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近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
甲州街道 近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)の一つで、江戸日本橋から信州下諏訪に至る駅路である。はじめは甲州海道の文字を使用したが、山国通過の道筋であることから、正徳六年(一七一六)甲州道中と改称された。道中は三三宿といわれ、時に改廃分合が行なわれた。
甲府から武川筋へは、竜王赤坂を経て、下今井、宇津谷、韮崎と進み北上して台ケ原に達する。道幅は六尺〜九尺である。峡北地域では韮崎、台ケ原、下教来石に宿場がおかれ、教来石宿から蔦木、金沢、上諏訪を経て下諏訪で中山道に合している。

【宿駅】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
 宿駅は伝馬制によって馬士二五人、馬二五匹の常備が義務づけられ、参勤交代の大名通行や御茶壷道中の場合などには助郷や加宿制が利用された。宿場の機能を果すために、本陣、脇本陣が施設され、問屋、年寄、馬差などの諸役が置かれた。本陣は大名または高官の宿舎で宿中の顔役であり、重い責任と強い権力をもっており、薄から苗字帯刀を許され、武士格の扱いを受ける例もあった。脇本陣は大名の供人が多く本陣のみに宿泊しかねる場合に予備にあてる宿泊所である。問屋は伝馬所、会所で今の通運会社や駅のような仕事をしており、荷物が馬士によって送られてくると、賃銭を定めて、次の宿場へ送らせたり、旅人のために人足や馬や駕篭を心配してやった。年寄は村方から選任され、名主や問屋の業務を助けた。馬差は宿駅において人馬割当など問屋職の一部を担当した。大名通過の時は、村方三役を筆頭に、組頭まで人馬や宿の手配をするなど、宿場とはいいながら、村方の勤めも多かった、立場は宿駅の出入口にあり、旅人、かごかき、人足、伝馬などが休息する掛茶屋のことである。

【問屋 甲州道中・浅間山大噴火・お茶壺道中】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
 問屋は無給であったが、その代り商人の荷物から、一駄につき五文づつの口銭を取って役料に当てた。年間千五駄であるから、七貫五百文の口銭を得たことになる。馬差は馬匹配備の要職のため、壱ケ年籾壱石五斗・麦壱石五斗に給金弐両であった。
 甲州道中も当初は、甲府以西は人馬各二十五を備えた宿場で、諏訪・高遠・飯田三藩の通路であつたほか大掛りの通行は稀れであったから、宿民たちは農耕に従事できた。
 ところが天明三年(一七三八)七月、浅間山の大噴火によって、中山道が閉鎖となり、いきおい甲州道中を利用するようになり、従来の型は破られ、俄然宿駅は目の回るような日々が到来する。
加えて延宝九年(一六八一)六月、「お茶壺道中」が、大名行列なみに通行し前後二回も田中神社を宿舎としたことなど、考え合わせると実に過重な負担が課せられた。

【甲州道中 宿場の混迷と対策 助郷制度】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
「天明六年台ケ原宿書上」によると、天明四年分の人馬出動数は、人足三〇四七人、馬三九三五疋、そのうち助郷人足二四六人、馬一四三疋で、翌年になると倍の課役となり、天明五年分の中馬荷物の通過数は一八四〇駄を示し、宿民はこれが対応に苦慮した。
 この窮状に台ケ原宿ではついに音を上げて、隣接の三吹村に加宿郷の訴訟をして認められ、天明五年では六分の一(御定人馬各二五)を負担し、四人四疋を台ケ原宿に駐在させ、武家荷物の運搬では、上りの場合は蔦木宿まで継立を分担させたので、三吹村から苦情が出て、助郷だけは免除となった。これをカバーするため、定助郷のほか、臨時夫役として、大助郷に白須・横手・日野・片嵐の四ケ村が指定された。
 道中も貨客の利用者増加に伴ない、寛政八年(一七九六) には、宮脇・山高・柳沢・牧原・新奥・黒沢の六ケ村が追加され、さらに文化三年(一入〇六)には、上記六ケ村が過重であるとして、七里岩台上の大八田・塚川・長坂上条・渋沢の四ケ村を代助郷とした。
 文化三年(一七四六)には、再度三吹村が加宿負担に耐えかね、四人四疋のうち、三人三疋を御免となり、この分を中丸村と上黒沢村・夏秋村・長坂下条が負担をした。中丸村と上黒沢村が一人一疋、夏秋村とが一人一疋の割合である。

【韮崎宿から蔦木領での継立方式の成立】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
 韮崎宿から蔦木領での継立方式の成立は寛文七年からである。
次の文書は寛文七年の蔦木・教釆石・台ケ原三宿継送手形である。
一 御武士荷物、如先競蔦木才台ケ原へ三十日次申候
一 商人荷物、如先鋭蔦木才教釆石へ三十日次申候
一 御朱印御伝馬之儀ハ、教来石望之通蔦木より教来石へ三十日次申候
右之趣双方致和談御訴訟中上候、自今己後六ケ敷義於中上候ニハ、如何様之曲事
にも可被仰付候、為後日之仇一札指ケ申候
  寛文七年末ノ二月四日
                       諏訪因幡守領分蔦木町
                           問屋 久右衛門㊞
                           同  源右衛門㊞
                           庄屋 市左衛門㊞
  御奉行様

【台ヶ原宿場 抜粋】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
*高遠屋
*鈴木昇  日向富屋
*中山正昭 問屋
小池たまき 伊勢屋
小池結城  本陣
北原新次  七賢 行在所
菊原唯雄  松坂屋
細田元   松田屋
細田董治  富屋
鈴木オリン 天満屋
宮川氏   脇本陣
小野敏明  丸屋
古屋金二  大和屋
森川茂子  笹尾屋
細田正雄  沢田屋

【甲州道中 継立】
 <差上ケ申手形之事>

御朱印御伝馬・商人荷物共ニ三十日蔦木より教来石ニ而請取申、朔日才廿五日まてハ台原へ次申候、廿六日才晦日迄教来石より韮崎江次申候御事

御朱印御伝馬・武士御荷物・商人荷共ニ毎月廿六日才晦日迄ハ台ケ原より教来石江請取、蔦木江次申候御事右之趣致和談、自今己後申分無御座候、若六ケ敷中上侯ハバ何様之曲事こも可被仰付候、為後日一札持上ケ申候
 寛文七年末ノ二月四日
                          甲州教来石町
                           問屋 八郎右衛門㊞
                            同  理右衛門㊞
                           庄屋 与一左衛門㊞
  御奉行様

【甲州道中 継立 天明三年浅間山噴火以降】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
当時は御朱印御伝馬・商人荷物・武士荷物の三つに分けた。
御朱印御伝馬は下りの場合、
蔦木から教来石へと継ぎ、一日から二五日までは台ケ原・韮崎と継ぐ、二六日から晦日までほ台ケ原を通過して、韮崎へと送る。
上りの場合は、
韮崎宿からは台ケ原へと継ぎ、一日から二五日までは、台ケ原から蔦木宿まで三吹まで送り、二六日から晦日までは教来石・蔦木と継ぐ。
台ケ原馬は二六日から教来石宿への継立に用いた、商人荷物も御朱印御伝馬の場合と同様な継立方法をとった。武士荷物は下りの場合は、蔦木から台ケ原・韮崎と継立て、上りの場合は前二者と同じである。
 こうした継立方法が生じた理由は、蔦木から台ケ原へ送る場合が多く、教来宿が、商人荷物は以前から、蔦木より教来石へ付け送った例をもって訴へ、そのように定めたという。


【宿駅の過重負担を緩和】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
 宿駅の過重負担を緩和するため、継立人馬賃銭の割増があった。寛政十一年には五街道の賃銭を一割五分増としたが、文久四年二月には教来石・台ケ原・韮崎三宿役人惣代教来石宿問屋九郎須(河西)及び三宿助郷惣代鳥原村組頭伴右衛門連署にて、道中奉行宛に五割増御定賃銭を蔽い出ている。そしてようやく慶応三年十月に仕法改正となった。

【台ケ原・教来石の両宿、天明三年十一月道中奉行宛】
 これとは別に台ケ原・教釆石の両宿は、天明三年十一月道中奉行宛に
「当地は寒冷僻地で、農業、道路も悪しく難渋しているので、
宿場助成のため壱宿金三百両づつ、
拾ケ年賦で御拝借願いたい」
と願い出ている。結果は文献乏しく判明しないが、住民たちの苦衷がうかがえる。

【甲州道中 先触】
 官役人や身分のある人が道中するときは、前もって街道の宿駅に人馬の継立を準備させるために「先触」を出している。
  先触
   覚
一、宿駕籠  壱挺 此人足弐人
一、分持人足       壱人
右者此度腰巻権少輔
御年礼為
御目見来廿五日韮崎宿出立罷越供
依之書面之人足被差出 御定之賃
銭請取渡船止宿等ニ至迄差支無之
様取斗可給供 以上
   甲州腰巻権少輔内
         柴田兵助
 宿々問屋
     中
   年寄
追而申入候此先触内藤新宿ニ止置
自分方へ被相渡可甲候
            以上
 これは韮崎の一橋陣屋の代官奥田三右衛門の手代が出したもので、この先触は韮崎の若宮八幡宮の神主が御年礼御目見のため、来る十二月二十五日出発するので、書面の人足を差出してくれるよう、また規定の賃銭はうけ取り、渡船や旅宿にも手落ちの無いようお願いするというものである。宿駕寵は各街道宿駅間を往来するための駕籠で、分持は荷物などを分担して持つ人足のことである。
 また末尾にあるのは、この先触が次つぎと宿駅を継ぎ立って内薪新宿に着いたら、そこに止め置いて自分方に返してもらいたいと述べている。

山梨県、近世以前の古道(『白州町誌』)一部加筆
 甲州は山岳重畳として山国であったから、他国との交通は不便であった。古道としては九筋があって、武田時代に整備されたというが、定かなことはわからない。甲斐国志に「本州九筋ヨリ他州へ達スル道路九条アリ、皆路首ヲ酒折二起ス、古クヨリ公庁ノアリシ所ナラン」とあるが、時代の推移により中心地に集中する道路もおのずと変わり、岡部・一宮・八代・石和時代から、のちには甲府が政治・文化の中心となるころには、古道の改廃もあった。

穂坂路(信州口)
敷島町千塚から穂坂に至る道であるところから、路名となった。双葉町(現甲斐市)志田・宇津谷・上野山・宮窪・三之蔵(韮崎市)を経て、小笠原・神取(北杜市明野町)・江草・小尾・黒森(須玉町)から信州峠を越えて川上に達する。または信州口ともいう。

逸見路
穂坂路三之蔵で分岐して、駒井、中条、小田川(韮崎市)に至り、小倉を過ぎて江草根古屋(須玉町)に行く。
【平沢口】
また穴平から津金(須玉町)、浅川、樫山(高根町)から佐久平に達する。この道を平沢口という。
【信州西河路】
小田川から分かれ穴山の車坂を登って日野原を通り、花水坂から台ケ原に出て信州に通ずる道を信州西河路ともいう。  
【花水坂】
花水坂については『甲斐国志』は次のように記している。
 日野ヨリ台ガ原へ出ゾル数十町ノ険坂ナリ(或は云う日野坂)白砂山ノ麓ニテ釜無川・尾白川・大深沢三水会同ノ処ヲ花水卜云フ。古時ノ信州路ナリ、若神子ヨリ渋沢・台ガ原へ逓送セリト云フ。白砂山ハ七里岩上ニ秀出シテ頂ニ古松欝然タリ……
 山水石岩最モ風致アリ昔時ハ岩上ニ亭子ヲ構へ山桜数珠ヲ植ユ、花時ニハ曼欄トシテ映ズ、困テ花水ノ名アリトナソ。武河筋白洲ノ松原へモ遠カラズ河ヲ隔テテ相対ス。古人云ク本州東南ノ方ニ富士山ノ陰岳ヲ望ム所在美ナリト雖モ所望処ニヨリ山容勝劣ナキヲ得ズ、所謂花水・御坂・万沢等最モ世ニ称スル処ナリ。(山梨県富士山三景)
【『織田軍記』】
天正壬午四月二日信長大河原ニ御宿陣、三日大河原ヲ立テ五町許リ出レバ富士山能ク顕ハル、御見物ナリ各驚目、夫ヨリ新府へ入ラセラルト有り。

【原道】
韮崎から新府を過ぎ、穴山・日野原に出る諏訪上道で、日野原から前記の花水・台ケ原に進むか、渋沢・小渕沢、信州蔦木に達する道筋が利用された。西河路に対して台地上を信州に至るので原路と呼んだのである。

【五街道 甲州街道、原路・西河路】
 徳川家康は慶長五年関ケ原の戦のあと、東海、東山、奥州、日光、甲州の五街道を設けて、各街道に伝馬制をしいた。しかしこの甲州街道は降雨のために釜無川、尾白川、濁川などの出水によって、たびたび通行が不能となって、その機能を十分果すことができなかった。そのため出水時に脇往還の役割をもつ原路が重要視された。『甲斐国志』には次のように記されている。
 原路卜云ハ韮崎宿ヨリ新府墟ノ下ヲ過キ穴山村ニ係り日野ノ原ニ会ス、中世韮崎、渋沢、小渕沢、信州蔦木宿卜鳴行スル事ニナリ、宝暦中駅宿ヨリ支リ訟論ニ依り「西河路」ニ水アリタ往還ナシ難キ時ハ台原宿ハ渋沢ニ出テ、教来石宿ハ小渕沢ニ出テ駅伝可致趣ニ公裁定ルト云、
 このように、「西河路」すなわち甲州街道が出水のため一部通行ができない場合は、台ケ原宿は渋沢へ、教来石宿は小渕沢へ継立てることが公に認められた。しかし小渕沢などが伝馬役の負担が重いためその免除を願いでて、宝暦以後は小渕沢の宿駅業務は教来石宿が出向いて行なうことになった。このように甲州街道が開かれてからも原路に相当の貨客の通行があったものと思われる。

【信州路 白須松原・六本松・白洲ノ古松】
駿河の清水、興津、蒲原、富士、鰍沢、韮崎の順路で、台ケ原、教来石、蔦木に至る道であるが、この道筋のうち韮崎以北は、釜無川やその支流がしばしば氾濫して橋梁を流失し、沿岸は荒廃していたので、通路として古くは河内路より大井郷に出て、西郡路から甘利山の麓を清哲、宇波円井、武川村(町)の黒沢、山高、柳沢を経て、横手本村(いま「閑の桜」の木のあるところ辺に関所があったという)、菅原村(現白州町)の竹宇・前沢 (田沢)・鳳来村(現白州町)鳥原・教釆石・山口に至ったものである。
 国志に「白須ノ松原・白須・鳥原両村ノ間釜無川原ニ在り。濁川其中ヲ流ル、松樹密生シテ稲麻ノ如ク、皆直幹雲ヲ払フ公林ナリ、白砂清麗ニシテ、海浜ヲ望ム光景アリ。白州ノ名虚シカラズ、甚賞翫スベシ。松茸・麦茸(シュロ)多シ、其内ニ「一株六幹ニシテ頗ル奇ナル松アリ、是ヲ六本松」卜呼ブ、又萩乾場卜云フ所ニ、「白州ノ古松」卜称スル古木アリ」 とあり、延々一里におよぶ松林は、道行く人の旅情を慰めた。

【白須松原 征東将軍宗艮親王】
 南北朝建武の昔、正平七年(一三五二)征東将軍宗艮親王は、遠州井伊谷の城より、信濃に向こう途次、しばしこの松原に憩われた。そのときの御歌に
 かりそめのゆきかひぢとは ききしかど いざやしらすに まつひともなし(李歌集)
 
そのほか
 八千代まで ともにしらすのひとつ松 へぬる齢を いのりすみつる (題しらず)
 今しばししばしと 日をやくらさまじ 夏もしらすの 松の下道(題しらず)

【白須松原 明治天皇ご巡幸】
とあり、また、明治十三年六月、明治天皇ご巡幸の砌、しばらく御車をとどめさせ、風色をご観賞、松茸の産することを聞かされ、その翌年より五ケ年間、待従職富小路敬直らを、お差し遣わし採取されたという。
さしもの名林も、昭和十六年伐採され、子供広場や宅地・畑と変わり、現在は「白須松林跡」の碑石によって、往古を偲ぶのみである。

【棒道 ぼうみち】
八ヶ岳の西麓を直線的に、大門嶺口(長野県)に達する上・中・下三本の軍用道路がある。信玄のころ信濃に進入行路として、直線コースが開かれた。
* 上の棒道 穴山・若神子新町・渋沢・大八田・白井沢・小荒間に進み、信州立沢より大門峠を越えて、東山道長
窪駅に達するもの。
* 中の棒道 大八田・大井ケ森から信州葛窪・乙事・立沢に合するもの。
* 下の棒道 小渕沢から信州田端・下蔦木に至るもの。

白州町の著名人

「南十字星の下に」故古屋五郎氏著

まえがき

◇本書は、昭和二十七年七月未から、翌二十八年一月まで、約半歳にわたり、当時私の経営発行していた山梨毎日新聞に連載、異常の反響を呼んだ“南九陸軍病院事件の真相"である。驚くべきこの事件は、著者が発表を強く拒んできたため、その真相は、極く少数の人だけしか知らなかったのであるが、その頃、炎暑の中を県境菅原村(現白州町)に日参して〃大義をつらぬけ〃と説く私の執念と、経営難渋の山毎に対する著者の、深い友情から、事件発生後十年にして、やっと新聞発表となったものである。



著者の〃序に代えて〃にあるように、この〃悲涙の手記〃は、すでに銃殺刑を覚悟していた著者が、臨時軍法会議に臨むに先立ち、事件の顛未を克明に書き綴り、これをカポツク綿の枕に縫いこみ、内地後送の看護婦野沢久子に托し、当時東京都中野区江古田に住む姉、下茂よね子宛密送したものだが、下茂夫妻は間もなく甲府市百石町に疎開したため、二十年七月六日の空襲で、一切の荷物と共に灰燐に帰したと信じこまれていた。

著者は、脳裡にやきつけられた記憶と、二通の判決書を頼りに筆を執りはじめたところ、奇しくも空襲をまぬがれた江古田の下茂邸から、この運命の手記と、血で綴られた看護婦野沢久子の手記とが発見されたのである。(註・手記発見の詳細は本書末尾〃悲涙の手記"参照)従って、その記述は極めて正鵠を期し得たが、著者の希望に従い、氏名は一部匿者を用い、住所に伏字を使った。また記録の生々しさを保つため、新聞連載の形のまま採録し、且つ文意を害わないため、手記そのままに制限外漢字も用いた。ともに諒とされたい。



新聞発表時から、ざらに十年の歳月が流れた。著者の、上梓辞退の心境は今も変らぬようであるが、混濁の世情〃正気歌〃を求むる今より急なきを説き、ここに上梓の運びに至った。されば一切の責任は私にある。



軍という無情にして巨大な組織、統帥権という絶対の権力をほしいままにして、いわゆるやから軍幹部なるものが、いかに理不尽の限りをつくしたか、そうした輩の得手勝手な感情のままに幾多有為の日本人が死んでいったかそれは又、銃後国民の純真素朴な祈りを車靴で躁彌したものであったがそれらは本書の、いま問うところではない。そのような一指だに触れ得ない〃絶対の権力〃に立ち同って、道義一本を貫いた男の〃誠魂〃を写し、日本の地下水が漠々としてつきない実相を伝え、そしてこれによって、虚偽と卑法の充ち満ちた〃畜生道の地球〃に警世の一打が与えられれば、幸いである。



◇…昭和十六年六月三十日、身延山久遠寺で開かれた郡協力会議の席上に翼賛会部員として私も居た。欝蒼たる老杉の下を、独り、黙々と歩いてゆく著者の後姿をいまも覚えている。著者出征の後、刻々悪化する戦況の中で、壮年団活動もまた凄壮昧を加へ、観念右翼の一派と対決する場面も織りまぜて、悲壮な毎日を送った。その記録は、正しく本書の半面をなすものと思い〃銃後の祈り〃として一篇にまとめ、ざらに〃姉への手紙〃および〃戦犯釈放運動"の二篇とともに補遺を企てたが、最後に至ってそれは削除した。凡人の修飾が原文の美しさと昧を傷つけることを慎まれたからである。



〃南十字星の下に〃を連載した山毎は昭和三十一年労資不調の故に休刊となった。私は其の責任者として、顧みて、繊悦に誰えないのであるが、著者がこれに寄せられたあつき友情を今も忘れることはできない。あれほど悩み、発表を拒み続けた著者が、新聞連載に踏み切ったのは、白分の立場を殺して友人を援けようとした配慮のあったことを、私はよく知っている。本書編集にあたり、私は県立図書館に通い、十年前の山毎綴り込みをひろげ、原稿紙に写し乍らいく度か号泣した。それは容易ならぬ南九事件から受けた感動によるものだけ、同時にまたこの色あせた新聞綴り込みに、にじんでいる事のにおいに泣けたのである。不幸山毎は発行の歩みを止めたけれど、ざきに刊行した名取忠彦氏「」敗戦以後」と、中沢春雨氏著「人生横丁」とともに、三つの名著をのこし、復刊十年の足跡を飾った。謹んで師友の恩誼を謝するとともに、多数山毎関係者に報告する。



本書上梓にあたり御力添を頂いた安岡正篤、後藤文夫、名取忠彦、天野久、石井集貞諸先生に謹んで感謝の意を捧ぐるとともに、献身協力を賜った心友大村栄一、佐藤森三両兄に深甚の敬意を表する次第である。昭和三十九年七月山田扇三(氏)



本書に寄せて  名取忠彦



昭和十五年の秋・大政翼賛会の県支部が発足した時、支部長代行機関として常務委員会(十人一が置かれ・古屋五郎君はその一員であった。私も委員の一人であったので初めて同君と相識ることとなったが、当時無名の一青年が一躍新衛運動の先頭に立ったというので古屋君は全県下の注目浴びた。しかし御当人は晴れがましい場面を好まぬらしく、いつも慎み深く会議に列していた。ただそのがっちりした身体からは、いざとなればテコで動かぬ強靭さが感じ取れた。若いのに物静かな人で余計な口をきかない。相対していると何か大きな木の根っこと取組んでいるようで、その頃流行の新体制理論など此の人の前では歯が立たないといった感じであった。黙々郷土の魂となり桓国の人柱となることが古屋君の所属した壮年団の精神であり、同君はそのままの心で翼賛会の人となったのである。

やがて私と古屋君は翼賛会の部長として相たずさえて県下の運動をすすめることとなったが私はひそかにこの古屋君などを骨組みとした県下の青壮年の組織のことを構想しつつあった。

その頃の或る日、この手記にもあるように身延山での協力会議の席から古屋君は出征したのである。「召されました。行って参ります」と書いた紙片を古屋君は私の前にそっと置く。私も何か書いて渡す。うなずいた古屋君はなにげなく立ってそのまま議場から去って行った。静かなその姿がまざまざと思い出ざれる。極秘裡に大動員をかけていた軍部は沈黙の応召を求めていた。私たちは激情を押えてなにごとも無かったように別れねばならなかったのだ。

県下に翼賛壮年団を組織すべきときが来た。私は県下の同志三十人ほどに組織世話人となることを委嘱したが、その中に古屋五郎君の名前もあった。出征中とはいえ古屋君をのぞいた壮年団は物足りないと考えたからである。

翼壮はかくして組織され戦時中活発に行動したが、私は古屋君が常に口にした郷土の魂、橡の下の力持ちの精神を翼壮の運営の中に取入れることを忘れなかった。黙っていたが古屋君は立派な教えを残して戦地へ行ったのだ。

戦争もいよいよ最終段階に入った頃、古屋君について妙な噂が流れた。何かまずい事があって重営倉にいるというのである。激戦の最中で真相を探るすべもないままに、何となく割切れない、困り切った感じでこの噂を受取るより外はなかった。

まもなく惨たる敗戦、てんやわんやの二、三年が過ぎた。或る日、旭村に住む高田という青年が私の宅へ来て、「軍法会議判決」と書かれた文書を示し、「日本の軍部がこうした文献を残して呉れたのは不思議です。ゆっくりお読み下さい」と一言って去った。

この手記にも出て来る古屋兵長への判決文である。読んで、私はすべてに納得がいった。戦時中、古屋君についてチラと抱いた不安感は一瞬にして消えた。雲があると思ったのは嘘で、空は初めからカラリと晴れていたのだ。大きな感動と共に私はこの驚異の判決文を繰り返し、繰り返し読んだ。そして丁寧に机の引出しに納めたが、その後も時々それを取り出してじっと読みふける。あれから十五年、いく度繰り返して読んでも、その都度新しい感激が湧くのである。

事件の真相は今度の手記発表によって極めて明白となった。正義と真実を貫ぬこうとして生死を超越し、度胸を掘え切った男がどんなことをやるか、どんなに凄まじい事態がおこるか、が淡々として記述されている。この手記で古屋君は、俺はこんな入問だと語っているのではない。かくすれはかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂のようなものがまだ存在していることを身を以って示しただけである。軍は亡びたけれど、日本人はまだ生きていたのである。

或る時、私の息子が、古屋五郎さんに初めてお目にかかるのだけれど、どういう人ですかと問うた。私は、

手が白く且つ大なりき非凡なる 人といはるる男に会ひしに

という啄木の歌を示して、古屋さんとは斯ういう人だよ、と答えたことがある。

この書の序を乞われたとき、私は古屋君という人をどういう表現で紹介すればよいのか思いあぐねて、初対面以来の同君と私との関係を述べて昆た。しかし、この人と、この人のやったことは到底筆舌につくし得るようななまやさしいものではない。私はこの書が魂の底からの慟哭とともに読まれるであろうことを信じて疑わない。

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