を持つときと、科学の眼を忘れてしまうときとがある。
人間には。
だから科学という物差しを常に忘れてはならず。
人間は常識というものを知らない。
知っている人間はいない。
だからこそ、それは常に外からやってくるものである。
常識を疑えというのではなく、常識から離れた科学の目から監察することが大事。
先導者は科学を知っているが常識に囚われたり利用したりすることはない。
先導者は常に無報酬である。
科学は人間が作り出したものではないからだ。
人間が見つけたものである。
見つけることは無報酬という意味。
物語の虚実を示すことは難しかったが、総体的に理解することはそれほど難しいことではないだろう。
ただ、人間は何らかの自己本位を認識し、どこに自己本位が当てはまるかを探ろうとしてしまうだろう。
科学はそれを監視していることをお忘れなきように。
常に。
これは常識ではなく、真実である。
基本の鍛錬とはこれである。
物の見方を示したのではなく、科学というミラーボール全体を示している。
ミラーボール全体を見渡すことができなければ、さまざまな視点にとらわれてしまい、それが個性となってしまう。
個性から離れることが科学への道であり、物語の虚実の真意を理解する唯ひとつの便法である。
世に法は数多いが、これは法ではない。
科学は法ではない。
法は相対的なものであるが、科学は絶対である。
そこに気がついている人は強い。
そこに気がついていない人は弱い。
■驕らずに
プロ意識が驕れば妙な連中らと付き合うはめになり、それが良からぬ者たちであれば、プロの進退問題にまで発展してしまう。
初心忘れるべからず。謙虚によくモノを見ることだ。
何が良いのか悪いのかの区別を驕りが失わしめる。
モノを良く見て。注意深く。
雰囲気作りという五里霧中のなかにいるから問題が生じる。
霧が晴れねば、モノはよく見えぬであろう?
■一生
芸術の道は長く、一生は短い。
たかだか120年ほどしかないからだ。
芸術作品は作者の死後も後世に残るが、芸術家の生命は短い。
神髄は奥深くひとつを選択せねば見えぬからである。
慣れや自己満足を求めれば人生は長くなり、慣れや自己満足を求めなければ人生はとたんに短くなるものと自覚できる。
毎日進歩。進歩は工夫がつくる。
日々仕事の工夫が日々の進歩を覚知するのである。
そう考えると人間の一生など短いものだ。
もっともっと広く長い時間の視野が、日々の勉強のなかで覚知されるがゆえに、
たかだか120年よりも長く生き続ける作品づくりに生涯を捧げよ。
個々人は何を選択するかであり、選択が生涯を決める。
時は金なりは誠であり、道草を食う一瞬すらないものである。
無駄とは何かを突き詰め無駄を排除せよ。
後悔先に立たずというが、後悔を予定していることには手を出すな。
これをすれば必ず後悔することになるだろう、という予想のつくものには手を出すな、という意味である。
それが偽らざる本心だからである。
マラソンのコースを引き返すことはできない。
どれを選ぶかで自覚が変わる。
作品作りには、その後悔の予定がない。
医術の学習に一生を費やすか、作品作りに費やすか。
遺すものに時間を費やすことである。
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