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人は何を議論すべきか

よくよく考へれば何でもかんでも疑はしいわけで、さうなると「議論に於て簡單に結論を出せる問題なんてさうさうない」と云ふ事だけが確實――と云ふ事になります。ところが議論で直ぐに結論を出さうとする人がゐる。
――議論をしようとする姿勢そのものが間違つてゐる。明かに惡い事を多くの人が一齋に糺彈するのも、結論が既に出てゐる事についてえんえんぐちるのも、議論ではない。
交通事故の話で「車が惡い」「バイクが惡い」と相互に散々罵り合つてゐるスレを壺だか何處だかで見たけれども、あれは「互ひに讓り合つて」と云ふのが結論である事は動かしやうがない。その結論は兩派とも知つてゐて、それでゐて何時までも相手を罵り續けてゐる。議論ではありません。

自然科學の問題だと、實驗等で檢證でも反證でも出來るから、要は確認作業がきちんと行はれればいいだけで、議論が可能と言つても意外と話を出來る範圍は廣くありません。
政治の話なんかは最う議論の場で決着がつく事を期待しては行けないので、「議論」はただ互ひの主張を述べ合ふ場であり、見てゐる人へのアピールの場であるに過ぎません。

政治でも經濟でも、「自分の主張は神の主張と同じで100%確實に正しい、誰某の主張は神の主張に逆らふ惡魔の主張で叩き潰さなければならない」みたいな事を言ふ人がゐる。これが一番愚かだと思ふ。政治でも經濟でも「100%確實」なんて事は絶對にあり得ない。

價値觀や人の生き方に關はる問題――實はそれこそが議論に價する事柄で、人は「なぜ生きるか」の問題を論じなければならないし、それには全ての人が發言する權利がある。政治より道徳の方が劣つてゐると考へる人がゐるが、あべこべだ。政治なんかより道徳の問題の方が遙かに重要だ。
政治の議論では、非常に安直な主張の仕方が繰返されるが、非常に安易な價値觀の採上げられ方も繰返し行はれてゐる。それが私には大變不愉快に思はれる。「惡」と云ふ事が餘りにも簡單に定められて、それを基に他人を斷罪する――さう云ふ論者が極めて多い。

合理主義は信じ得るか

私もキリスト教は信じてゐませんが、今の多くの人が宗教なんて信じられないのでないでせうか。「宗教が全ての問題を解決する」なんて事は、現代に於ては期待できたものではありません。
宗教が無理「だから」合理主義――と云ふのも、合理主義の「論理」ですが、實はこれも信じる事が出來ません。と言ふか、私に言はせれば、合理主義もまた信ずる事が「できない」。
合理主義はイデオロギーであり、イデオロギーは所詮擬似宗教に過ぎません。

キリスト教と合理主義

歐米諸國や中近東の邊の國ではキリスト教やイスラムが歴史的に浸透してゐて、國民は大體生き方=文化として宗教の發想を受容れてゐる。具體的な教義を信ずる信じない以前に考へ方が身に附いてゐる。そこでは思想の相違があるにしても表層的なもので、根本的な部分では無意識にでも相互の諒解がある。
宗教の命令は絶對の命令で、信者の反論を許さない。だから「惡」とは何か、は決つてゐる。

絶對の命令を排除し、「全てを疑へ」の精神で行く合理精神は、キリスト教への反抗から生じたものだ。それは人が物を客觀的に見る目を養つたが、主觀に關してはノータッチだつた。或は、主觀に關はつた時點で、擬似宗教への接近であつた。合理精神の主觀への干渉は常に失敗に終はつた。
合理主義は客觀的に物を見る精神として出發したが、元々キリスト教に逆らつたものであり、アンチキリストのイデオロギーだつた。一方キリスト教は良く出來た宗教で、樣々な近代的な理念を育てた。合理主義者もそれは認めざるを得ず、合理主義で理念を説明してキリスト教から絶縁させようとした。それは巧く行つてゐない。
合理主義にも限界がある。その限界は或意味キリスト教が既に突破してゐたものだ。もちろんキリスト教にも限界があり、合理主義はそれを衝いて、結果として今の地位を得てゐる。が、結果として合理主義もキリスト教も不完全で、現實の人間社會には完全に適應できないと云ふ状況に陷つてしまつた。

日本は思想的に未發達の國で、明治時代、後進國として歐米の思想や技術を採入れた。その時キリスト教は採入れず、和魂洋才で行く事とした。けれども實は和魂なんて存在しなかつた。そして弱點のあるにもかかはらず合理主義を良いところだけを見て採入れようとして、現在非常に難しい状況に陷つてゐる。

議論は成立ち得るか

議論において、我々は客觀的に物を見ようとしながら、實に屡々多くの重要な事を見落とす――それも容易に結論を導かうとして。
ところがそれゆゑにその「簡單に引出された結論」が納得されず、或は強力な力を持ちながら依然として何處か嫌な後味を殘す。我々はもつと率直に語るべきだと思ふ。
議論になつてゐる時、その議論の對象となつてゐるものを、もつと良く見て、正しく受けとめる必要がある。價値觀と云ふものが絡んで來るならばそれもありのまゝに受止めねばならない。價値觀・主觀と云つたものも實在物として客觀的に檢討すればいい。それが正直な議論と云ふものだ。

「議論は成立ち得るか」――「議論は成立たせねばならない」と云ふ價値觀を論者が共有してゐなければ成立つまい。
議論を成立たせよう、と云ふ意識のない人が參加する「議論」は、言爭ひの域を先づ出ない。ただの意見の押附け合ひに陷らざるを得ないからだ。意見の押附けなら意志の押附けであり、最終的には暴力に行かざるを得ない。私はそれを良しとしない。が、それを良しとする人は結構ゐるのだ。案外さう云ふ暴力主義者がウェブには多い。
私は、正直な議論こそが建設的な議論だ、と信ずる。しかし、自分にとつて都合の良い結論が「出る」事が「建設的な議論をした事」になるのだと信じてゐる人がウェブには結構澤山存在する。勿論そんな結論を出して呉れる裁定者等ゐないから、さう云ふ人は目の前の論者を泣かせる事で「結論が出た」事にしようとする。

「惡」の概念

「カンニングをした」とtwitterで「告白」した學生が吊し上げられてゐる。「カンニングは惡い事だ、そんなの當り前だ」とほぼ全ての人が漠然と思つてゐる。だが、なぜ「惡い」事と言へるのか、そもそも「惡い」とは何なのか、と問はれると、誰一人答へられないと思ふ。
日本人は一人として「惡い」とは何かを説明できない――少くとも宗教を信じてゐない日本人は。
無神論で合理主義者の人は社會や共同體の秩序維持を理由に説明を試みる。しかし同じ人が秩序を拒否して國家や政府を否定してゐたりするのだから訣が解らない。合理的には惡の概念を定義できない。
「他の人が迷惑する事は惡」と云ふ定義は、觀念的に成立つだけで、「迷惑をかける側」には何の意味も持たない。「迷惑をかけられると困るから排除する」と云ふ考へはあり得る。しかし、「別に排除されても構はない」と言はれたらそれまでだ。
――そこで依然として「惡」の概念を論ずる事は可能か。

「社會的に迷惑な事」が「惡」であるならば、「別に他人に迷惑をかけても自分さへ良ければそれで良い」と考へる人にとつて惡事であると自覺する事はその行爲を思ひ止まる動機とならない。さうなるとこの定義はただの觀念的な定義でしかないわけで、ならば實質的には何の意味もないと云ふ事になる。
損得勘定だけで人が動くなら「他人に迷惑をかけない限り自由」と云ふ「互ひに調節し合つて生きる方法が一番」と云ふ合理主義者の發想が出て來る。けれども、「他人を抑へ附けて自分だけ得しようとする賭け」に突走る人が出て來る事もあり得るし、有能な人ならばそれが結構可能だ。
「社會の秩序維持=善」と云ふ發想は、「自分が死んだら全部終りだろ」と云ふ發想をする人に對して説得力を持たない。「何で自分が死んだ後の社會の事まで考へなければならないのか」「そもそも社會の成員たる人間は何うせ死ぬだろ」――斯うした疑問に合理主義者の人はどれほど強力な反論が可能だらうか。

「惡」の概念が説明され得ない以上、「惡」を糺彈する行爲の正當性が存在しなくなり、同時に、「正當性がない行爲=惡事」を糺彈すべき理由もなくなつてしまふ。
「社會のルール」は「社會そのものを否定する立場」「自分を最優先にする立場」からは「無視していいもの」である。「社會のルールを無視した」と言つて非難する行爲は何處まで説得力を持つだらう。
「社會を否定する」のみならず「人間を否定する」或は「現世を否定する」立場から無差別殺人を行つた人に「惡い事をした自覺はあるのか」と尋ねても、そんな自覺がある訣はない。さうなると、何うやつてその人を改悛させる事が可能か。

「誰でも人は死ぬんだ」と言はれて、「しかしそれでも社會は大事だ」と言返しても、説得力はあるだらうか。「ただの開き直り」「負け犬の遠吠え」と罵倒しても――罵倒は「自分が優位に立つてゐる事を確認する行爲」でしかないから相手を改悛させる爲には何の役にも立たない。
「社會のルール」が「ある」と言つても、それは事實を確認したに過ぎない。事實から「べき」論に話を飛躍させるのは無理だ。「社会のルールを守らないのは惡である」と言つた時も、それは單にネーミングをしただけに過ぎない。「惡」とレッテルを貼つただけ、と云ふ事だ。

「惡人」が悔悛しないからと言つて死刑にして、社會の秩序を維持したとする――これにはどんな意味があるのだらうか。
現在、多くの人が「社會の秩序を維持する必要がある」「なぜなら私逹は生きてゐるし、生きてゐたいから」と考へてゐる。けれども、「別に生きてゐなくてもいいや」と考へる人が大多數となつたら何うなるか。

「議論」と云ふ觀點から言へば――「惡事」に對して「非難する」と云ふ行爲が成立つか。成立たないならば、非難が行はれるのはをかしな話だ。しかし、をかしな事・惡い事を非難する謂れもないわけだから、惡い事を非難してゐる人がゐても止めるわけにも行かない。

「社會のルールを破つた」に對して「社會のルールを破つて何が惡い」と云ふ開き直りのやうな反論がある。これに對して我々は「開き直るな」以上の説得力のある再反論ができまい。ところが「開き直るな」はただの命令で、論理的な反論でない。
――となると、反論出來ない側がより説得力のある理窟を言つてゐる人間を、暴力で默らせようとしてゐる事になる。
暴力的であつても別に「社會のルール破り」を抑へつけるならばそれでいい、と考へるならば――しかしその時、非暴力的に議論をする事の意義は失はれないか。我々が議論をする意義は何だらうか。
また、暴力で解決するのが許されるならば、間違つた事を言つた人をtwitterやはてぶや壺で叩き捲る暴力的行爲が許される事は自明でないか。

社會のやうな「現世の事」を持出して説得に用ゐた場合、「人間は最後には死ぬだろ」と言返されたら反論出來ないと云ふ問題がある。
今twitterや壺で「社会のルール」「秩序」に關して(政治に關して)議論をしてゐる人々の多くが「人間の死」の事を考へないで濟ませてゐる。
政治について論じてゐる人は「しかし人間は死ぬんだぞ」と指摘されても「そんな事は考へる奴がをかしい」と極附けて、元氣に議論を續ける。けれどもさうやつて思考停止し、議論を續けて、何か益があるのだらうか、と私は思ふ。
死を持出して反撃する人には「死を超えた價値」を提示するしか論理的に壓倒できる方法はない。それは宗教に属する價値觀だが、合理主義者にとつて宗教は非合理であり受容れられないものだ。となると合理主義者に據る合理的な説得は不可能、と云ふ實に困つた結論に至らざるを得ない。
――斯う云ふ檢討をして見せると「野嵜は危ない」「頭がをかしい」と云ふ結論に多くの人が飛附くと思ふけれども、私にしてみればこの程度の事を念頭に置いて物事を考へる事の出來ない人々の言ふ事など淺薄でとても信用出來たものではないと云ふ事になる。

誰も宗教を信じろなんて言つてゐやしないので、ただ價値觀や主觀を排除した筈の合理主義が屡々價値觀や主觀に介入してくる胡散臭さをもつと自覺しろと言つてゐるのである。
實際、價値觀を扱ふのならば「人間にとつての價値觀の意義を考慮した合理主義」こそが要請されるべきなのだ。從來流布して來た俗的な「客觀主義としての合理主義」なんてもので滿足し切つてゐる多くの合理主義者諸氏に私は反省を促したい。
進歩的で理性的・合理的、と云ふ事を標榜してゐる左翼の人にも、「お前はそんな事で生きてゐる價値があるのか」と、飛んでもなく古めかしい封建道徳を持出して、敵を責立てる人がゐる。彼は矛盾してゐるのだが、さうした矛盾が平氣で言出されるのも結局その人が「物を考へない」事に起因する。
一方、右翼の人々にも猛省を促したいのだが――「死を超えた價値」或は宗教と云ふものを、實はあなた方自身も信じてゐないのでないか。少くとも、相手を説得できるほど宗教を理解してゐないのでないか。
現代において、死を全面に出して戰ふアウトローは所詮アウトローで、汎く一般に「説得力を持たない」。勿論その「死」と云ふ事實は絶對で、多くの人が目を背けてゐる現代では「説得力を持たない」にしても、絶對に磐石の理論的基礎たり得る。が、現に「説得力を持たない」時代の趨勢は認めなければならない。


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