|
【一里塚と里程】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
甲府以西北巨摩地方には、一里塚の遺構はなく昭和五十一年諏訪市では同市神戸に一里塚の碑石のみを建設した。しかし富士見町御射山神戸区には、江戸時代の遺構をよく保存した一里塚がある。他山の石ながら、参考資料に加えた。
その碑文に
一里塚、江戸日本橋ヨリ下諏訪宿ニ至ル、五十三里余ノ道ヲ甲州道中卜云イ、
慶長十五年開通サレ、同時二日本橋ヲ基点トシテ、一里毎ニ道ノ両側方五間
ノ地ヲ占メ、上ニ塚ヲ築キ、榎カ欅ヲ植エタ。旅人ハ木陰ニ足ヲ投ケ出シテ
休ミ、握飯ヲ食シ、次ノ塚ヲ目当ニ進ンダ。此塚ハ四十八里塚デ、東塚ハ榎
デアッタガ、明治二十年代枯レ、西塚ハ当時ノママノ欅デ県内唯一ノモノ、
県ノ史跡ニ指定サレテイル。
昭和四十四年四月八日 富士見町
御射山神戸区
細川隼人書
山梨県では明治末菓、県庁を基点として県道には、一里ごとに分杭という高さ六尺幅一尺くらいの角柱に、県庁を距る何里何町と大書した標柱が礎石の上に建てられ、道行く人に親しまれた。ところが昭和十七年太平洋戦苛烈となり、国内横密保持の建前から、これを撤去した。また、駅ホームにあった各駅間のキロ程案内板も同時に抹消された。
白州町地内の里程標は、三吹ドライブインの辺り、前沢チビッコ広場、下教来石の明治天皇田植御高覧碑辺りの三箇所だという。
|