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■上段・中段・下段の構え
剣道には竹刀の持ち方として、代表的な3つの構えがある。他に八双もあるが、例外である。
その3つの構えが、上段・中段・下段の構えである。
剣道を習う者は、例外なく中段の構えから始まる。中段の構えの上級者となれば、事情に応じて上段や下段の構えを選択する場合もあるだろう。いわば、上段や下段の構えは、特殊な事情が生じた場合にのみ、選択するべき構えであって、それ以外の立ち位置においてはすべて中段の構えである。
特殊な事情に応じて使用する上段の構えや下段の構えには、それぞれ長所と短所が生じてしまう。中段の構えには短所がない。言い換えれば、上段の構えは中段の構えにおける双方の距離を長くとることができる。下段の構えは中断の構えにおける双方の距離を短くとることができる。
上段の構えの長所は、双方の距離を長くとることができるため、遠い間合いから、一気に攻め込むことが可能となる。相手からの距離を中断の構えより下がって、相手の様子を見ながら、攻防可能となり、自らの胴を相手にさらけだすため、そこが攻め込まれる短所となる。相手に対して防備を崩すことにより、相手の攻撃を誘うことができる。上段の構えは相手との距離(間合い)を長くとるため、防備に優れる。いわば相手の攻撃を誘いそこを狙って攻撃(面・胴・籠手を攻撃)することが上段の構えの基本姿勢であって、受け身の戦闘スタイルである。
下段の構えの長所は、双方の距離を短くとることができるため、近い間合いから、相手の籠手を狙う攻撃をするには最も適した戦闘スタイルである。相手が竹刀をあげた瞬間に、自ら飛び込んで籠手を狙うのが下段の構えの基本である。下段の構えの竹刀は相手から見えにくい。野球でいえばアンダースローのように下から浮き上がってくるボールのようにバッターから見えにくいのと同じ。
下段の構えをすると、相手は竹刀を下げて籠手を守ろうとするであろう。下段の構えは面を空けるため、面を狙うように相手を誘うことができる。その面を狙って竹刀をあげた瞬間に籠手を攻撃するのである。
この下段の構えも受け身の戦闘スタイルであり、相手の攻撃を待ってからその隙を突く。
いずれにしても、上段・下段の構えは中段の上級者(2段以上)が相手に応じて使い分けしてゆくものである。
剣道の原則は中段の構えであり、それが正攻法。中段の構えはいわば攻撃のための構えであって、上段・下段は相手の攻撃を誘う奇法といえる。
中段の構えは水の構えとも呼ばれ、上段の構えは火の構え、下段の構えは地の構えとも呼ばれている。
水は火を消し、地を押し流す(地形を変える)力を持つ。左足の跳躍力を鍛えることにより、火の跳躍に勝り、地を抑えながら攻撃することができる。万能型が水の構えだから、初心者は必ずこの基本原則から学習し、千本素振りをして水の構えの徹底修練を行う。
素振りは剣道のイロハのイであるから、そこを疎かにすると、素振りの極意を会得できない。その極意が解らねば、決して奇法に対抗することができないのである。
素振りは剣道すべての所作の極意が秘められている。その極意は頭で理解できるものではなく、実践することしか会得することはできない。
千本振れば、さらに一万本振ることだ。
何も考えずに振っていても意味がない。だが振っているうちにしだいにすべての所作が素振りに集約されてくることに気がついてくるだろう。始めは考えずに振るのも良いが、それが飽きてくると、だんだんと考えながら振るようになる。そこがイロハのイである。戦闘のシュミレーションは素振りから可能である。
剣道をしたことがない人は、竹刀を購入するところから始めましょう。
剣道を知らぬバカは木刀から買う。
木刀は型に使用するものであり実戦で使用することはない。
型の重要性については、竹刀を買って、それで日々素振りを繰り返し、さまざまな剣道の基本ルールを覚え、実際に試合に出て闘ったときに型の重要性は理解できるようになるから、木刀の意味は竹刀の修練をかなり積んだあとに所有すべし。土産物屋で木刀は販売されているが、絶対に購入してはならない。木刀の意味も解らずに売っており、意味も解らずに買っている者がいる。
有段者になれば木刀の意味もわかるが、剣道のイロハも知らない者が木刀を買っても何の意味もないのである。
初心者は竹刀を買い、柄を垢で真っ黒にするぐらい素振りをすることだ。
胴着や防具を買うのは素振りを1万本振ってからにせい。
中段の構えすらも出来ていない者に身を護る飾りは不要である。
ちなみに防具は10万円以上の物を購入することである。質が良い。
初心者が竹刀を買うときは2000円ぐらいからある。もっと安いものあるが、子ども用であろう。同時に竹刀袋も買うことだ。本革の物は贅沢品なので安い布製のでいい。
竹刀を購入すると、竹刀の仕組みも学習しなければならない。竹刀をバラシて研ぐことも学習することである。素振り程度ではバラス必要はないが、いずれ実戦すると必ず道具の手入れは必要になる。竹刀は道具のなかで最も消耗する武器であるから、バラシタ竹を蝋で磨くことや削ったりすることも必要だ。ささくれ立つと怪我の素になる。対戦相手のために竹刀の手入れは必須である。事前に学習することが大切。
細かいことは有段者に訊け。2段以上ならばひととおり解っている。
■美術団体の衰退
現在の日本の美術団体の源流は、すべて明治から昭和にかけて活躍した画家たちの有志が旗揚げした思想集団である。その維持だけが、現在の美術団体の目的となっている。
時代は変わる。変わるのであるが、基本は変わらない。
大本から紐解かねばならない。まずは研究と調査である。鑑賞する眼力が批判力を磨き、美術は切磋琢磨され、進歩してゆく。
モノを見る力がない人は、権威主義に慣れ親しむのであろう。
権威はアホです。バカは無知であるが、アホは悪意だから世間知らずを露呈していることになる。世間知らずは自己都合の悪意のまま突っ走ることになる。
美術団体が権威主義に陥ることを、創始者たちは果たして意図していたのであろうか。そもそも創始者たちは、資金を得るために美術団体を起こしたのではなかろうか。そうであっては欲しくはないのだが。
井の中の蛙は、アリジゴクと変わらない。ご都合主義の維持の運営を保つところに新しいものは何も生まれないのである。
干からびた存在は現在の維持だけを目論見としている。いっそのこと不要なれば消してしまったらよい。世は、ごく一部の人達の自己満足を満たすだけに存在しているのではなくて、本当に良い作品を求めているのである。
ただ、新しいものが良いと思い込むこと自体は何も考えていないのと同じ。これは単なるバカである。
団体を愚かだとは思はないが世間知らずのアホであることには変わりはない。
これらを活気づける方法はある。だが、世間知らずだから聞く耳を持つまい。それで今を維持できればそれで良いのだから。どこの世界でも会社倒産はいくらでもある。消えてゆく存在は、解散という形であって、それは記録として残されたとしても、いついつまで存続していたという歴史しか残るまい。その程度です。美術団体というものは。いやいや、美術団体だけではあるまい。
どうすれば団体が生き残れるかなんてことを小さな頭で考えているから、アリジゴクと化すのである。これがアホという意味である。
衰退するものは清々しく衰退する。その理由は、創始期にある。
創始期の情熱はその時代の情熱であって、それ以後の時代とは関係がない。
美術団体が時代とともに変容を繰り返したとしても、根っこの創始の部分がとても古臭いのである。
現代の人々は、その時代の人々を知らないのは当たり前である。趣味で調べたりする変わった人が、それを知る程度のものである。
美術団体はとても変わっている。
今の理事連中らが居なくなると、どうなるか。
新しい理事らが運営に携わってゆくことになるのであろうが、彼らが団体の維持を真面目にしてゆくかどうかは判らない。
端に彼らは自分の作品を発表する場を失わないようにするため、権威主義の傘下のなかで、自己保存をしてゆくのであろうが、それ自体がもう古臭い考え方なのである。
権威主義は不自由をつくることでメリットを高める。そこには何の造作もない素直な単調さがある。それは維持のためだけである。存在が消えてしまわないようにするための維持である。
彼らは伝統にしたいのであろう。相撲が国技ではないのと同様に絵画は日本の伝統ではない。
伝統ならば300年以上経過しないと伝統とは見做さない。
日本の長い歴史からみれば、日本の美術団体の歴史はとても浅いものである。たかだか100年程度ではないか。あと200年続けるには、慣習をもっと単純化させ、多くの理解を得なければならない。
団体の複雑怪奇なシステムならびに世間の理解のなさは、日本の伝統の条件には決してあてはまらない。どれもが、いちように創始者たちの考え方が現代に通用しないからである。
ルーツの思考が現代に通用しないときは、その歴史は閉じる。
ルーツの思考が現代に通用するときは、その歴史は存続する。
新しい思考や思想はこれからも現れてくるであろう。ただ、美術団体の長所がひとつだけある。それは絵画の基本を大事にしている点だ。現代の新しい思考や思想は、基本が出来ていない。好き勝手に思うがままに自己表現している。美術団体が世の美術の指導者たりえないのは、こうした新しい思考や思想を理解する力に欠けている点であり、それは個々の団体の教義の自己規制があるためであろう。
創始者群の絵画はとても良いが、以後の絵画はサロン化されている。美術団体から新しい流派が出てこないのは、運営が硬直化しているからである。兵隊さんたちをかき集め、妄想を数多く描かせ、彼らを走らせることで団体本部が利益を兵隊さんたちから吸い上げる。これがサロンの実態なのであろう。
兵隊さんたちの陳列物は、ほとんど話題にされないし、見物人は来ない。だが本部はすでに収益をあげているのだから、それで十分なのである。兵隊さんは陳列できることに喜び、それで十分なのだから、わざわざ経費のかかるバカでかい作品を描かせる。見せることが目的なのであるから、小さい作品だと見てもらえないのであろう。そんなふうに思わせることである。
団体は兵隊さんたちの囲い込みが運営維持のために重要である。絵画を売ることが目的なのではない。
だから衰退するのである。
運営維持をするため衰退する。法理である。
皆、自分のことしか考えないために、集まりバラバラになるのは当然のことであろう。
モノを見る目がないから、衰退する。喧嘩せず話題にも昇らないから活気もつかないために衰退するのである。
創始者たちの意気盛んの喧嘩が後に続かない。喧嘩の先に生まれた華は行政と化し尻ツボミとなっている。
世の法人は、社員に給与という報酬を与えることで法人に従事してもらっている。銀行も然り。貸付や投資を行うことで銀行は利益を得、それが銀行員の生計を支える構造である。ここでは法人が頑張らないと、従業員にお給料を支払うことができない。だから法人が頑張って利益を出してゆくのである。社長や従業員が頑張るから、法人は利益が出るし、それが法人にぶら下がる人々を救うことになる。この経済原理をしっかりと認識しておれば、どのように運営維持をしてゆくべきか、見えてくるであろう。美術団体は教員らの給与で維持できている。公務員の給与から自動的に横から天引きしてゆくようにシステム化されているのでしょう。これじゃあ、維持だけが目的となり、誰も団体の維持に頑張ろうという気にはなるまい。美術団体が社会人たちにぶら下がるヒルであるならば、衰退するのは当然だ。いずれ会員らは団体を切ってゆくのである。会員らが去ると団体は自ら積極的に利益をあげる術を知らないために、解散することになるだろう。社員にあぐらをかいている法人は、社員らが去ると自然消滅する。団体自体が意識的に労しているわけではなく、その労は兵隊さんである公務員からの横流しで維持存続しているのであろう。このシステム化は見事であるが、これは別に美術団体に限ったことではない。
どこかで頑張ろうとする意識が法人に起こらない限りは、法人は消えてゆくのは自然の原理だ。
血気盛んなる創始者たちは違っていただろうね。現代の団体の美術展は血の気がない。独善とした出品者たちのサロン妄想の楽園であり、寂れた遊園地と化している。
自分が数多くの美術団体の展覧会を見た印象がここにある。しかもすべて無料で見た。
法人が頑張るから従業員はそれに触発される。この原理が経済そのものである。美術経済が活気づくにはそれしかない。
法人の使い勝手の良さを間違った方向に進めるな。
巨大化した100号レベルの作品群のルールはすべて消去し、すべて10号以下に設定し、しかもすべてに値段を振って、バナナのたたき売りをしなさい。
そもそもバカでかい作品を作れといった元凶がかつての画家にいた。その思想が蔓延しているのである。
兵隊さんたちが頑張ると団体が喜ぶ。兵隊さんたちは無垢の奉仕の精神で満ちているからである。それ以外何も考えていないのである。
そもそも団体はタブローの意味を理解しているのでしょうか?兵隊さんたちの苦労を考えると、全国各支部の兵隊さんたちが哀れに見えてしかたがない。
メンバー5000人集めたとしても、しょせんそこからのアガリしか得られないのが団体である。彼らの世間知らずもはなはだしい。
盆栽の集まりは創始者から傑出できないようだね。
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