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サムライ・ニッポン

最近、日本人の武士道精神を見習えということを聞くことが多くなってきた。その場合の殆どは質実剛健、勤勉な特性のことを指している。

ただ、英語で言うサムライ(SAMURAI)は、必ずしもそうではない。前者(武士道)のものを個人的な規範とするならば、後者(SAMURAI)のものは、多分に集団的規範を含んでいることが多い。

サムライとは本来的には戦闘集団なので、普段は質素に暮らしていて、いざ主君の一大事となると駆けつけ集団的な軍事行動に参加するのである。(山之内一豊を、考えるとわかりやすい。)いったん軍事行動になれば、個人の裁量で行動することは殆ど不可能で、命令どおり戦うしかない。英語でいうサムライは、この集団的性格をさすことが多い。つまり日本人は個性の確立が未発達で、アリのように集団で行動し緑の地を食べつくすようなイメージである。

サムライは、職業的軍事集団なので、彼らの家族の安定的収入のために戦うのである。それ自体当たり前のことで、道徳的な意味は殆どない。

同じサムライでもいろんな種類があるようだ。たとえば、サムライの見本のような宮本武蔵はどうも集団的軍事行動が苦手なようで島原の乱の鎮圧に参加したが途中でかかとを怪我して、結局、何の成果も出さなかったそうだ。東海一の弓取りといわれた徳川家康は、剣の修行は苦手で、息子が剣の修行をすると嘆いていたそうだ。なぜなら、いざとなったら家来が守ってくれるので、いざというとき一人でしかできないこと、水練を奨励したそうである。道理で、彼の逃げ足は天下一品で、驚くほどの合理主義である。彼が天下を取ったのは偶然だけではない。

徳川300年の太平の世で、サムライが戦闘集団から支配集団に変質してゆき、実践的行動様式が、武士道として形式化されていった。集団的軍事行動で、殆ど成果を挙げなかった宮本武蔵がサムライの代表のように語られるのは皮肉としか言いようがない。

サイボーグの時代

昔、こんなSFを読んだ。そのとき人類は究極的に進化(退化)を遂げ、脳だけになった。その脳は、ガラスの中の水溶液に浸されている。そして、その脳の指示により人類は、いや人類の指示によって動く宇宙船は、はるかかなたの宇宙まで探検に出かける。

昨日見た立花隆のサイボーグの現在の最前線の取材番組を見てそれを思い出した。現在、人類は、脳に電極を差し、その電気信号をもとに腕や足や視覚さえ取り戻せるようになっているという。そして、アメリカの軍事産業はそれに多大の予算をつぎ込んでいる。たとえば、パイロットの脳に直接、電極を取り付け、高速な反応が必要な飛行戦闘では、時間的なロスがないこのような兵器は、大きな進歩を遂げるだろうと。そして、5年以内に電極を直接刺さなくてもいいヘルメットができるそうだ。

ここで、思うのは、科学技術の驚くべき進歩の速さではない。今のロボットの知能レベルは、3歳児のレベルにも達していない。サーボーグでいえば、その原理は、脳の可塑性に依存している。つまり電極を脳に差し込むのであるが、脳が、その電気信号を処理するように脳自身で調整してくれているのである。猿は、脳に電極を刺されてずいぶん以前から実験されていた。脳の可塑性に関しては、ここ何十年もの間知られていたことである。発想や原理自体に目新しいものはなさそうである。

ただ、実際に普通のおばさんが、義手をつけてモーター音をさせながらお茶をくむ姿を見ると、驚異的でさえある。究極的には、脳以外の部分についてはある程度代替は可能なようだ。近い将来には、脳以外を蝕むようなガンはそれほど重病ではなく、むしろ脳をおかす、アルツハイマー病や、ヤコブ病が、生存にかかわる重病になるというのもうなずける。

わらしべ長者

わらしべ長者という昔話がある。わらを持って神様のいうとおりの方向に行くと、わらが、みかんに変わり、反物に変わり、最後は、大金持ちになるという話である。

この場合、粗末なものでも大切にしなければならないという説教と捉えることが多いが、考えてみれば彼は、多少の工夫はするものの、交易によって無一文から大金持ちになっている。

昨今、日本人は汗して働くことを美徳としてきたということが盛んに言われるが、本当にそうなのだろうか?三年寝太郎は、3年間寝ていても長者になってしまった。「今昔物語」の葦を刈る夫にめぐりあう話では、男は泥と汗にまみれて働いても、幸せになれず、前世の報いだということで済まされてしまった。最後のは仏教の輪廻思想だとか、封建的身分制度の維持のための説話だということもできるが、本当にまじめに努力する人間が報われる世の中になってほしいものだ。

桜は日本の花だという。なので、僕は長いこと、桜の季節や桜が嫌いだった。

日本人は桜の散り際が立派なところを好きなのだという。ただ、周りの日本人を見ると散り際が立派な人はあまりいないように思う。

むしろアメリカ人のほうがさっぱりとやめて、新しい方向に進もうとする。アメリカのような流動性の高い世界では、一箇所に長くとどまることにあまりメリットがない。日本のような農耕社会では一箇所にとどまることこそメリットがある。なので、退くということは散ることなのである。

要するに、日本の社会は散ることによって、新陳代謝を行っているのである。日本人は桜を誉めることによって、日本社会の原理を確認しているのだと思えばわかりやすい。そう考えると、僕も少しは桜が好きになってきた。

リーダー

日本では、弱いものが強いということがある。

これは、弱者が強者に助けられるということではない。弱いものが、その弱さを自覚し、その恐怖から、地位をひたすら求めて権力者として確立しその権力にひたすらしがみつくということである。彼らは、弱いがゆえに強いのである。

このようなタイプのリーダーは、最近の傾向かというとそうではないらしい。第2次大戦の中の日本人の軍人の中に少なからずいたのだという。彼らは、弱いというよりはリーダーとして無能であったのである。彼らは、弱いがために強くあろうとして何万の同胞と敵といわれる人々を殺してしまった。そして、その恥をすすぐためにさらに強くあるろうとして、もっと多くの人間を殺してしまったのだという。

日本では死者を鞭打つことはしないのだという。ゆえに、そのようなリーダーたちは拡大再生産される。弱いものは、自分より弱いものしか使えないのである。死者を鞭打たなくても、なぜ弱いかを指摘できるだろうに。そうしなければ、この国はいつかあの戦争と同じように行き詰っていくのは目に見えていると思う。

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