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侍達の夜明 のべるわんでいのお部屋
地道にコツコツと 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽

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自然の論理

■半日

 物差しの長尺がわからないとその半分を知ることはできまい。


 天井までの高さは「だいたいアレの半分ですね」といっても、「アレ」とは何かがわからないと、その半分はわからない。


 全日を6時間と捉えると、その半日は3時間となり、8時間と捉えると4時間である。


 野菜作りは半日日陰が良いとされる。


 1日の日照時間は季節によって異なる。


 かといって、数分刻みで計算するほど神経質になってはいけない。


 日の出が朝5時、日の入りが19時ならば、半日とはだいたい7時間となる。


 これは野菜の栽培に限ったことではない。


 一時が万事という。勤務時間の長さによっても、半日は異なる。


 何事も前提のモノサシの基準があるけれども、肝心なことは、そこに通念化されているモノサシは存在しないということである。


 常識というのは考えない人の言い訳であり、考えない人が囚われることであり、考えない人が関心を持っていないことである。


 定規は15cm定規、30cm定規、1m定規が一般的である。


 たとえば、「この前見たミミズは定規の半分くらいの長さだったね。大きかったね」と言っても、聴いた人はよくわからないだろう。


 定規といっても市販化され通念化されているものにはいくつか種類があるからである。


 15cm定規ならば7.5cm。30cm定規の半分ならば15cmである。


 そもそも基準が明確化されていないと位置づけを知ることはできない。


 地図においても、今居る自分の場所がわからないと地図の地名の位置を特定できないのである。


 これは本当である。

 人間は自分の位置を前提にして何事も判断しているので、それを自明の理として相手にも伝わっているだろうという意識を持ってしまう。


 しかし同じ位置に存在することは物理として不可能である。それは人間に限ったことではなく、あらゆるすべての存在がそうである。砂粒ひとつとってみても、完全一致の同じところに存在している同質の砂粒はない。これは宇宙空間においても同じ。例外はSFの世界になる。パラレルワールドというものだ。時間だけがそれを可能にしてくれる。時間がズレることで別のものが同じ位置に存在することは可能である。だがこれはSFのお話。現実の世界ではすべてが時間に縛られている。
時間を自由に操り時空を飛び越えることができるならば、それはもう輪廻転生のネタになるだろう。何しろ魂だけが時間に縛られないのだから。


 他に時間に縛られないものがある。これが人間の思考である。


 古典の文献を読んでも、読んだときの時間は常に今である。だから、今読んでも古びていない考えだと人間は想うことができるのである。


 人間は常に今という時間を思考の前提として無自覚に認知している。認知症の人は除くが。


 何事にも基準というものがあって、その基準の伝達が明瞭化されない限り、たとえば起承転結の「起」の部分が明瞭化されない限り、それに続く内容が理解できたとしても、肝心のところがわからないままである。


 因果の法則も然り。基準と言うのは原因だ。


 感覚で物事を捉えることに慣れている人は、自らの感覚に無自覚に縛られているため、そこに苦しむこととなる。


 感覚には時間の観念もなく、基準を自らも明瞭化することができないためである。自他ともにわからないもの、これが感覚である。


 半日の捉え方も人それぞれになってしまう。共通の基準というものがないためである。


 共通の基準というものは存在しないため、そこに縛りをつくってゆくのであるが、その是非はは人類永久の解決すべき課題である。


 昔の基準は今の基準ではなく、今の基準は未来の基準ではない。


 ただ人間はそれを願う人と、それを利用する人と、それを理解している人と、それを理解していない人とがいることは確実である。それぞれはもう〜個性でしかない。


 基準に客観性を求めること自体が無理なのであるから。



■自然の論理


 自然の論理は人間個々人の経験論とは異なる。だが、人間個々人は自然の論理を学んでゆくことができる。


 自然の論理は経験論ではないためである。


■プレッシャーとストレス


 なぜこんな判り切ったことまで書かないと理解できない人がいるのか。理解させるために書いておこう。


 プレッシャーとストレスはともに似て非なるものである。


 実は、何らかの外的な要因をストレスといい、何らかの内的な要因をプレッシャーというが、心因性のベクトルが異なるわけだ。


 世の中にはプレッシャーに強い人と弱い人がいるしストレスに強い人と弱い人がいる。


 この違いを解説すると、まずはすべてがひとりひとりの思い込みから始まるから解説はちょっと厄介なことになるだろう。


 そう、思い込みなんである。


 これだとわかりにくいら、いずれにも共通するところから説明したほうがいいのかもしれない。似て非なる部分を分けて考えてみよう。


 似ている部分、つまりいずれにも共通する部分とは、ともに思い込みである以外に、もうひとつある。


 それは、ともに何らかの準備ができていない点である。

 そう、準備なんである。

 最もわかりやすく書くと、思い込みと準備、この2つが足りていないために起こる心理現象、これがプレッシャーとストレスである。この2つが不安の原因となる。そこで論理的に考えるよりも感情が先に出てしまい、その感情が論理性を持たないことから生じるもの、これがプレッシャーとストレスそのものだ。


 思い込みがなくと準備が足りておれば、プレッシャーもストレスもない状態となる。


 つまり万全の状態である。


 そこでプレッシャーとストレス両方もしくはいずれかを感じてしまう人は、まずは個々人の身の回りをきちんと確認して自分に思い込みがないか、準備ができていないところがあるかを分析してほしいと思われる。


  世の中にはプレッシャーもストレスもない人もいる。それは上記にあげた条件をクリアした者か、あるいは、単なるバカか。いずれかだ。後者の場合は、爆薬だとを知らずに火をつけてしまう人間の無知である。これは爆発したあとに身体的損傷を受けるがゆえに、あとで後悔することになるだろう。だが、十分な研究と調査と準備を兼ね備えた人は、プレッシャーもストレスもない。もちろん爆薬の扱いも十分に理解しているから、適切な処置をすることができる。爆弾処理はプレッシャーとストレスを感じてしまうと、非常に危険である。処理を誤る可能性があるからだ。そうなると爆発する可能性が一気に高まるために、プレッシャーもストレスも感じてはいけない。爆弾処理では決してしてはならない思い込みと対処方法の適正なる方向性が必要である。


 つまりプレッシャーに強い人やストレスに強い人は、思い込みなく準備を完了して楽観的になっている人である。


 楽観はとても大事であるが、ボケた人間の楽観は間抜けである。思い込みをし準備をしていない人間のことをボケているという。


  それから「おまえは自分のプレッシャーをはねのけろ!」とか「あなたのストレス解消方法♪」とか言っている人もいる。これは釣りだ。

 これはね、プレッシャーやストレスを受け入れなさいという前提を認めさせているだけである。

 つまり、思い込みをもたせ準備をさせない人間の悪知恵である。

 いいかえれば、思い込みを持たずしっかりと準備をしている人にはプレッシャーもストレスもないのだから、そんなアドバイスは余計なお世話というわけである。
 

 これでストレスとプレッシャーの正体を明かした。

 しかしストレスもプレッシャーもないことがすべて良いわけではない。

 人生のステージアップを目指す人にとっては、さらに多くの思い込みの除去とさらなる準備をしてゆかねばならないことは自明である。

 要はすべてあなた次第。

 足りていないところはないかをよく分析することである。

 


 ■100m走


 100m走るためにA君、B君、C君、D君がスタートラインに立った。


 そこでここで実験をする。


 あえてA君をスタートラインから10m後ろからスタートさせるのである。


 それからもうひとつのルール。


 A君がスタートラインを通過したときに、他のB君、C君、D君もスタートさせる。


 少なくともA君の通過は最高速でスタートラインを通過することになる。


 だから、スタートラインから走り始めた他のメンバーよりも早く走ることができる。


 ここでA君に本当の実力があれば、A君はトップでゴールにたどりつくことができる。


 A君は110mを走り、他のメンバーは100mを走る。そう考えると、 A君は他のメンバーよりも不利な立場にあるように思える。


 だが、これが人生のアドバンテージというものである。


 何事も早く始めることだ。

 他人よりもね。

 走り出すのは他人よりも早くである。ここでは速さを競争しているわけではない。


 世の中にはボケた人がたくさんいる。A君がスタートラインを通過した時点で走り出す人がいる。

 動物の世界では、チーターが最も速いらしい。

 なんとチーターの時速は最高100kmを超え、しかもここが一番大事なのであるが、チーターは走り始めてからわずか2秒で時速100kmに到達するというのだ。


 まさにロケットスタートである。これに勝てる動物は存在せず、人間も道具を使わないとこれに勝てない。たとえば、母艦から戦闘機がカタパルト発進するときぐらいか。


 チーターのように走れるのならば、A君をスタートラインからわずか数メートルで引き離すことができるだろう。だが、現実はスタートラインから他のメンバーは大きく引き離されるのである。


 人間が100mを走るとき、みんな並んで用意スタートするのが社会のルールだからだ。


 だが、家庭のルールではない。

 教育に関して決まって家庭学習をおろそかにする人は学校だけではなく、学習塾にも通ったりする。学習塾で予習をする人もいるかもしれないが、たいていは受験対策である。学校の教育課程にあわせた進行ではない。これが進学塾である。また、復習専門の塾もあるだろう。これは家庭でできない子がその日にならった授業を復習する塾である。


 そもそも義務教育の詰め込み方式もわるい。一日に多くの科目の授業を受けるのが現代の当たり前であるが、家庭での予習が追っつかない場合もあるだろう。


 やがて子どもたちは予習すらしなくなり、ここで「お勉強は学校で、遊ぶのは家で」というふうに考える風潮が生まれてくるのである。こうなるとますます家庭で勉強しなくなる。


 実はこれが大人になっても同じになる人もいる。仕事は職場で。休みは家庭で。分けて考えてしまうのである。学校教育の詰め込み方式がごく一般的な社会構造のなかにも運用されてしまうのである。


 ここで大事な点は、学習や仕事というのは家庭や学校や職場だけではないことに気がつかない人たちである。


 世間の一般的なTPOを踏まえず、アドバンテージを得るために両親は我が子に英才教育を施す。これができる家庭と出来ない家庭では、その後に大きな格差が開くのである。


 スタートラインが違うというのはそういうことだ。


 そもそも学校行く人は学校に行かねば身に着けられないと思っているからであり、現に学校とは家庭学習をおろそかにしている人を対象にしている。


 普段からよく考える人と学校だけ職場だけ考える人の格差もかなり大きい。これは年齢性別国籍をいっさい問わない。天地人の意味をきちんとよく理解することである。


 わざわざ10m引き下がって走り出すことは、かような意味がある。


 努力とは分析と継続そのものである。気づきと。


 そして努力はこれは年齢性別国籍をいっさい問わない。


 「あなたのモノはあなた次第」である。


 別にあなたのモノは私のモノではない。


 あなた次第である。


 だからどう考えるかは、この記事を読むあなた次第だ。

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