|
■感覚、知覚、五感
五感の選択を知覚といい、知覚は感覚から生じる。
感覚は自らの内にあるが、実は、それ以外の知覚というツールを使って、五感のいずれかあるいは複合的なる選択そのものであることに気づくことができるだろう。だが、感覚は外にあるわけではない。いいかえれば物質自体に感覚があるわけではない。そこを混同してしまうと、物質自体の存在そのものを理解することができなくなる。
なんだか難しい書き方をしているが、具体例をあげればそれがよくわかる。
ただ、物質自体に感覚が存在しているというベルクソンの考え方には疑問を呈する。大衆は「想い」という感覚を物質から享受している。だからといって物質自体に感覚があるわけではない。大衆に受けのよかったベルクソンは生の哲学者として哲学史上位置付けられているようだ。
自然から発見された難解なベルクソンの理論を大衆にわかりやすく説明するために、ベルクソン自身が人間意識の分析を自らの意識を通じて検証しようと試みたのであるが、自らの意識をモノサシとするがゆえに、哲学という方面に足を踏み出してしまったのである。哲学は科学でも自然でもない。物質自体に感覚があろうと考える者は、そこに知覚が働いているにすぎないのである「物質の記憶」。
敏感とか鈍感とかいう性格を表わす言葉があるけれども、それは知覚というツールの強弱でしかないのである。知覚の強い者は敏感であり、知覚の弱い者は鈍感である。
ただ、ここで大きな問題があることに気づかれよう。知覚という曲者である。知覚は五感ではないことの理解を十二分に掘り下げ、区別して分析してゆかないと、感覚の在所が常に自らの内側にあることに気づくことはできない。
どこの世界の人間に、アイロンにはアイロン自体の感覚があると断言することができる者がいようか。アイロン自体に感覚があると想うことは、アイロンの気持ちが解るということであり、アイロンの物理としての性質を理解しようという気構えがアイロン自体に感覚があるという姿勢につながっているだけのことである。そこにはその姿勢をもつ者の感覚の選択が視覚以外において物理的構造への認識にしか働いていないことに気がついて居らぬのである。
人間がアイロンに対して知覚ツールを用いて五感を生じさせるのは、視覚と触覚のみである。
言い換えればアイロンを見て、味覚や嗅覚や聴覚を働かせる者は存在しない。だから、マジックを通じて人間を驚かせることもできよう。トリックは、人間の感覚と物質との間にある知覚の常套的使用を逆手にとって、それ以外の感覚を提起するものである。そこに面白みを生じさせる。たとえば、お菓子で出来たアイロンである。アイロンが話すとか、もそうである。いわば、人間が物質に対する知覚ツールの選択方法はごくありきたりな経験論に基づいているということである。
ここで簡潔にまとめると、知覚の選択により生じる五感はそれぞれにおいて、人みな同じである。知覚のない者は、五感のいずれも生じないし、知覚のある者は、五感のいずれかあるいは複合的なる選択をしているということである。
ここでちょっと知覚について書いておこう。知覚についての働きである。知覚とは個々人が物質に反応するツールであり、それ以外の働きは存在しない。
知覚とは知性でも知力でもない感覚そのものであって、いいかえれば知性や知力は物質から享受された感覚に対する深い洞察から育まれる思考過程である。知覚とはたとえばペンギンの背後の壁にライトの光をあてると、そこを見る明反応や美味しいモノを見つけたとき、よだれが出るパブロフの実験結果の状態のように知性も知力も要しない反応そのものであって、反応自体が素早いかノロマかという区別以外に考察すべきものではないのである。そのスピードの差は経験に基づく。サッカーの練習は素早い視覚と触覚と聴覚が培われ、そこに時間的な思考の余裕が生まれる。知性や知力を発達させるためには、それを培う時間の余裕を作らねばならない。だからこそ、素早い反応(コンピュータでいうバッファ処理)が出来る者が知性や知力が高くなるわけである。知性や知力は個々人の学習過程における思考論理の圧縮であり、そのパターンが多ければ多いほど、知性が高くいわゆる「賢い」ということになる。ただ、その認識パターンが多ければ、経験論からの選択(五感の選択ではない)に時間を要してしまうこともあろう。
ペンギンや犬がバカなのは、人間のように知力を高めることができないためである。バカでも五感の反応は他の人間と変わらないのであるが、考察を踏まえることができるかどうかが、バカと賢いの差となるだけのことだ。
ま、いずれにしても人間の考察力の程度はとても自然の発見には及ぶまい。知覚は誰でも自然から与えられる生来の性質であって何人も平等であるが、考察は個々の思考の錬磨以外のものしかない。それすらも自然からの発見にはるかに及ぶまい。
人間の子は自然から多くを発見する。発見しても好奇心が強いため、その考察に至る前に他の発見へといそしむ。ただ見つける行為そのもの自体を楽しんでいるのである。子ども自体、人間の知覚は最高レベルに達していると言えるだろう。大人になるにつれ、知覚は鈍化してゆく。鈍化するというか収斂されてゆき、思考への楽しみに移行してゆく過程は、収斂もまた必要なことであろうと思われる。
■アカデミー
アカデミー教育は、原則として無体物である宗教の具体化から始まった。
神話を具体化した具象画がこれである。
眼に見えない存在を主張するとき、人間は権威的になる。ここが愚かで滑稽なる人間にしかない姿勢そのものである。
最古の大学は宗教学から始まっている。宗教といえば、仏教、イスラム教、キリスト教、まあいろいろある。たとえばキリスト教においても教義の研究と哲学から大学は始まっている。プロテスタントではなく、カトリックである。
カトリック教会の権威がそのままアカデミー教育の権威であり、その流れを受けて教会の意識に便乗して出来上がったシステムが中世ヨーロッパの大学の始まり。
大学の礎の根幹は宗教学からきている。新たに追加された学問は宗教学を含め人間を取り巻く環境から研究を深めていこうという意欲から生じた学習並びに研究の場を提供により総合的な人間学の発展を目的としたものに他ならない。数学、物理、語学、経済、政治、法学、文学、社会など人間の研究意識が向くあらゆる方面にわたっている。現代の学部名の不可思議な大量生産はそれぞれの枝葉にすぎないが、より複雑に発展した社会構造に呼応して制作された新規の学問分野にすぎない。いわばこれらは社会化され実体化された存在から生じた副産物であるといえる。
そもそも大学は目に見えない宗教の理念を具体化するために始まっているがゆえに、権威を身にまとわざるを得ないのである。
たとえば、UFOの存在を認めている者は、権威的にならざるをえない。そんなもん信じるほうがおかしい、と言う者が多ければ多いほど、権威的にならざるをえないのである。これもまた思想のひとつであり、思想は時事の変化並びに時代の変化に応じて見出されその都度修正変更を経る過程をもつのであるが、一度権威というものに縛られると、人間はその修正ができなくなってしまう。簡単に言えば、言い出しっぺが引っ込みがつかなくて、その考えを正当化し、自説を強化して自ら納得し続けるコメディを一生演じ続けなければならない。
人間喜劇というのはアカデミー教育の中から生まれた。
笑。
思想から人間教育を図ろうとする者は、その者自身が自ら主張する思想のなかに閉じ込められ、仲間を増やそうとする。人間の理解を個々の未熟性と見なして一蹴することから始めるのである。思想は自らの思念の発見をより多くの人々に明瞭に伝え理解を図ることが目的である。
アカデミーは天使や悪魔や神を描くために、現実の人体を物理的に研究しデッサンし続ける。今はもう亡き権威にしがみつくために。生身の身体を無体物に奉仕させるために。自らの思想を自らのなかで燃焼させて自らの身をも焼き尽くすために。自分だけ焼くのはもったいない思想であるから、より多くの者を巻き込んで焼いてしまう。これを何というかと言いますと、病気といいます。精神科に行くこともしないアカデミーの思想人は、賛同者を多く求める。要はアカデミーの思想は、ある一定の目的を図るために、誤解されていることに気がつかないにも関わらず、社会に見られる意識を自ら創作して、それを利用しながら、喜劇の一生を終える存在である。しかも自嘲せず、自嘲にも気がつかないのだから、その思想がなぜ世間に行き渡らないのかを理解する力もない。理解を求めることすらしないから、そこに乗っかってくる者たちを単に巻き込んでゆくだけしかできない。
ただ、その方向性は歴史を通じて徐々に変化がもたらされる。
思想の力が弱くなり、思想の力で経済を左右することもできなくなり、「人間の利」の方面に社会が動き始めると、大衆という多勢に無勢のアカデミーの教育はほとんど効力を持たなくなった。アカデミーがさまざまな分野を牽引する時代は終わり、世故に長けた大衆より出る商売人が世の利を刺激し、文化、技術さまざまな方面便利な社会性を獲得し、社会はより高度な技術発展を通じて、ソーシャルなネットワークを獲得しつつある。そこに置いてけぼりを食っているのが、アカデミーである。
世間は狭いわけでもなく広いわけでもない。そこに気がつかない人々の多くは、それぞれの都合において世間は狭いとか広いとか言うのである。
人間皆が個々人の価値基準を定立してそれぞれの人生を歩む時代であるため、十把一からげにひとつの基準をすべての人に押し付けるアカデミーの世界観は滑稽に見られてもいたしかたのないことである。
アカデミーの基本は、アカデミーを通さずとも十二分に大衆が事前学習をしているから、アカデミーが牽引すべきところは特になく、言い換えれば、アカデミーが独自に絡んでゆく方面との癒着を通じて、アカデミーの維持を図ることさえできれば、それ以上アカデミーが望むところは何もないという体たらくに堕しているのである。
本来のアカデミーの影響力はあらゆる分野の最先端を牽引してゆく原動力となり、さまざまな分野のトップとして君臨しつつも、時代を切り開いてゆく立場にあるものだ。だが、因循姑息な姿勢を維持し、都合の良い者だけを絡めとって、現状維持を図ることが伝統の継承であると考える者たちばかりになると、アカデミーがなすべき研究と発展の目的がアカデミー自身が目的自身を見失うか、それ以上求めるところがない状態にまで陥っているかのいずれかがこれらの内部の腐敗につながるのである。
アカデミーが腐敗するということは、社会はアカデミーがなくとも自立発展し続けてゆける知性を持つようになったと言えるのではなかろうか。
アカデミーの存在意義について想うに、たとえばノーベル賞のように明瞭な成果を大衆に明示できる分野ならば、そこらの分野は留まることなく発展し続けるであろう。
いずれにしておいても、
世間は狭いと言う者は、「無知」そのものである。
世間は広いと言う者は、妄想家である。
いずれにも偏らないところに、
発見があるゆえに、そこはアカデミーであってもそうでなくても、まったく変わらないところである。
そこに意識を常に向けることが、くだらない裏話などが生じないことになる。
表と裏の話なぞ、どうでもよろしい。表裏を持っている者は、いずれもひとつの縛りの中でもがいているだけの存在である。
そこが無知を生み、反対に妄想家も生み出す。
縛りのなかに新たな発見を見出し、変容させてゆくこと。
これが発見の実現である。
また縛りに囚われず、新たな発見を見出し、変容させてゆくこと。
これが我が座右の銘たる温故知新であろう。
知というのは、温故知新の知ですわ。
それ以外の何かようわからんものは、すべてガラクタの思想でしかない。
ゴミの思想だ。
金魚でさえ自らくっつけている長い糞をいつのまにか切り離してしまう。
金魚を欲しがる者は人間であるが、糞を欲しがる者はお馬鹿さん。
|

>
- 芸術と人文
>
- 文学
>
- ノンフィクション、エッセイ






