廣く世の中の事

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生まれて數日の子供を目の前で強盜に殺された母親が亡くなつた、恐らくは自殺だらう、とのニュースをNHKで見た。歩道橋から飛降りて自殺を試みた後、轢き逃げされたらしいとの事だが、何とも氣の毒な話だとしか言ひやうがない。
續けてニュースで守屋前次官が保釋された事を報じてゐたが、これらのニュースは竝べられて報じられたのである。そして、明日の朝刊で、我々は恐らく株の問題や石油にかかる税金の問題が大きく扱はれてゐるのを見るだらう。
世間では、守屋氏の收賄事件の方が遙かに重大な問題である、と考へる人が多いに違ひない。無慘な母子の死は、家庭の悲劇である。守屋氏の事件は國家の問題だから家庭の問題よりも重大だ――多くの人が理性的にさう考へるのでないか。これらの事件をブログで採上げる人もゐるだらうが、話が盛上り議論になるのは收賄事件の方で、この殺人事件と母親自殺の件は精々感情的に殺人犯を非難する聲が上るくらゐだ。
しかし守屋氏よりも、この殺人犯の方が遙かに重い罪を犯したのである。守屋氏の罪は、たかだか收賄の罪でしかない。

政治は強盜があれば犯人を捕まへるやうに法律を作るし、殺人犯に對して適用できる刑罰を設定する事が出來る。今囘の強盜も、捕まれば裁判にかけられて、相應の罰を受ける事になる筈だ。ところが、それは子を失つた母にとつて救ひにならない。政治は、刑法を作つて、治安を守らうとする。けれども、現實に起きた事件の被害者に救ひを與へる事までは考へない。それが政治の性質で、それはそれで仕方がない。
かの母親に救ひを與へる事は可能か――それは決定的な囘答が出來ない質問で、例へば宗教が救ひを與へると言つても、母親は實際にその種の救ひを求めなかつた。恐らくは何の救ひも見出せなかつたから絶望したのだが、しかし、我々は此處に道徳の問題を見るのである。
道徳の問題と言ふと、即座に何が良い何が惡いと徳目の話をし始めたり、或は、道徳を論ずる事の目的を詮索したりと、常に胡散臭がられる。剩へ、全ての人間は政治的であると言出して、道徳の問題を政治の問題に還元しようとさへされ兼ねない。我々は政治の問題を論ずるのに慣れてゐるし、それで解決すべき問題を見出して、時として喜びをすら感じてゐる。
けれども、強盜に子供を殺された母親の事を考へるのは何うなのか。このやうな問題は、政治における「容易に方がつかない問題」とは、異る次元で方のつかない問題である。けれども、俺にしてみれば、このやうな道徳の問題こそが眞劍に考へねばならない問題である。政治問題なんてものは、實は決して眞劍に考へられない問題であつて、抽象的に議論する事が出來る問題であるに過ぎない。
我々は、飽くまで生延びなければならないし、それは社會として存續してゐなければならないから、政治は必要である。けれども、その政治には限界があるのであつて、政治は萬能でない。
治安さへ良ければそれで話が濟むかと言へば、さうではない。福祉政策が充實してゐれば世の中全て良くなるかと言へば、さうではない。どんなに政治が良くても、政策や法律で世の中は完全に蔽へはしない。其處では個人の生活が殘るのであり、個人の生活が殘る限り道徳の問題はなくならない。ならば眞劍に考へるべきは道徳の問題であり、我々は自分逹の身近の問題を強く意識しなければならない。それは飽くまで認識の問題で、我々は即座の解決を見出す事は必ずしも出來ない。だが、だからと言つて我々は目を逸らしてはならないのであつて、大衆の幸福やら平和やらを論じて安逸に流れてはならないのである。
何も悟りを開けとか道學者になれとかそんな事を言つてゐるのではないし、キリストみたいになれとも要求はしてゐない――殊に最後のは、人間には絶對に無理なのであつて、そんな事は現實には誰も出來る訣がない。が、考へる事は誰でも出來るのだし、我々は内省的にもなれる筈なのであつて、それは必要な事である。

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