過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

政治主義の勘違ひ

政治に何かを期待する人は根本的に勘違ひをしてゐる。彼等は屡、事實を――眞實すらも――歪曲して平氣である。

右翼を嘲る左翼、或は、右翼の危險性を盛んに宣傳する左翼は、何ら實のある議論をしようとしない左翼である。彼等は、自分の氣に入らない人間をただ「右翼」認定するだけである。それで彼等は「俺大勝利!」と本氣で思ひ込んでしまふ。
ターゲットをひたすら「右翼」「右翼」と極附け續ける――この手の左翼が「右翼認定」をするのは、自分が「勝利した事實」を確認し、安心するためである。

「私は左翼でも右翼でもありません」と言ひながら、政治に固執してゐる人がゐる。大變怪しい人物である。當人が力説する事は、疑つてかかつて良いだらう。

政治にしても經濟にしても、人間が生延びなければならない以上は必要なものだが、そこに何か幻想を見てしまつてゐる人がゐたら、その人は勘違ひをしてゐる。
文學者なのに、政治に興味を持ち、政治の爲に活動する人は、勘違ひをしてゐる。特に日本の文學者に勘違ひをしてゐる人が多い。
政治運動をやつてゐる人に屡々「文學的才覺」を發揮する人がゐる。矢張り勘違ひが原因である。政治主義的な勘違ひをしてゐる文學者と、文學の才能を自分から捨ててしまつてゐる政治活動家。

事實や眞實から目を背け、事實の報告や正しい理論を歪曲して「をかしなもの」に見せかけようとする人がゐる。さうでもしなければ自己のアイデンティティを失ひ兼ねないらしいのである。よくわからないアイデンティティである。

右派・保守派のメディアは嘘吐きである、左翼・革新陣營のメディアは正直である、と言ふ左翼・革新の人がゐる。しかし、左翼メディアも、偏向した結果、特定の事柄をしか報じないがゆゑに「正しい事しか言つてゐない」だけでしかなかつたりする。
産經新聞を「誤報だらけ」と極附け、赤旗の報道は正確だと賞揚してゐる左翼の人がゐる。なるほど、勞働問題で屡赤旗は「正確な報道」をする。しかし、赤旗がいつも「自分に都合の良い事實だけを採上げてゐる」と云ふ事を、見過ごしてはならない。赤旗は自分に都合の惡い事實を採上げない。

2ちゃんねるの情報が玉石混淆なら、メディアの情報も玉石混淆である。この事は誰でも想像できる筈だが、2ちゃんねるに肩入れしてゐる人には案外わからなくなつてしまつてゐる。彼等は安易にメディア叩きに走る一方、2ちゃんねらーをひたすら持上げて見せる。觀念で考へて、事實で確認してゐないのである。

粘着アンチの言動は氣持ち惡い。この事を粘着アンチは絶對に自覺しない。
しかし、粘着行動だけで人氣を得られた粘着アンチはゐない。みんな「わかる」のである。
ウェブでは人の足を引張るのが樂しくて樂しくて仕方がない人が尤もらしく政治評論ごつこをやつてゐる。これもみんなそのうち「わかる」。

日本人には、他人でも他國でも、安易に侮る惡癖がある。
自分が恥ぢる能力を持たない人に限つて、他人に恥をかかせて遊ぶ癖がある。「お灸を据ゑてやる」なんて傲岸不遜な事を言へるのは恥知らずだからに相違ない。

深く恨む必要もなければ激しく怒る必要もない事で恨んだり怒つたりする――政治主義的勘違ひである。勘違ひだと薄々感づいてゐる人はゐる。ところが人間は狡いから、自分で自分を騙すのである。殊さら「嘲る」「見下す」「侮辱する」と云つた「餘裕のある態度」を示す事で、勘違ひを隱さうとする。誰から隱すのか。自分の目から隱さうとするのである。自己欺瞞である。

政治思想の押附け合ひには意義を感じない。

「南京大虐殺」が「あつたと云ふ結論」にではなく、「南京大虐殺」が「あつたと結論を出すに至るまでの思考・檢討の過程」に、野嵜は反對したのだ、と云ふ事を、「あつた派」の人も「なかつた派」の人も理解しなかつた。
「南京大虐殺あつた派」の人々は、不適切極まる方法で「あつた」と結論を出して平氣だつた。これは、「あつた」と結論を出した方が、彼等「あつた派」の人々の政治的信條にとつて好都合だから、さう「信じた」のである。
一方、彼等「南京大虐殺あつた派」の人々は、彼等自身がさうだから、野嵜が「なかつた」と言つたのは、「その方が自分の政治的信條にとつて都合が良いからだ」と解釋した。

そもそもの用語の定義の段階で、彼等「南京大虐殺あつた派」は、頑強に抵抗した。「南京」の領域、「大」のレヴェル、「虐殺」の主體性――さうしたものを全て曖昧にしたまゝで、「兔に角日本人が反省する事に意義がある」と、彼等は主張した。「日本人を反省させる」と云ふ目的があつて、彼等は「南京大虐殺はあつたのだ」と主張してゐた。「客觀的な・歴史學的な根據」があるかのやうに言つたのは、彼等にとつてその方が都合が良かつたからでしかない。もし本當に純粹に歴史學的な立場から物を言つてゐるのならば、彼等は「日本人に反省させる」等と云ふ事は口が裂けても言へなかつた筈である。
政治的な目的で何かの結論を出し、それを他人に押附けようとする――下らない事だ。

「南京大虐殺」論爭は、「下らない政治的信條の押附け合ひ」の域を出なかつた。私は歴史的な檢討を要求したのだが、「あつた派」は、それが政治的な目的を達成する障碍になる事を知つてゐたから、必死になつて野嵜の排除にかかつた。
政治的主張をするのは空しい事で、やるに値しない。宗教的な主張をするのは、それに比べると、遙かに大きな意義がある。

http://twilog.org/nozakitakehide/date-100629/

宗教批判について

俺がエホバの証人叩き・モルモン教叩きをやらないのは、宗教に關する知識もさる事乍ら、そもそも自分を律する宗教心を持合せてゐないからだ。叩く事より先にすべき事がある、と思つてゐる。
だから俺は宗教批判をしない。

自分が何かの宗教を信じてゐて、その價値を押附けるに價すると信じて他の宗教・宗派を批判するなら、あり得る。けれども、何も信じてゐないで、宗教を信じてゐる人を叩くなら、それは遊びでしてゐるので、何の意味もない。遊びで宗教的な主張を叩くのは、意義のない事だ。
あなたは何かを信じてゐるか。その何かは信ずるに價するものか。他者を批判すべき動機がないのに、遊びで叩いても仕方がない。

モルモン教やエホバの証人を勉強する前に、キリスト教ならキリスト教で勉強する事が澤山ある。神學史を一通りさらふだけでも相當の量がある。けれども、それ以前に、キリスト教を理解する爲には、西洋史を一通りさらふ必要がある。
カトリックの教義を理解する爲にも、ギリシャ哲學は知つておかなければならないし、中世史も知つてゐなければならない。また、プロテスタントの出現とその發展に絡めて、近代以降の思想史は押さへておく必要がある。

坪内祐三と福田和也の対談本『暴論』。

噂眞の岡留と話をした囘があつて、坪内が噂眞を「教條的でない左翼」だと褒めてゐる。三人が仲良くしてゐるのだけれども、Kirokuroなんかもこいつらと同じで、兔に角「教條的」ではないつてだけだ。
右とか左とか云ふのを嘲笑つて「俺は教條的ではないのだ」と威張つてゐる連中が、「人間」に興味を持つ――それはそれで結構だが、そこに嫌な臭みがある事(本當に嫌な臭みである)を、皆、忘れてはならないと思ふ。人間は臭い物だ。

ところで坪内祐三、自分は「古臭い」人間だ、としきりに言つてゐるのが氣になる。俺には坪内氏、ただ「おっさん臭い」だけのやうに見える。
坪内等がマイケル・ジャクソンをピーターパンシンドロームと絡めて語つてゐる。しかしあんたら……あなた逹自身はちやんと成熟してゐるのですか。相撲の話をする囘には、なんか紙相撲やつて遊んでゐたりするんだが。

和久峻三が噂眞を訴へたのを非難して、「法律の言葉」を罵る一同。しかし坪内祐三や福田和也が「文學者の言葉」を使つてゐるか、と言ふと、そんな事は全然ない。連中は飽くまで「ジャーナリストの言葉」で語つてゐる。
別に何の言葉で語らうが勝手と言へば勝手だが、連中に何處まで「自覺」があるか……。
ウェブでもさつぱり判つてゐない連中が威張つて人を嘲つてゐる。

「平和主義者」

平和な世界を希求するのは、人間が澤山の事柄に違ふ意見を持つてゐても互ひを許し合へる程、本質的に異らないやうになる事を――均質な意見しか持てなくなるやうになる事を――望んでゐるからである。
自分の意見の正しさを確信してゐる人間がゐる限り、人と人とは異見を對立させ續けるし、窮極的には爭ふ事になる。
「けれども、戦争だけは絶対にやっては行けないのだ」と平和主義者は主張する。「戦争は悲惨な結果をしかもたらさない」――。

そんな平和主義者だが、彼等は屡々「戦争さえしなければ何をやっても良いのだ」と勘違ひしてしまふ。「戦争さえしなければ、どんなに陰湿な個人攻撃を仕掛けても良い」――案外多くの平和主義者がこれを信じ、實踐してしまつてゐる。實際、被害を受けた人間だから言ふ。
平和主義者は「左翼」である。「左翼」だから彼等は氣に入らない人物を「右翼認定」する。「右翼認定」の次は「戦争主義者」認定である。さうして「左翼」は平和主義者の立場に戻つてくる。
「戦争主義者」は、平和主義者にとつて、最早人間とは認められない存在である。彼等の「戦争主義者」認定は、一個人や小集團による勝手な認定に過ぎないのだが、それが「勝手な認定である」と平和主義者は考へない。「客觀的な事實である」と思ひ込んでしまふ。はたから見れば身勝手な話だが、當人にはわからない、と云ふ事が「ある」のである。
「戦争主義者」に平和主義者は嫌がらせを始める。相手を人間と見てゐないから、人權無視の酷い嫌がらせが多い。鄙劣で執拗な嫌がらせをしながら、平和主義者は、自分は大變良い事をしてゐるのだ、と思ふ。全人類に成代つて、平和主義者は「戦争主義者」と鬪爭を繰廣げてゐる積りである。

氣に入らない人間を潰すべく嫌がらせを始める人が、ターゲットを「人間としてまともでない」と極附けて、自己を正當化するパターンである。――嫌がらせをする人間がまともでない人間であるのは明かだが、その手の人間は自分が何んな人間か、自覺がないものである。平和主義者も、自分がどんな人間であるか、反省する事がない。

「人を批判するのは、おかしな人間のする事である」と、多くの人が言ふ(これは間違ひであつて、批判は必要な事である)。ところが、「批判」を否定する人が「嫌がらせは立派な人間のする事である」と勘違ひしてゐたりする。「お前は批判をしている」と言つて陰濕な嫌がらせを仕掛ける人がウェブにはいつぱいゐる。斯うした勘違ひした人々が、困り者の「粘着アンチ」と化す。

http://twilog.org/nozakitakehide/date-100620/

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事