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ここでは現實的に有效な「對處法」の類は扱はない。飽くまで觀念的に、所謂「アンチ」と「信者」について論ずる。

今、私は、「信者」と「アンチ」ではなく、「アンチ」と「信者」と言つてゐる。この事に一部の人は奇異の念を覺えるであらう。普通、「信者」がゐて、それに反對して「アンチ」が發生する、と思はれてゐる。
けれども、實は、さうした認識は、「誤」なのだ。

――もちろん、存在として「何かを好んでゐる人」が先づ「ゐる」のであり、さうした人に反感を抱く人が出現するのである。
が、重要な事實がある、それは、「反感を抱く人」が必ず「何かを好んでゐる人」を罵倒して「信者」と云ふレッテルを貼る、と云ふ事だ。即ち、「信者」なる存在がない所に「反感を覺える人」即ち「アンチ」が發生するのである。
言ひ方を變へると、「アンチ」としての自覺を持つた人が指摘する事によつて、或種の人々が「信者」として他の人々から分離され、分類される、と云ふ事だ。一方、「アンチ」の人は、既に自分が「反感を抱いてゐる」事を自覺し、その自覺に基いて行動してゐる。

「アンチ」の人は、「アンチ」である事を以て自任してゐる。自分で自分を「アンチ」であると定義するのである。そして、「アンチ」として、自身の信ずる何等かの價値觀に對立する價値觀を持つ人々を、嫌惡して――そして、重要な事だが、はつきり敵と看做して、憎惡する事によつて、彼らは活動を起し――攻撃目標に「信者」の名を與へて、限定する。
驚くのは、それまで無自覺であつた「信者」の側である。何と言つても、ただ「好きである」「好んでゐる」だけであつた彼らは、「信者」として、敵として名指しされ、憎惡の念をぶつけられるのである。「信者」の側が常に受身とならざるを得ないのは、さう云ふ理由である。が、受身の立場である事こそ、彼等「信者」の存在が後から發生したものである事實を示す決定的な證據である。

一方、「アンチ」は、自覺的に行動を起したのだから、攻撃の仕方は既に決つてゐる。と言ふより、攻撃すると決意し、その攻撃が有效であると確信したからこそ、彼等「アンチ」は活動を起す。けれども、その「有效である筈の攻撃」は、常に決定打とならない。「アンチ」の激しい攻撃を受けて、うろたへる「信者」を見て、「アンチ」はほくそゑむ。ところが、「信者」は、依然として「信者」である事をやめず――のみならず、彼らの「信ずる」價値觀の魅力は、依然として、第三者に強力な作用を及ぼしてゐるのである。
「アンチ」の攻撃が有效たり得ない理由は、はつきりしてゐる。彼等「アンチ」は、「信者」の價値觀を憎む。けれども、價値觀は、相違があり得るだけで、どつちが客觀的に正しいと言ふ事が出來ないものなのである。ところが、「アンチ」は、自分の信ずる價値觀が決定的に正しいものであり、眞實である事を確信してゐる。それゆゑ、「信者」の「信仰」を「誤」と見て、突崩すのは簡單だとたかをくくるのだが――價値觀がさうさう簡單に突崩せる訣がないのである。

だからこそ、「アンチ」の攻撃は長期化する。憎惡の念を「アンチ」が容易に捨去る事はない。感情はさうさう簡單に捨てる事は出來ない。ところが、「アンチ」には、「信者」が執拗に「信ずる」事を捨てないのが惡いのだと極附ける――「アンチ」は、決して「自分の憎惡がをかしいのでないか」と反省しない。「アンチ」の狂信性は、屡々指摘される。實際、自覺的に行動を始めた時點で、「アンチ」は確信を抱いてゐるのである。逆に、「アンチ」によつて始めて「信仰」を指摘された「信者」は、實際には「アンチ」が言ふほど狂的に「信じて」等ゐないものなのだ。他者から指摘されて氣附くやうな「狂信」なんてものが、あり得たものではない。
しかし、「アンチ」によつて一度目覺めさせられた「信者」が、自覺した自己の價値觀を、捨去る事も、やつぱりあり得ないのである。寧ろ、放つて置かれれば自然消滅したかも知れない「好む」と云ふ感情を、「アンチ」に攻撃される事によつて、「信者」は認識し、自覺的に「守らう」とし始める。

斯うなると、「アンチ」の惹起こした「對立」は長期化する。互ひに引かないから長引く訣だ。勿論、「信者」の側に責任はない。先に或る人々を「信者」と呼んで、攻撃を始めた「アンチ」が惡いに決つてゐるからだ。だから、「アンチ」はこの時、「粘着」と呼ばれるやうになる。
ところが、價値觀の問題である以上、人は自己の正當性を主張する。「アンチ」は、自分が狂信的である事を認めず、自己の責任を認めない。只管、「信者」の「有害さ」を主張する。「信者」が世間に垂れ流す「害惡」を阻止するため、「アンチ」は自分が活動してゐるのだと主張する。結果として「粘着」化したのも「當然だ」と言張る事になる。

ところが、「アンチ」が「粘着アンチ」と化せば、世間の人の目は冷たくなる。「アンチ」の攻撃的なところが嫌がられてゐるのに、「粘着」となればますます印象が惡化する訣である。しつつこいのだから、氣持ち惡いと思はれるのは自然である。
さうした自分の印象の惡さも、「アンチ」は「信者」の所爲にしてかはさうとする――と言ふより、「信者」と云ふ「惡い存在」がゐるからこそ自分は「非道い目に遭つてゐるのだ」と、被害妄想を起す。ただでさへ狂信的な「アンチ」であるが、この時、彼等は、「崇高な使命感」を自覺する事になるのである。自分は「正義」の爲に、「信者」と云ふ存在による嫌がらせを甘受してゐるのだ、と云ふ確信――しかし、「存在が嫌がらせする」とは、妄想以外の何者でもない。
當然の事ながら、この頃には、「信者」の側も落著いてしまつてゐて、「アンチ」の妄想的である事――をかしい事――には氣附いてゐる。「信者」は、冷靜に「アンチ」の異常である事を言出すやうになる。ところが、「アンチ」には、その指摘が甚だ不快なものに感じられる。「信者」に對して「アンチ」は最初から偏見を抱いてゐる――「信者」を見下してゐるのである。「アンチ」は、「信者」を憎みながら、蔑んでゐるものである。ところがその蔑みの對象である=自分より格下である「信者」に、何と、反撃されたのである。「アンチ」の憎惡は怒りに轉化する。「アンチ」はますます「信者」に激しい攻撃を加へる。「粘着」度が増す所以である。

一方で、「をかしい」と指摘される事に、「アンチ」は病的な恐れを抱くやうになる。「アンチ」は、自分が如何に正常であるかをアピールするやうになる。言ふまでもなく、「私は正常です」等と宣言しても、それだけでは誰も信じてくれない。
最初から「アンチ」は「信者」の「異常性」を言つてゐるのだが(「アンチ」は「信者」が「信じてゐる」と言ふが、「信じてゐる」のは「異常だ」と云ふ發想である)、その指摘の仕方はどんどん激しくなる。「信者」は「社會の害惡」とされる許りでなく、「狂信者」とされ、「無知蒙昧」で「被害妄想」、「勘違ひ」、云々、ありとあらゆる異常性が賦與される。
同時に、「アンチ」は、「アンチ」としての活動である「信者への攻撃」だけでなく、「常識的」な行動も取り始める。お繪描き掲示板での「アンチ」は、自分が如何にクリエイティヴかをアピールする爲に、繪を描き始める。思想關係の「アンチ」は、自らの思想・信條を述べ始める。その度に、彼等「アンチ」は、誰か有能な人・優秀な人・有名な人に縋らうとする。繪を描き始めた「アンチ」は、自分が上達しつゝある事をアピールするが、同時に誰か「偉い」繪師に褒めて貰はうとする。思想的な「アンチ」は、自分の信條を「有名な」思想家に褒めて貰はうとする。彼等の行動は、しかし、第三者の目には、屡々媚びてゐるやうに映る。
實際、彼等「アンチ」の態度は、露骨に媚を賣るものなのである。だから、ますます嫌らしい態度として受取られるやうになるのであるが、「アンチ」自身は、自分が「正常」だと確信してゐるから、他者による客觀的な評價で自分が「異常」とされてゐる事が判らない。媚を賣られた側が、何も知らないで・知つてゐても媚びに對して儀禮として、自分を褒めて呉れるのを、「アンチ」はとても嬉しさうな顔をして、まともに受取つてしまふ。

しかし、この頃には、「アンチ」の行動が、自己顕示欲に基く事は、周圍にははつきり判つてしまつてゐる。掲示板での「アンチ」は、常に「コテハン」であり、或は、匿名でもはつきり判る「個性的」な言動が目立つ存在である(要は、言ふ事がいろいろをかしい)。掲示板を離れた「アンチ」は、自分のウェブサイト・ブログの類を持つ事があるが、その時には常に自分の「すぐれた活動」を見せ附けようとし、自分の名前を他者に賣込まうとするものである。それが、「アンチ」が「自分はただのアンチなる存在なのではない」と云ふ主張に基くものであるのは明かだが、さうなると、「アンチ」としてウェブの「社會」に現はれてしまつた事が、「アンチ」には悔やまれてならないものになる。が、「アンチ」の何うしやうもないところは、ここである――「アンチ」は、自分が他者を憎んだ事を反省せず、「自分を憎ませた信者」が「惡い」と、依然として責任轉嫁を續けるのである。

「アンチ」は、「信者」に「責任」を負はせようと必死になる。最初は嫌がらせの爲に輕い氣分で言つてゐたのだらうが、そのうち本氣になつて「信者」には「責任」が「ある」ものと思ひ込み、向きになつて「責任」「責任」と言立てるやうになる。
言ふまでもなく、「信者」に責任はない。或種の「好み」、或種の「價値觀」を抱く事は、それ自體として、責任とは關係ない。
そんな事は、「アンチ」も解つてゐる。だからこそ、「アンチ」は、向きになつて、「信者」の「してゐる事」「理窟」の「誤」を指摘し、責立てるのだが、そんな事をしても、肝腎の價値觀、肝腎の好き嫌ひは、何うする事も出來ない。それを「何うにかしたい」のが「アンチ」なのだ。

だから「アンチ」は、ウェブにおいて、常に「指導的」であらうとする。他人を操縱して、自分の思つた通りに動かしたいのである。彼等は、政治的な行動を大變好むが、「他人を支配したい」と云ふ動機がその根柢にある。が、それゆゑに、彼等の「政治的信條」は、「獨裁的」なものになりがちで、自己のみならず他者の自由をも認める「自由主義」には反對し、自己のみが自由に他者を操れるやうな社會の到來を期待する――が、その大前提として、「アンチ」は自己に「他者を操縱する權利」が「ある」と云ふ確信を抱いてゐる。要は「自分が一番偉いのだ」と云ふ妄想だが、さうした彼等の思ひは、彼等の行動に表れる。「アンチ」の行動は自己中心的であると屡々看做される。

斯うした「アンチ」の言動を、分析する事は大變容易である。ところが、その言動に對處するとなると、大變困難である。問題が價値觀の問題である。「アンチ」の問題は、「アンチ」の價値觀の問題である。「アンチ」の價値觀に大變問題があるがゆゑに、「アンチ」の行動にも大變な問題が生ずる訣だが、その行動を何うにかする爲には、價値觀それ自體を何うにかしなければならない。ところが、それは無理なのである。だから「アンチ」の行動は、何時までも續く訣だ。そして、それを「アンチ」は、自分が正しい決定的な證據だと思ひ込んで、自己の正しさに對する盲信を捨去る事が無い。


追記

試しに「記事の修正」で「コメント」を「可」から「不可」に變更して見たらコメントが消えた。爺には申し訣ないけれどもさう云ふ次第だから。別に何うでもいいけど。

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