全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

     長島町指定史跡  堂崎城の石段 昭和43年8月20日指定

 堂崎城は中世に長島氏が築き長く長島支配の根拠地であった。海に突き出た岬が天然の要害となっており、全国でもめずらしい海城といえる。特に登城口の石段は素朴な自然石を並べたものであるが、当時の遺稿として貴重である。その他土塁・石塁も一部残っている。御城内・榎ノ丸・内馬場・本場場・仮屋ノ上など古城ゆかりの小字名が残り、往時がしのばれる。

長島氏の支配

 長島氏は天草氏の一族で、鎌倉時代初期から長島を領有するようになったらしく、長島氏を称して堂崎城に居城した。南北朝時代に勢いを得、室町時代には天草八氏の一つに数えられた。しかし、天文二十三年(一五五四)長島但馬守鎮真のとき人吉から勢力を拡げてきた相良氏の強圧にたえかね、薩州島津家を頼って出水に逃れた。

堂崎城の落城

 その後、堂崎城には天草越前正が入城していたが、野田の島津常陸守忠兼は長島攻略を決意し、永禄八年(一五六五)三月二三日、汐見の板場の鼻に軍を上陸させ汐見で激しく戦ったが破れなかった。しかし、夜陰に乗じて城川内に進軍した島津軍は翌二四日暁、堂崎城に一気に攻めかかった。島津氏に通じる天草の志岐、栖本氏も海から応援し、一方、堂崎城では、女・子供まで必死に防戦したため、激しい戦いとなったが、衆寡敵せず、さすがに堅城の堂崎城もついに落城した。城主堂崎正は切腹して果て、位牌は長光寺に安置された。そして長島はこれを契機に薩摩領となったのである。

お八日踊り

 ところが堂崎城落城から三ヶ月後の七月八日、忠兼も出水の島津義虎によって謀殺され、非業の最後をとげた。翌年には野田・長島で悪疫が大流行し死者多数が出たので、人々はこれを「忠兼のたたり」として恐れ、後に汐見と堂崎城跡に、若宮神社を建立し、命日に踊りを奉納するようになったと伝えられる。今日、「お八日踊り」として長島最大の祭りとなり、新暦八月八日に島内各地で郷土芸能が奉納される。

                               長島町教育委員会の案内看板より

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事