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母の力

僕の母は、農家の長女だった。3人姉妹のいちばん上で、下にさらに弟がいた。

あのころの女の人は、高校までいって働くか結婚するのが普通だったようで、母は運転免許も持っていない。

母から、よく高校時代の話を聞かされた。歩いて、遠くの高校まで通ったこと。それからまだ戦争中だったので、授業中に、空襲警報が鳴ると下校命令が出るのだそうだ。あわてて、遠い道のりを歩いて帰るのだが、敵もさる者、その下校中の生徒を敵の飛行機は、機関銃で襲ってくるのだそうだ。昔から学校はそうだったようで、母はこの学校の責任逃れをいまだに嘆いている。

そういえば、母は僕のことを怒ったことはほとんどないが、一度だけ怒られたことがある。小学校の頃、学級の作文で、意味もわからず「大和魂」と書いた時だった。その時、母ははっきり「私は嫌いだ」と言った。あとにも先にも母がはっきりと自分の意見を言ったのを聞いたのはこの時だけだ。

母の実家は、田んぼのど真ん中にあった。僕はなぜかこの実家が気に入っていて、事あるごとに行きたがった。家族で旅行するときなども、自分は別行動で母の実家に行くと主張し、実際、一人で何日も過ごした記憶がある。

そこは、今考えれば「隣のトトロ」に出てくる風景そっくりだった。井戸は、手動のポンプ式でくみ上げる。少しくみ上げていると本当に冷たい水が出てきた。その水で顔を洗い周りを見渡すと、家の周りは緑一色の水田。

すぐ前には、透き通った小川が流れていた。ザリガニや、魚を手で取っていた。庭には桃の木があり、そこにはまんまると大きく黒光りするカブトムシがついていた。秋には柿の木になる柿を食べた。不思議なことに甘い柿と渋柿の取れる木が別々にあった。

そういえば、そこのおばあさんもトトロに出てくるおばあさんそっくりだった。農作業をすると腰が曲がるようだ。

そういえばヤギもいて、乳も飲んだような気がする。「ふいご」や「せんばこき」といった、歴史の教科書に出てくるような農具があった。

その実家に行くのが楽しかったのは、母の下の下の妹が相手をしてくれることが一つの要因だった。その妹はまだ高校生ぐらいだったので、いろんな遊びを一緒にしてくれた。

正月になると凧を買ってきて、長い尻尾を付けると、高く上がった。もう刈り入れも済ませた田んぼの中には、藁を積み上げた塊がところどころにあり、それを、背もたれにして揚げた。風の強い日は、凧は信じられないほど高く上がり、点のように見えた。

藁といえば、そこではストローは自分で作るのが当たり前だった。ジュースを作ってもらうと、その辺にある藁を一本取り両端を適当な長さで切るとストローができた。

近くに神社と山があったので、よく出かけた。神社をどんどん登ってゆくと、山の上についた。山の上から遠くが見渡せた。降りるときは竹を足の下にひいて、竹スキーをしながら下りた。

夏になると、夜、畑に向かって花火をあげた。ある時、運悪く花火をあげていると、母の下の妹があぜ道を自転車で帰ってくるところにあたってしまった。彼女は、眉毛を少し焦がしてしまった。嫁入り前の娘だし、次の日、会社があるので子供心にも申し訳ない気がした。

僕には、トトロは見えなかった。ただ、夜寝ていると、モーモーとすごい音でたまにス、ー・ピンと音がした。何だかわからず怖くてなかなか寝られなかったが、今考えれば、まわりの田んぼにいる牛ガエルと、隣で寝ていたおじいさんのいびきで合唱していたのだと思う。

「まっくろくろ助」も見たことはなかったが、五右衛門ぶろはあった。上に浮かんでいる板はフタではなく、それを足で押えながら、その上に乗って入る。

その三姉妹はそれぞれ結婚して出て行った。あとでわかったことだが、その三姉妹は、どうも競争していたようで、毎年一度その実家に集まり、自分たちのそれぞれの家族を自慢していた。みな高校しか出ていなかったが、教育熱心で、自分たちの子供をみな一流大学へ行かせた。

僕の母親は、小学校の頃、試験の前になると社会科の教科書を使って、クイズを出してくれた。僕もそれが好きで、何度もせがんだ。中学校になると、やはり試験前に、ひとつ上の兄の昔の試験問題をもってきてこれをやれという。ただ、ほとんど範囲が違うのでこれはあまり役に立たなかった。

ということで、中学校時代あまり成績も芳しくなかった。母の実家への足も遠のいていった。

母親にとって、息子は特別な存在だという。ただ、僕の母は娘を持ったことがないので比較のしようがないだろう。

息子にとって母親は特別な存在だという。10歳ぐらいの頃は、母親がすごく美人に見えた。テレビを見ながら「お母さんは、皇太妃に似ていて美人だ。」と口に出して言うと、父親は、面喰ったように「お前というやつは、お世辞がうまい。」と言葉に詰まっていた。自分としてそう感じたのだから仕方ない。この年頃は、大体そんなものだという。

母は、僕にはほとんど何も期待していないようだった。僕に何も期待らしきことを言ったことがない。もう少し僕に期待してくれてもいいのに、と、こちらが心配になるくらい何も言わなかった。糸の切れた凧のようにあちこち飛び回ったが、案外、母は自分がどこかで凧の糸を握っていると思っていたのかもしれない。

母には、長生きしてほしいと思う。ただ、こればかりは誰にもわからない。父ももう亡くなった。

母は、父と旅行する以外は、ほとんど遠出したことがない。運転免許も持っていない。
母は、淡淡と生き、3人の息子を育てた。今は、そのうち二人に見守られて生活している。

父の死

父親が死んでもう何年になるだろうか?

彼は、とても健康に神経質で、天ぷらを食べる時にも油を心配して衣を取ってから食べるような人だった。健康おたくでいろんな健康本を読んでいた。半分退職した後も、年に数回、母を連れて海外旅行に行っていた。

ぼくがアメリカにいたとき、一度だけ会いに来たことがあった。自分は近くにあるナイアガラの滝にも行ったこともなかったので、いっしょに行こうかと聞いたら、そんなところはもう二度も行った、しかも、アメリカ側とカナダ側の両方行ったということだった。それではNYはというと、やはり何度も行っていたようだが、少し不満そうに2日ぐらい一緒に旅行した。

彼の旅行の目的は、アラスカだった。「いろんなところを旅行したが、アラスカにはまだ行ったことがないので、一緒に行け。」というのだ。アラスカへの父と母との一週間ほどの旅行は、それなりに楽しかった。その組み合わせで行く旅行は初めてだった。

ふと考えた。この人は、息子に会いに来たのか、アラスカ旅行の用心棒が必要だったのだろうかと。

彼は、太平洋戦争の終った後に高校を出で、最初は薬学部に入ったと聞いたことがある、そのあと旧帝国大学の経済学部に入りなおした。子供のころ、家の大掃除をすると、注射器とかが出てきた。彼の医学知識はかなりのものだったと思われる。たぶん家の都合で経済学部に入りなおしたのだろう。

父は、大学を出た後、自営業の実家を継いだ。その前にどこかの会社に入ったと聞いたことがあるが、定かではない。

実家の仕事は貿易関係だったようで、小さい頃、自宅に聞きなれない国のお客さんが、たびたび訪れていた。また、その当時は海外に旅行すること自体が珍しかったようで、旅行するときは町の人が出て、みんなで見送ったという。

家は大変広く、何でも旅館か料理屋を買い取って住んでいたということだった。小さい頃は、家の中を走り回っていた。また、中学生になると、プロレスのまねごとで、座敷でドロプキックの練習をしていた。あとで考えると、よく床が抜けなかったと思う。よほど、丈夫な作りだったのだろう。

父は、このような環境だったので、かなりな自信家だったと思われる。だから、自分にとっては疎ましい人だった。

一歳年上の兄がいたが、何かにつけ比較された。兄はスポーツマンで、頭もよく、父からは大いに好かれていた。それに比べて自分は、運動が苦手で勉強も兄には届かず、ぼっとしていた。さらに大変に臆病で、山道をドライブに連れて行ってもらっても、いつも崖に落ちるのではないこと怖がっていた。

僕は、父にとっては自慢できない息子だった。

父は、娘が欲しかったようで、最初に兄を作った後、すぐに、次の子を得た。その子が女の子ならよかったのだが、期待に反して僕が生まれてきてしまった。

小さい頃、よく父の母親(祖母)に頭をなでられて、「お前の髪の毛は、本当にきれいだ。お前が女だったらよかったのに。」と言われていた。

ただ、母はそんな僕を「この子は頭のいい子だから」とかばってくれた。ただ、たまに、「お前は橋の下で拾ってきた子ではないのだから。」と変なかばい方をした。このよう言い方は時として子供の不安を駆り立てる。

そのあと、父は、子作りを10年ほどやめていたが、ふとまた女の子が欲しくなったのか、もう一度、挑戦してみたようだ。だが、また男の子だった。このぼくの弟は、父が、年を取ってからの末っ子なので、父は溺愛していたようだった。

父の、娘が欲しかった理由はわかるような気がする。毎晩の食卓では、父と母と、息子3人と、祖母で囲むのだが、息子3人はずっと押し黙っていて、会話と言えば、祖母の母に対する愚痴ばかりだった。ここに娘がいたら、食卓が明るくなっただろうと父は思ったのだと思う。

父の、娘が欲しいという思いは、長男である兄に受け継がれた。兄は、4人目の子供でやっと娘を作り、父の期待にこたえた。

父は、長生きするつもりだった。なので60歳を超えて健康には本当に注意して、スポーツ、特に水泳は欠かさず、体脂肪率も信じられないほど低かった。また、頭の回転も衰えずに、自分の記憶力がいいのを自慢していた。

ある時、何かの検査でひっかかり、検査入院することになった。父は、すぐ帰るつもりで、自分でタクシーを手配して病院に行ったという。

病院では、1週間ほど入院したが病名も分からず、担当の医師も定かではなかった。父は、おなかの中で何かが広がっていると訴えていた。とうとう、外科で開腹して調べることになった。

開腹して、初めて、父ががんに侵されていたことを知った。余命数カ月だという。父は自宅に帰ってきた。はじめは、僕もそのことが信じられなかった。なぜ開腹しないと末期の癌だとわからなかったのだろう?何かの間違いなのでは?

父は、自宅でがんの痛みと、それを和らげるモルヒネと、勿論、死への恐怖ともに数カ月間、暮らした。

丁度、その時、自分のアメリカの大学での博士論文の最終段階に入っていた。東京と実家を何度も往復して、父を見舞ったが、どうしてもアメリカに行く必要があった。今を逃せば、永久に博士論文は終わらないだろう。ただ、それが、何か月かかるかもわからなかった。

父の死がいつ訪れるか分からない。ただ、アメリカの一流大学で博士号を取れば、父への孝行になるとも思った。

僕は父に親孝行らしきものをしたことがなかった。アメリカへ留学した時も、一週間ほど前に「アメリカへ行く」と一言告げただけだと記憶している。

アメリカにもう一度旅立つ前に、母親は僕に小さな声で告げた。「父が死んでも帰ってくる必要はない。」と。

僕にも母の言っていることがわかった。父が死んだと聞いて帰ってきても、父が生き返るわけではない。もし帰ってくれば、博士号取得のチャンスが今度いつ巡ってくるかもわからない。死んだ父に会いに来ても、父は喜ばないだろうと思った。そして、僕は、母に小さくうなずいた。

それから、一か月ほどアメリカに滞在した。その間に父は亡くなった。母に言われたとおり葬式にも帰らなかった。親戚の人に、なぜ自分の父親の葬式にも出ないのかと後で言われた。父が僕と撮った写真が遺影として使われた。父はとてもうれしそうな顔をしている。

あとでわかったことだが、父は、がんの痛みと、モルヒネの幻覚症状の中で何かを計算していた。かれは、自分の残す遺産を計算していたのだった。彼は、商売人らしい几帳面さで遺産の総額を計算し、それから、相続税を計算し、その額のお金を取り分けていた。

かれは、何と、自分で自分の死んだあとの計算をしていたのだ。そして、遺言には、兄弟で、遺産相続で決して争わないようにと書いてあった。

その額は、少ない額ではなかった。それだけあれば、もっといい病院で、最後の時間を過ごせただろうに。最後に心ゆくまで豪遊もできただろうに。だが、彼は死の直前までティッシュペーパー一枚も無駄にしなかった。かれは、自分の美学を貫いたのだと思う。

彼は、普通の人として生きた。環境が違えば別の人生もあっただろう。彼は聡明だった。彼は時代に流されなかった。最後には、彼の人生の総決算を病床でやり遂げた。

彼は、偉大な人だった。それは、歴史上の人物たちと比べても偉大な人だった。今やっとわかった。自分は、彼ほど偉大な人生を作れるのだろうか?

アメリカの未来 (1)人口

UAS Today 2008年8月14日号に、先日、発表された米国の人口動態調査の記事があった。人口動向は、将来の国の経済を考える上で極めて重要な指標である。なぜならばそれは人々の習慣的な行動の集大成の結果であるので、戦争とかで沢山の人が一度に一斉に死ぬようなことがなければ、それほど、予測が変わらないからだ。

それによれば、現在、3億人の人口が今後31年以内に4億人に達する。そして、人口増加の立役者はヒスパニックと呼ばれるスペイン語を話す人々である。そして、現在、65%の多数を占める非ヒスパニックの白人は、2050年には、46%に落ち込む。このスピードは前回2000年の予測をはるかに上回る。

アメリカで少数人種と言えば、黒人がすぐにあげられるが、構成比でいえば現在人口の14%を占めるのみで、2050年には15%を占めると予測されている。つまり、人口比的には黒人はそれほど多くはないのである。なぜ黒人が、よく取りざたされるのかというと、それは黒人を過去に奴隷として使ってきた負い目があるからだ

(アジア系は5%が、9%になる。)

ヒスパニックはというと、現在の15%が、2050年には30%に達すると予測される。増加要因はヒスパニックが多産であるという理由のほかに、合法、非合法を含めて現在でも年間100万人に達する移民が、2050年には倍になると予測されるからである。

過去に、何度も、非合法移民に運転免許を与えることが議会で議論されたが、理由は、人道的見地などではなく、すでに、非合法移民の低賃金労働者がアメリカ経済に不可欠な存在になっているからである。つまり、アメリカの移民政策も、ご都合主義のかたまりなのだ。

大量のメキシコからの合法、非合法の移民というのは過去をさかのぼれば、それほど奇異なものではない。アメリカは、歴史をさかのぼればメキシコからテキサスや、カリフォルニアを奪ってきた。ヒスパニック達は、その奪われた土地を取り返しているともいえるのだ。ロサンゼルス郊外の街並みを見ると、ああここは、昔はメキシコだったのだと思える景色がそこここに見られる。

ロサンゼルスではついこの間まで、小学校ではヒスパニックと、非ヒスパニックのクラスが別になっていたが、今や、市長が、ヒスパニック系になってしまった。

アメリカの学校ではスペイン語を教えるのが当たり前になっている。外国語として教えているのではなく、日常の生活に必要なのだ。

国と国の間に国境があろうと、長期的には人々の自然な流れは食い止めることはできない。また、食い止める深い理由も見当たらない。

つまりアメリカの未来を考える上で、ヒスパニックを、もはや無視できないのである。

それが、人口比で10%に満たないアジア系にどのように作用するかは分からない。ヒスパニックのアジア系に対する感情は複雑だ。スペイン系はアジア人を見下す傾向にあるという。

しかし、ヒスパニックのもう一つのルーツ、メキシコの原住民は、人種的にはアジア人なのだ。遠い昔、アジア人がその当時、凍っていた北のベーリング海峡を渡りアメリカ大陸の北に到達した。(アジア人がアメリカ大陸を最初に発見したともいえる。)

一部は北アメリカに残り、アメリカインディアンになった。さらに南下する人々は南米にたどりつきナスカやペルーの文明を作り上げた。

顔 (福田さんの)

最近、一番、顔で驚いたのは福田首相の顔だ。

内閣改造の前後で見せた彼の顔は、とても引き締まった鋭い顔をしていた。

なぜ彼の顔に驚いたのかというと、以前からテレビで見慣れた彼の顔からは想像もつかないようなしまった顔をしていたからだ。

もちろん普段テレビで見る首相の顔は、記者たちに廊下でつかまったり、定例の短い質疑応答のとき見せる顔なので本気のモードではないのだろう。しかし彼が、以前、内閣官房長官のときのフォーマルな質疑応答でも、あれほどしまった顔を見たことがなかった。

二代目代議員の福田さんが、やはり危機感を持って彼なりに、内閣改造をしたのだろう。二代目とはいえ、すさまじい権力闘争を戦い抜き最後には頂点まで極めた男の顔を見た。来るべき選挙のための、自民党総裁としての立場を自覚してのことだと思う。

ただ、僕には、彼は自分のなすべきことが分かっていないのだと思う。何に本気モードにならなくてはいけないかが分かっていないのだ。

これは、彼だけではなく日本型のリーダーの特徴なのだ。たとえば、太平洋戦争のときにも、陸軍や海軍たちにもリーダーたちがいた。ただ、悲しいことに彼らは、彼らが所属する組織の長ではあっても、日本国のリーダーではかなったことだ。あのみじめな敗戦はその結果でしかない。

自分の組織の利害しか考えず、全体のことを考えない人間がリーダーになれば混乱のみが残る。

これほど簡単なことを、日本人は自覚しているのだろうか?

ゴルバチョフを思い出した。彼は、ソ連共産党の書記長になった。

かれは、ソ連とソ連共産党のために大胆な改革に乗り出した。彼の意図は、ソ連を立て直すことだった。しかし、結果として、彼はソ連を崩壊に導き、ソ連共産党を権力の座から追い落とす手助けをした。

かれは、組織の長として失格だという人もいる。ただ、僕は、彼が歴史の中で正しいことをなしたのだと思う。

僕の結論は、福田さんは自民党の総裁の器ではあっても、日本国内閣総理大臣の器ではないということがあの顔に表れているということだ。

アメリカ人の心性

果てしなく広がる野生の土地の真っただなかにある一軒の家。

空には、大昔から変わらずある満天の星。ギリシャ人もローマ人も、そして聖書に出てくる羊飼いたちも、この同じ星空を眺めていたに違いない。

遠くから聞こえるオオカミの声。銃さえあればオオカミからも、「残虐」なインディアンたちからも身を守れる。騎兵隊を呼んだとしても、到着に一か月かかるだろう。

ピルグリムファーザーたちがボストンにたどりついた最初の冬、インディアン達は彼らを助け、その次の年には一緒に感謝祭を祝ったという。しかし、今では、彼らにつかまれば頭の皮を剥がれるだけだ。

馬に、2日乗れば隣の家にたどりつき、一週間も乗れば一番近い町にたどりつく。

ここは自由の国アメリカ。自由は、おれたち自身が銃で守る。

信頼できるのは、自分たちの家族と本当に信頼できる友だけだ。彼らとは運命共同体。どんな事をしても彼らを守る。インディアンを何人殺そうと、かまわない。もともとあいつらは人ではない。たとえ人間であるよそ者を殺したとしてもおれは友を守る。そうでなければ彼らは自分を守ってくれない。ここでは、おれたちこそが正義なのだ。

町には法律というものがあるそうだが、誰もいないこの土地で頼れるものは、銃と本当に信頼できる家族と友だけだ。

自分の領域内では自分がきまりを決める。それこそがアメリカの自由だ。

この自由の国アメリカは神が我らに与えてくれた贈り物。

おれたちこそが、腐敗した中世の歴史を断ち切り、輝くギリシャ、ローマ文明の後継者だ。

あの輝く文明を持ったローマ帝国を継ぐのは、このアメリカなのだ。

新天地を求め西へ。テキサスもカリフォルニアもメキシコから奪い取り、それは、神から与えられた自由の国アメリカの使命、天命なのだ。マニフェスト・ディステニー

最後には太平洋にたどりついた。

あるものはさらに西へ、未開の王国ハワイを打倒し共和制を打ち立てアメリカに併合した。文字通り服を着ない裸の王様カメハメハに、共和制を教えてやったのは我々だ。われわれがハワイ王国の民衆を解放したのだ。

さらに西へ、日本にたどりついた。この小さい島国は単なるアジアへの中継基地にすぎない。彼らには二度も民主主義とは何かを教えてやった。広島、長崎がなければさらに多くの人間が殺しあっただろう。原爆こそが愚かな戦争を終わらせたのだ。

時には残虐な武器のみが、文明の光を与えることができる。劣化ウラン弾がイラクに平和をもたらしたように。

さらに西へ、フィリピンへ。

中国の権益への意欲は、古くからの帝国主義国家イギリスやヨーロッパに劣らない。

さらに西へ、ベトナムへ。ベトナムが共産主義化すれば、アメリカの市場経済圏を侵されることになっただろう。残念なことに、あのときアメリカは国内事情で撤退せざるを得なかったが、あれは必要な戦争だった。

The Best and The Brightestと称賛されたマクナマラは、ベトナム戦争を経営したにもかかわらず、晩年の回顧録で、あれは間違った戦争だったと書いたが、あいつは戦死した戦友たちを貶める非国民だ。

アメリカに与えられた神からの祝福を世界へ分け与えるのが我らの天命。

さらに西へ、イラクへ。同盟国イスラエルを孤立させず、中東の石油を支配しなければ、アメリカのヘゲモニーは維持できない。

数千年の歴史を持つというバグダートも、野蛮人の町だ。そんな歴史など戦車で踏みつぶしてもかまわない。ヘリコプターで見渡せば単なる石でできた古ぼけた街にすぎない。そこここに隠れるテロリストを掃討しなければこの国に民主主義を植え付けることはできない。ベトナムの悪夢を思い出すが、いくら科学が発達しようとテロリストと一般人とを区別するミサイル弾は未だない。

われらローマ帝国の正当な後継者アメリカこそが彼らに文明の光を与えることができる。

フロンティアーが尽きることはない。宇宙を旅する「スタートレック」のエンタープライズ号は、もはや夢物語ではない。

われらアメリカこそが神から与えられた正義。


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