「神功皇后紀を読む会」通信(主宰・福永晋三)

次回は、7月13日土曜13:00〜17:00、阿佐谷地域区民センター第1集会室

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漏刻

 糸田の泌泉が天智天皇の漏刻跡だと確信した。すると、また新たな謎が生じる。泌泉には承安四年(1174)に神体台板に刻まれた文章が遺されている。「旧記に曰く、糸田の庄の金村権現宮は天智天皇七年秋八月、右大臣金連公造営せしめらるる所なり。」
  日本書紀には天智十年に中臣金連が右大臣に昇進し、同年に「初めて漏刻を造る」と記されている。更に斉明六年にも須弥山を造る記事と皇太子が「初めて漏刻を造る」記事とがある。漏刻は果たして何年に「初めて造られ」たのか。
   斉明六年には百済の王子豊章を本国に帰したとの記事もあり、割注に実際は斉明七年のことだと記している。ひょっとすると漏刻記事も斉明七年の可能性がある。
   次に、天智紀には有名な七年離れた重出記事の例がある。天智三年の官位授与の件が天智十年に重出する。斉明天皇は七年に病没し、天智が「称制」したとある。七年の数字が重なる。
  ここから、天智の称制は斉明元年に始まったのではないかと推理した。つまり、斉明元年=天智元年と数える史料が豊前に存在したのではなかろうか。すると、斉明七年に造られた漏刻は豊前では天智七年に造られたことになる。
  日本書紀の天智三年の官位授与は豊前の史料では天智十年の事であり、日本書紀がまた天智十年に重出させた。ここに七年ズレの問題が一つの解を得る。
  漏刻は豊前の天智七年(661)に糸田の地に造られた。一方は日本書紀の斉明六年に、もう一方は天智七年を誤って天智十年に配したのではないか。これが私の解である。

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