廣く世の中の事

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「性社会・文化史」を扱ふブログの記事。渋谷パルコ解体に際して、渋谷の町の変遷について述べてゐる。興味深い内容だが記述に誤があるので訂正されたい。

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記事には以下のやうにある。

「山手教会」の向かい側には「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地の奥には「飛龍閣」があった。
どちらも、1950年代から営業している「連れ込み旅館」だ。

これは誤。飛龍閣はちやんとした旅館。連れ込み旅館ではない。

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早稲田学報1962年4月号。早稲田学報は早稲田大学の校友会の雑誌。
表四に飛龍閣の広告が載つてゐる。
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「政府登録・国際観光旅館」「校友歓迎一割引」との事。

早稲田学報1964年5月号表四にも広告あり。
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「ご新婚に、ご家族連れに、観光に、御商用に――校友歓迎室料割引。三、四十名様に恰好の広間が御座います。どうぞ御会議、御会食等にも御利用下さい。」とある。連れ込み旅館なんて家族連れで行くわけがないし、ビジネスマンが会議や会食に利用したりするわけもない。

当方も早稲田の校友であるので、同じ校友の名誉(?)のためにも一往。

國際秩序と日本の改憲

安倍政權が改憲を目指してゐる事に對し、日本共産党やその他の左翼、或は「平和勢力」が反對の意見を表明してゐる。「安倍総理は日本を戦争ができる国にしようとしている」と云ふのだ。森友や加計の問題が絡んで、從來、自民党・安倍政權を支持してゐた多くの無黨派の人が自民党離れを起こしてゐるとの事。左翼のイメージ戰略がここにきて效力を發揮し始めてゐる。左翼諸氏にしてみれば滿足な事だらう。

だが、日本が「戦争ができる国」になる事の何が惡いのか。

私には、日本が「戦争ができる国」になるのはたいへん好ましい事のやうに思はれる。なぜなら、日本が「戦争ができる」やうになれば、日本は國際秩序の維持に貢獻できるやうになるからである。

改めて指摘するまでもなく、現代の地球に住む人類は、一つの國家の下に生きてゐるのではなく、多數の國家を作つて、國際社會を形成して、生活してゐる。國内の社會の秩序維持のためには警察と云ふ機關が存在し、法秩序を國民に強制してゐる。一方、國際社會の秩序維持のためには、統一された法秩序強制の機關は存在しない。
然るに、警察力によつて國民に法秩序を強制する國内法に對して、國際社會に參加する各國に法秩序を強制する國際法と云ふものが「ある」。ケルゼンによれば、法と云ふものは、違法行爲に對して制裁を課す、と云ふ事實を伴ふものである。

※ケルゼン『法と国家』(東京大学出版会)

ケルゼンは『法と国家』で國際法があり得るかと云ふ問題を論じて、國際法侵害の違法行爲に對する制裁のありやうについて檢討し、現實的に見て、戰爭に對しては戰爭で對抗するしかない、と指摘してゐる。「違法な戰爭」に對する「正しい戰爭」のありやなしやについては昔から議論になつてをり、現代の日本では「正しい戰爭なんてものは存在しない」と云ふのが社會的に「定説」化してゐるが、ケルゼンは結局、現代の國際社會が國際法の維持・實現の道具としての「正しい戰爭=正戰」を「認めてゐる」と述べてゐる。

今の時代、改めてケルゼンの議論は讀まれて良いものと思はれるので、閲覽された方々には同書を探し出してどうにかして讀んでいただきたいところだが、現在の國聯(國際聯合/UN)もケルゼンの言ふやうな「正戰」の考へ方を前提に安全保障體制を築いてゐるのであり、當然、アメリカもさうした考へ方に從つて國際社會の秩序維持のために動いてゐる。

中國は現在、南シナ海の大睦側から南方のはるか海上までの實效支配を目論み、「九段線」と稱するラインを設定してゐる。仲裁裁判所が「九段線」は無效だとの判決を下してゐるが、中國はその判決そのものを「違法かつ無效」と極附け、相變らず實效支配を續けてゐる。「国連海洋法条約は仲裁判決を強制執行する仕組みがない」(毎日新聞 2017年7月12日 https://mainichi.jp/articles/20170712/ddm/007/030/158000c 同志社大の坂元茂樹教授の指摘)

法の支配が國内法のみならず國際法にもあり得るか、と云ふのがケルゼンの論文でとりあげられた問題で、ケルゼンははつきり「正戦」を認めてゐるが、しかし今囘、國際社會の秩序を破つたのは、大國である中華人民共和國であつた。小國・力の弱い國が國際法の秩序を破つたのであれば、大國・多數の國が力で制裁を加へる事は容易である。が、中國と云ふ大きな國が、軍事力で、國際秩序を破つたのである。これに對してどのやうに制裁を課すべきかが問題になるが、どうにもやりやうがない。國際法の法秩序は破られたわけだ。
もちろん、斯うした事態――即ち、大國が實力を行使して國際法の秩序を破る事態――は想定されてをり、だからこそ國際法は法ではないと云ふ主張が強い説得力を持つてきた。

が、さうした「限界のある國際法」の下で、國際社會の秩序を維持していくには、やはり軍事力を用ゐる以外にない、と云ふのが現實なのである。現在は中國が軍事力で以て國際法破りをしてゐるが、これをアメリカは齒噛みしながら眺めてゐるのであり、齒噛みしてゐると言ふのは結局、苛立つてゐるのであつて、何かのきつかけがあればアメリカは中國相手でも「やる」のである。
さう云ふアメリカだからこそ、國際社會の秩序維持に、日本も力を貸せ、と言つてゐるのであつて、それゆゑ日本人が「憲法第九條」に固執して、平和主義の楯の後ろに隱れてゐる事は、齒痒い事でしかない。アメリカ人は「正戰」を信じてゐる國民であり、日本相手の戰爭も「正戰」であつたから戰つたのであつた。今その「正戰」で破つた相手國の日本が「正戰」の概念を否定してゐるのは、アメリカ人にとつては、憎むべき事であるとすら言つて良い。日本人平和主義者は無邪氣だから戰爭一般を否定してゐる「だけ」だと思つてゐるが、知らずしてアメリカ人を挑發してゐるのである。

自民党は昔から親米の立場をとり、アメリカべつたりの政策をとつてきた。改憲もまたアメリカからの要求に應へるものである。安倍政權は、私の見立てでは、さうしたアメリカ側からの要求にとことん應へる事を目指してをり、それによつて日本をアメリカから信頼される國にしようとしてゐる。
左翼が斯うした安倍政權のありやうに危機感を覺えてゐるのは、左翼がアメリカを「軍事大国」と見、アメリカを敵と看做してゐるからだ。反米的な左翼は、反米的な右翼とも結び附く。日本の社會の中に久しく存在する反米意識を背景に、安倍政權を「危險なファシスト」と極附け、レッテルを貼る戰術は、しかしそれだけでは效果を發揮しなかつた。そのためにマスコミやその他の活動家は連携して、森友やら加計やらの「スキャンダル」をでつち上げて、安倍總理下ろしの策動を進めたわけだ。

だが、たかだか學校程度の問題で以て、安倍政權を潰させるわけには行かない。日本を國際社會の秩序維持のために貢獻できる國にしようとしてゐる安倍政權を、さうさう安易に潰させてしまつては行けない。これで安倍政權が潰れて改憲がまた先延ばしされてしまつたら、それこそ日本國民の恥晒しである。

日本人は、何か一つの物にわーっと群がつて、喰ひ盡しては別の物に移つてまた食ひ盡して……と云ふのが大好きな國民である。兔に角「一齋に動く」事を好むから、少數派の立場がない。一方、「しやぶり盡して捨てる」のを惡い事と思はないから、多數派がした事は結局後に何も殘さない。
アメリカ人は少數派の人間の立場を尊重する。けれどもそれは結局多數派が安定多數で餘裕でゐられるからだ。自由の國アメリカの國民は大體自由の鬪士であり、自由を守る爲には戰はねばならない事もある、と信じてゐる。さう云ふ多數派がゐる中で反戰活動家が一人二人ゐたところで「放つておけ」と云ふ話になるのは當り前。餘裕があるのだ。
アメリカの二大政黨制は、絶對的な價値觀の對立に據るのでなく、自由を認める價値觀で完全に共通する國民が、自由の實現の方法で對立を生じてゐるだけだから、根本の部分で一貫してゐるので、問題なく成立してゐるものである。
日本は、歴史的に思想の混亂が非道く、國民の間で價値觀が共有されてゐない。だから二大政黨制になると、あつちの政黨とこつちの政黨とで完全に考へ方が對立し、政權が交替する度に國家として一貫しない行動を取る事になる。多數派が相對的な多數に過ぎないから少數派に對する憎惡も激しくなる。
國家の中でのみならず一つの政黨の中ですら思想的な對立が生じ得る。だから思想の事は放つておいて權力奪取だけの爲に一つに纏まつて政黨を作るなんて事も起り得る。が、さうなると、政黨の中での權力爭ひも發生し、政治的に目茶苦茶になる。
自民の政治を、外部から民主が非難してゐるが、別に外部から非難すべき理由は――殊に日本では全くなく、一つの政黨の中で爭つてゐても全くをかしくはない。實際、以前はさうした爭ひは自民党の内部に留まつてゐた。派閥抗爭は有名だつたが、自民が分裂した爲に党と党との對立・競爭に「變化」したやうに見えてゐる。それだけの話だ。
今の自民と民主は、嘗ての自民の派閥が政黨に名を變へただけに過ぎない。やつてゐる事は前と全く變らない。

「炎上」とか言ふもの

みんな安易に炎上炎上言過ぎ。

右翼の發言に左翼が群がるのは炎上か?

「惡い事をした、反省しました」「惡い事をした、ざまーみろっ」――これらの發言にそれぞれ大量のコメントが附いた。この時、どちらも「炎上」と云ふ事になるか否か。

「論理的でない、妥当でない批判」と云ふものが成立つのか何うか。
批判は常に論理的であり妥當であるべきである。非論理的で不當なのは非難と言つて區別すべきである。

――「批判」と「誹謗」が不用意に混同されてゐないか。

批判が集中する發言は、發言者に問題がある。
非難が集中する場合は、問題のある人間が何らかの惡意を持つて集つてゐる場合がある。

「炎上なる現象」を全て同列にあるものと看做して、「問題がある」「ない」と極附けても意味は無い。個別の發言についてのみ、問題の有る無しを論ずる事が出來る。
妥當な批判が多い場合には、批判された發言に問題がある、
不當な非難が多い場合、非難してゐる人に問題がある――傍から見て第三者はさう判斷するしかない。

自由に批判が出來ない社會は息苦しい。
不當な非難や人格攻撃によつて自由な批判が封殺される社會は大變息苦しい。

「批判が封じ込められ、誰からも文句を言われず『自由』に物を言える社会」を多くの人が望んでゐる。しかしそこは本當の意味で自由に物を言へる社會ではない。

「そもそも批判されるやうな惡い事をしない」「見えないところで惡い事をしてしまつてゐても、SNSなどで大つぴらに言はない」と云ふのは常識的な態度だ。

「惡い事をした人が叩かれる」「惡い事をしたと公言して炎上する」――當り前だ。

「批判は存在すべきでない」「炎上は防ぐべきだ」と云ふ主張を無條件に主張するのは寧ろ危險だ。

「惡い事をするのは惡いに決つてゐるし、惡い事をしたと自慢するのも惡いに決つてゐる。けれども惡い事をしたり言つたりした人を叩くのも惡い」のやうな「喧嘩兩成敗理論」位無責任で安直な主張はない。

宗教批判について

俺がエホバの証人叩き・モルモン教叩きをやらないのは、宗教に關する知識もさる事乍ら、そもそも自分を律する宗教心を持合せてゐないからだ。叩く事より先にすべき事がある、と思つてゐる。
だから俺は宗教批判をしない。

自分が何かの宗教を信じてゐて、その價値を押附けるに價すると信じて他の宗教・宗派を批判するなら、あり得る。けれども、何も信じてゐないで、宗教を信じてゐる人を叩くなら、それは遊びでしてゐるので、何の意味もない。遊びで宗教的な主張を叩くのは、意義のない事だ。
あなたは何かを信じてゐるか。その何かは信ずるに價するものか。他者を批判すべき動機がないのに、遊びで叩いても仕方がない。

モルモン教やエホバの証人を勉強する前に、キリスト教ならキリスト教で勉強する事が澤山ある。神學史を一通りさらふだけでも相當の量がある。けれども、それ以前に、キリスト教を理解する爲には、西洋史を一通りさらふ必要がある。
カトリックの教義を理解する爲にも、ギリシャ哲學は知つておかなければならないし、中世史も知つてゐなければならない。また、プロテスタントの出現とその發展に絡めて、近代以降の思想史は押さへておく必要がある。

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