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と言ふかさ、俺が何時「キリスト教道徳を振りかざして道徳道徳連呼し」たんだらうね。適當に作文してゐるから喜六郎の言つてゐる事はもつともらしく「見える」だけで本質的に的外れなんだよね。

俺の言つてゐる道徳とは、飽くまで「身近な人間に對する人間的な關係」の事を言ふんだよ。
例へば、優れた文學では、不特定多數を對象にした「政治」ではなく、特定の生きた個人が經驗する事を扱ふ「道徳」が採上げられる。『罪と罰』でラスコーリニコフが、不特定多數の「貧しい人々」の爲に何かを行ふのは、政治的な行爲で正義の行爲に過ぎない。その目的の爲にラスコーリニコフは即ち顏見知りの金貸しの婆さんを殺すのだが、具體的な個人との關係が「ある」のだからこれは道徳的な惡事だ。

「惡い事しちや行けません、フゥフゥ」みたいな「道徳的な掟」――これは徳目と言つて、道徳における一要素に過ぎない。喜六郎が「キリスト教道徳」だの「野嵜の信じる道徳観」だのと言つてゐるのは、この具體的な徳目の事だ。さう云ふものを「御開陳し」なければ、「人様の道徳観にケチ付ける」事は許されないと喜六郎は俺を非難するのだが、實に實に的外れで、俺は今まで、一度として、「人様の道徳観」に「ケチ付け」た事はない。喜六郎の言ふ「道徳観」とは、その人が信ずる徳目の事だが、俺は他人がどのやうな徳目を信じてゐようとも、それ自體としては文句を言つた事はない。
實際のところ、喜六郎が今、自分の非難は的外れだと氣附けないのは、俺が「言つた」と喜六郎が連呼するだけで、具體的に俺が何時何處で誰に對してどのやうな「道徳観」とやらをどんな風に否定したかを喜六郎が指摘してゐないのに原因がある。
何時もは實に具體的に俺の文章を引いて「此所が矛盾だ」とやらかすのに、今囘に限つて喜六郎は抽象論に逃げてゐる。喜六郎は卑怯者だから、最初から解つてゐて、具體的な事を言ふと自分が論爭に負けるから、わざと曖昧な、ぼかした言ひ方をしてゐるのだらう。


閑話休題。
大雜把な言ひ方だが、舊約では靜的な掟が定められてゐる。それに對して新約では、キリストが具體的に個別の人々と生き生きとした人間關係を結び、それぞれのケースで生き生きとした人間的行動の解釋を改めて示してゐる。


なるほど、俺は斯う書いた。
と言ふより、そもそもキリスト教文化の國の場合、キリスト教的價値觀が過去も現在も矢鱈強力に人間を支配してゐますので、最初から道徳と政治の兩方を支配する論理が用意されてゐる事になります。そこで今さら兩者に首尾一貫する自由の論理なんてものを必要としません。
日本人の場合、キリスト教なんて物を信じてゐないので、却つてキリスト教拔きの自由の論理を構築しようとしてしまふ訣ですが、それが可能か何うか――それが意味を持つのか何うか。
ところが、これは「キリスト教道徳を振りかざして道徳道徳連呼し」た事になるだらうか。なりはしない。そもそも、ここではキリスト教的價値觀があつて、その上に自由の論理が構築されてゐる、と述べたのであつて、「キリスト教の道徳を信じよ」と要求したものではない。ならば「人様の道徳観にケチ付け」たものである訣がないのであつて、そんな事は、日本語の文章を當り前に讀める當り前の人間には全員判る事だ。わらひ。喜六郎は一體人の文章をどのやうに讀んでゐるのだらうか。
おまけに、木村さんは斯う應じてゐるのだ。
机上の論理ではかうなるのですが、野嵜さん御指摘の通り、自由と云ふ概念そのものがキリスト教をはじめとする西洋の文化的傳統から生まれたものです。さうした傳統のない日本に、自由主義を移植するのは無理かもしれません。私自身、自由主義について書いてゐるとき、言葉が上滑りしてゐる感覺を拭へません。しかし同時に、自由主義以外に現在の私が納得できる思想が見あたらない事も事實なのです。と云ふわけでもう暫く勉強を續けてみたいと思ひます。
木村さん自身、「道徳観」とやらの話は全然してゐないのだ。そもそも道徳の話すらしてゐない。木村さんは、喜六郎先生が御指摘になつたやうに、「ただの左翼」として、政治的發言をしてゐる。
だからこそ俺は木村さんの政治的態度を批判した訣だが、それが喜六郎に「人様の道徳観」をうんたらかんたらする事に見えたのだとしたら、そもそも喜六郎が「左翼だな」とか言つた非難も實に淺薄なものだつたと評さざるを得ない。まあ、さうなのだが。

續けて俺はハインリヒ・デュモリンの『全き人間』(現代教養文庫)からその一節を引いた。
……。かつて二人の者が神殿にのぼっていった。一人は富裕な支配階級にぞくするファリザイ人であり、他の一人はその身分のゆえに人々からさげすまれていた税吏(みつぎとり)であった。ファリザイ人は次のように祈った。「神よ、我は他の人の窃盜者、不正者、姦淫者なるが如くならず、又この税吏の如くにも非ざることを、汝に感謝し奉る。……然るに税吏は遙かに立ちて、目を天にあぐることだにも敢えてせず、ただ胸を打ちて、神よ、罪人なる我を憫み給え、と云い居たり」(ルカ十八ノ一一−一三)。
さてこれを見て喜六郎は俺が「キリスト教の説教をした」と早とちりしたのだらうか。俺にしてみれば、キリスト教徒でも何でもない日本人がキリスト教の聖書の一節を引いたとしても、それはキリスト教の説教をした事にはなり得ないと思ふのだが、その點、喜六郎の感性は俺と違つたやうだ。
新約ではキリストが舊約の教へを片端からひつくり返してゐるんですが、收税やら竊盜やらについても、單純に行爲としての(木村さんの所謂)「反道徳性」を指摘するのでなく、惡人とされるべき人の道徳性を指摘する記述が多々あります。
俺は斯う言つて、飽くまで俺の言ふ道徳の説明をした積りなのだ。文脈を辿つて普通に讀めば、俺が何かキリスト教の徳目を述べて、木村さんの主張する從ふべき徳目を否定した、とは理解する事等出來まいと思ふ。何うして「キリスト教の説教」だと喜六郎は早とちりしたのか。自分の非難したい言ひ方で非難する爲に、俺が實際に言つた事を故意に無視したとしか思はれない。でなければ、喜六郎は日本語を讀めない馬鹿と云ふ事になる。どつちにしても喜六郎がまともに他人の文章を讀めない――少くとも「敵」の人間の言ふ事は「敵が言つた事だから」と言つてまともに讀まうとしない、「敵身方思考」に陷つた、既に皮相な意味での「政治主義的人間」である事は明かで、それで「野嵜健秀翼賛会」等とレッテルを貼つて罵つてゐるのは喜六郎が人間を人間と見ない、本當にたちの惡い、そして意外と日本に大量に棲息してゐる政治主義者である事を示す。

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