正字正かな

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http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3-rakusho/archives/54725603.html

>歴史的仮名遣いとは、「正しい」日本語表記なのではなく、奈良平安時代の典型的な日本語であるという議論には説得力があると思われる。契沖も本居宣長も日記や手紙には歴史的仮名遣いなど正しく運用していないということである。歴史的仮名遣いとは、あくまでも日本の古典に向かい合う姿勢なのである。

歴史的かなづかひはそれ自體として正しい表記なのではない――この主張、今の世ではたいへんな説得力を持つらしいのである。

>もちろん、言語には、品格、格調、審美性は大切である。毒蝮の師匠みたいに、「きたないばばあ」とか「頭の悪そうなガキ」などという言葉を連発することは下品なことであり、本来は控えるべきなのである。こういうのは、談志師匠の悪い影響と思われる。

なるほど――

「正しい」と云ふ事と「美しい」「品格がある」と云ふ事とが、なぜか日本人の頭の中では直結してゐる。奇妙な話だが、これらを日本人は絶對に疑ふ事が出來ない。日本人ならではの思考囘路が、日本人の頭の中には出來てしまつてゐる。

我々は近代化以來、物事を「正しく」認識しようとつとめてきた。その結果、歴史的かなづかひはそれ自體として【正しい」ものではない、と云ふ認識に至つた。慶賀の至りである。にもかかはらず、依然として我々の頭の中で「正しい」事と「美しい」事とがイコールで結ばれてゐる。

日本人のものの見方によれば、美しい「から」正しいのであり、格調高い「から」正しいのである。

俺は毒蝮三太夫のファンでも立川談志の信者でもないから、彼らを擁護する義理もなく、またその必要もない。が、彼らが汚い言葉を使つてゐるから「正しくない」と非難され、「汚い言葉」の類が「正しくない言葉」である、と極附けられる樣を見れば、いささか抗議はしたいと思ふ。さう云ふ觀點から歴史的かなづかひが「正しくない」事を論じられても、困るのである。

我々は、歴史的かなづかひがそれ自體として「正しい」ものでない事を「知る」のは良い。けれども、それがあまりにも他人事のやうに語られるべきではないのである。我々は、自分の意志で、歴史的かなづかひを「正しい」と認めねばならない。我々の意志の問題である。「現代仮名遣」のやうな出たら目なでつち上げかなづかいを「正しい」と認めるのと、歴史的かなづかひのやうな素性も正しい・構造も見た目も美しいものを「正しい」と認めるのと、どちらが我々の精神の美しさを表すものか。我々は、この邊の事をよくよく反省しなければならないと思ふ。

我々は、我々が「正しい」と「認める」ものによつて、我々自身の覺悟を示すのだ、と云ふ事を、よくよく意識してをらねばならないのである。

Seikana.org引繼ぎました

イメージ 1

http://seikana.org/

押井さん管轄だつたseikana.orgの管理を引繼ぎました。現在用途を模索中。何かアイデアがあつたら教へて下さいね。

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/12340

「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
http://yuki-chika.hatenadiary.jp/entry/2015/01/15/040433

シャルリー・エブドの諷刺畫が何うとか、言論の自由が斯うとかいつた話には觸れない。
問題は高島俊男。高島の撒き散らす誤つた言説が本當にあちこちに酷い惡影響を與へてゐて、これは本當に困つた事だと思ふ。

「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。(『漢字と日本人』)

高島俊男は阿呆な人間なので、我々の御先祖樣がなぜ同じ「とる」を漢字で書き分けようとしたのか、それを考へない。考へないで、「書分けようとする人間」を脅す事で、自分の好みを他人に押附けようとする。

わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな人たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。

「わたしのような知識のある者」と言つてゐる高島がこんな事を言へば、高島自身が「おろかな人たちをおどかす人間」になる。それが高島にはわからない。
高島自身の論理により高島が有害である事は確定する。それではまづい筈だが、高島は氣にしない。結果として自分の主張が押附けられればそれでいいからである。大抵の讀者は「知識がある」と云ふ事だけを氣にし、理窟を氣にしない。高島は讀者をなめてゐるのである。
閑話休題。

昔の日本人はなぜ漢字の訓讀みなんてものを考へたか。それが便利だつたからに相違ない。便宜である。しかしその結果、あまりにも貧弱だつた日本語の語彙は擴張される事となつた。我々はその意義を認めるべきである。
我々の先人は訓讀みの效能を認め、異る概念をしつかり書分けるやうに努めてきた。それが「権威主義」に繋がつたとしても、副作用であるに過ぎない。
日本語の「とる」は「取」「採」「捕」「執」「摂」「撮」などの漢字の「訓讀み」とされた。その結果、從來曖昧に考へられてゐた「とる」なる語は、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などの異るニュアンスの概念を含むものと初めて日本人に理解された。「とる」一本槍で何でもやつつけてきた日本人は、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などの漢字を知る事で、異る概念を區別する事を學び、精密に考へる事を學んだ。これは進歩である。

――高島俊男はさうした進歩を兔に角全て無に歸したいと願つてゐる。なぜか。いいかげんに考へるのは樂だからである。
樂な事が現代の日本人は大好きである。今の時代、何でも「樂になれ」と言へば受ける――樂に書く事を高島は現代の日本人に説く。高島は人氣を得たくて、受けを狙つて「樂になれ」と言つてゐる。冗談ではない。個人の受け狙ひなんかのために、先人の智慧が否定されてはたまらない。

自分は歴史的かなづかひの支持者であると高島は言つてゐる。しかし週刊文春の連載でも高島は歴史的かなづかひで書いた事がなかつた。
高島は歴史的かなづかひ派にもいい顏をして見せてゐるが、實は「現代仮名遣い」派なのでないか――高島は國語改革を肯定してゐるのでないか。私は疑つてゐる。

ちなみに、漢字をかな書きする高島俊男の書き方は、原稿の水増しである。「量る」を「はかる」と書けば一文字原稿を水増しできる。「私」を「わたし」と書けば二文字水増しできる。誠實な書き手ならお金を貰つて書く原稿は壓縮して書くものだ。
正字正かな攻撃五つのパターンと云ふネタを考へた。

・旧漢字は読みづらいです。だから旧仮名遣いはやめてください。
・正字正かな信者は人間のクズ。
・現代仮名遣いはすでに定着している。
・×の正字体を出してみろ。

あと何かあるかな。

歴史的假名遣について

「現代仮名遣」が、「日本語の表記を簡單にしたら、日本語教育は樂になり、日本人の知的レヴェルも上がるに違ひない」と云ふだけの理由で主張されたものである事は、どれだけの人が理解してゐるだらうか。ゆとり教育を實施した論理と同じ理由だよ。

「現代仮名遣」を支持するのは、自分はゆとりだと言つてゐるのと同じ。

歴史的假名遣と言ふと、何も知らない人は必ず「てふてふ」と言ふが、それは蝶々の字音假名遣。
歴史的假名遣と一括りに言ふけれども、日本語には「體言」「助詞」「用言の語幹」「用言の活用語尾と助動詞」の區別があるから、それぞれの假名遣も區別しなければならない。
・助詞に就いては――「は」「へ」「を」が「現代仮名遣い」でも歴史的假名遣のまゝ殘つてゐる。これを不徹底と見るのが正しい。
・用言の活用語尾と助動詞について――歴史的假名遣は單純に文法の規則に基いて定めてゐる。だから大變合理的で解り易い。「現代仮名遣」は、「發音通り」が原則だが、用言・助動詞絡みでは發音通りにすると支離滅裂になるから、歴史的假名遣の法則をつぎはぎして胡麻かしてゐる。非常に解り辛い。

歴史的假名遣は、それ以前に無意識に書かれてゐた書き言葉を、語彙の新知識と共に文法の新知識に基いて整理したものだ。だから、從來の假名遣ひとは完全に連續してゐる。「現代仮名遣」は、書き言葉を話し言葉の立場から見て改變を加へようと云ふもので、書き言葉の連續性を破壞する事が目的である。
「歴史的假名遣を認められない、それ以前の自由な書き方なら認められる」と言ふ人がゐるけれども、嘘である。なぜなら、その人は、その大好きな筈の「自由な書き方」とやらを使はず、「現代仮名遣い」で書き續けてゐるからだ。ただの當てつけを言つてゐるに過ぎない。

明治期に歐米から近代文明が流入して、それで日本は近代化が實現した。けれども日本語の表記――假名遣――だけは江戸時代、日本人自身の手で近代化が試みられたのであり、日本人の數少い自發的な近代化の試みとして大變貴重である。
日本語を表音化せよとの主張は、慥かに古くからある。けれどもそれは、日本語それ自體の性質を尊重して言出された事ではない。ただ「進んだ歐米では漢字が使はれてゐない、ローマ字が使はれてゐる」と云ふだけの理由で言出された事だ。ただの劣等感が表音主義の原因である。
「現代仮名遣」の思想的源流に「表音的な書き方をする歐米諸國に比べて、漢字を使ふ日本語は遲れてゐる、日本語は駄目だ」と云ふ劣等感がある事を、今の人は自覺した方がいい。そんな事もわからないで、樂天が社内公用語を英語にすると云ふのを嗤つたりしても仕方がない。

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