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餘りに突込みどころが多くて常軌を逸してゐる喜六郎のブログに突込みまくつたら常軌を逸してゐると言はれてアク禁になつて大勝利なのだけれども、例によつてアレクセイと同じやうに喜六郎にも折角書いた文章を消されたので、ちよつとだけ何を突込んだか書いておく。そんな變な事は言つてゐなかつた積りだよ。

近代的な国民国家の関係は、権利と義務の関係で成り立っている。これは、ガッコの公民の授業で誰でも習うことである。
我々国民は、国家に対し、教育の義務・納税の義務・勤労の義務とった義務を負う見返りとして、国家から基本的人権や財産権・言論の自由といった権利を保障されるのである。
つまり、人権や言論の自由は国家によって保証されるのである。
人権や言論の自由は決して普遍的な価値ではない。
人権や言論の自由を認めない国は少なくない。日本のすぐ近くにもそんな国は存在する("某人民共和国"とか"某民主主義人民共和国"など)。
それゆえ、呉智英氏が自著「危険な思想家」で述べているとおり、人権は国家なくしては成り立たない概念であり、要するに「政治」の領域に属する概念なのである。
当然ながら、自身の言論活動の根拠に「言論の自由」を持ち出す輩なぞは、まぎれもなく政治主義者なのである。

この記事に對して。
なんで「ガッコ」なの、學校と何うして書けないの、とジャブから入ったけれども、それは本當に些細な喜六郎の異常な言語センスを皮肉つただけ。

喜六郎は何時ものやうに呉智英氏に倚り掛かつてゐるけれども、何うせこの人表面的にしか文章を讀まないから例によつて言つてゐる事が目茶苦茶。そんな訣でこの人の本質的な誤を俺は追求してみた訣だ。

人権や言論の自由は決して普遍的な価値ではない。

「人權」「言論の自由」、これを喜六郎は先づ「價値」として見てゐる。けれども。

つまり、人権や言論の自由は国家によって保証されるのである。

人権や言論の自由を認めない国は少なくない。

「国家によって保証される」と言つたり「認めない国は少なくない」と言つたり、明かに矛盾してゐるが、ここで喜六郎は、「人權」「言論の自由」を、保證される對象の具體的な何かと見てゐる。

喜六郎は、抽象的な概念と、具體的な「保證される事」とを、ごつちやにしてゐる。日本人は屡々イデア的な事とリアルの話とを混同するが、この誤に日本人の喜六郎もまた當り前のやうな顔をして陷つてゐる。それでまともな話が出來る訣ないから突込んだけれども、當然、喜六郎に自分の誤が認識出來る筈もない。日本人は結構多くの場合、現象面でしかものを見る事が出來ない。

言つてゐる事は偉さうだが、良く見れば喜六郎の言葉は混亂に滿ちてゐる。突込みどころだらけで常軌を逸してゐる所以だが、これらを全部突込んでゐると「常軌を逸してゐる」事にされて全部コメントが消されてしまふのだから話にならない。笑ひ。喜六郎は、「何を言はれたか」と云ふ内容面ではなく、「幾つ書かれたか」と云ふ現象面で、俺を判斷した。世の中、さう云ふ判斷で何でもかんでも割切つてしまふ人が多いから、喜六郎の處置に大喜びする人は少くないだらう。


ま。
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/37.html
これを「カメラ小僧の下手な写真」と、喜六郎が俺を罵つたのと同じ文句で罵つてやつたのが相當堪へたらしいけれども。

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