「神功皇后紀を読む会」通信(主宰・福永晋三)

次回は、7月13日土曜13:00〜17:00、阿佐谷地域区民センター第1集会室

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新元号が令和に決まりました。(令は阿辻哲次先生によれば、霊のあて字だそうです。「日本経済新聞」)出典は万葉集「梅花歌三十二首」序文です。梅花歌は天平二年(730)正月十三日、大宰府の大伴旅人邸で詠まれた歌です。主題は「落梅」だと思います。
大宰府は『隋書』?国伝に登場する「日出処天子(阿毎多利思比孤)」が600年代前半に建てた倭国初の条坊制を備えた都でした。日出処天子は冠位十二階の制や十七条憲法を定めた倭国の偉大な天皇でした。この天皇は、琉球国を隋の煬帝に侵略され、隋と国交を絶ちました。隋の後の唐とも国交しなかったようです。
次の筑紫君薩野馬は百済を支援し、唐・新羅の連合軍との戦が不可避となり、657年、大宰府の周囲に水城や大野城など全長51キロメートルに及ぶ東アジア最大の「羅城」を築きました。660年、唐・新羅連合軍は百済を攻撃し、百済は滅亡しました。筑紫君薩野馬も唐軍の捕虜になりました。
薩野馬の跡を継いだ大宰府の王は百済復興を図り、663年、白村江戦で唐・新羅連合軍と衝突しましたが、筑紫軍(御笠軍団)は全滅しました。翌年、筑紫君薩野馬は唐軍とともに帰朝しましたが、唐は大宰府に筑紫都督府を置き、薩野馬は王に返り咲くことはありませんでした。
主君を失って以降の王都大宰府は次第に衰えていきました。白村江戦から数十年後、日本国の臣下である大伴旅人や山上憶良らは、かつての倭国の王都の栄華を梅花の宴で偲んだようです。
830 万世( よろづよ) 年はきふとも 梅の花 絶ゆる事無く 咲き渡るべし筑前介佐氏子首
上歌には、安禄山の乱で国都長安が陥落した時、杜甫が詠んだ「春望」の一節に込められた心情に一部通じるものがあります。「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
決して平和に満ちただけの歌群ではないようです。
後年、大宰府に左遷された菅原道真(推定:「新撰萬葉集」の編者)の歌にも意味深長のものを感じます。
東風( こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

教科書を信じるな


 京都大特別教授の本庶佑さんがノーベル医学生理学賞を受賞された。記者会見の中で子どもたちに向けてこうエールを送られた。
「重要なのは知りたい、不思議だと思う心を大切にすること。教科書に書いていることを信じない。本当はどうなっているのかという心を大切にする。あきらめない。そういう小中学生が研究の道を志してほしい。」
 ノーベル賞を受賞された方と自分を比べるのはおこがましいが、私も「古代史や万葉集に何が書いてあるか」を知りたくて、長年「教科書を信じず=通説を信じず」、「本当はどうなっているのかという心を大切にし」、「あきらめずに」、古事記・日本書紀・万葉集・中国の歴代の倭国伝・懐風藻・風土記などを研究してきた。
 九州王朝論に一時期は耳を傾けたが、これも信じることはできなかった。次第に、自説を述べ始め、各古田会からバッシングを受け続けた。あきらめなかった。
 今、「倭国=豊国」説を掲げ、邪馬台国田川説を唱え、西日本新聞筑豊版と限定されるが「新説・日本書紀」を連載するまでになった。今年の3月に福岡県田川郡赤村内田の前方後円形地形を卑弥呼の墓ではないかと同新聞に発表した。ヤフーニュースに取り上げられ、テレビ局の取材も受けた。だが、大勢の考古学の学者や地元の教育委員会からは反対されている。それでも私はあきらめない。
 講演会で、さまざまな新説を発表し、支援者の力でユーチューブに挙げている。コメントには相変わらず誹謗中傷が多い。それでも私はあきらめない。
 筑豊には日本書紀の記述に合う遺跡と山河が多い。現地伝承も豊富だ。日本書紀よりも詳しい場合もある。現地伝承は漢文で書かれていることも多い。白文のものもある。それらを丁寧に読解していくと、時々、意外な古代史の事実が浮かび上がる。時間はかかるが、必ず、公表にこぎつけたい。そこに歴史の真実があるからだ。
 本庶さんの言葉に救われた。が、私の相手は邪馬台国近畿説の京都大学派なのだ。
 

漏刻

 糸田の泌泉が天智天皇の漏刻跡だと確信した。すると、また新たな謎が生じる。泌泉には承安四年(1174)に神体台板に刻まれた文章が遺されている。「旧記に曰く、糸田の庄の金村権現宮は天智天皇七年秋八月、右大臣金連公造営せしめらるる所なり。」
  日本書紀には天智十年に中臣金連が右大臣に昇進し、同年に「初めて漏刻を造る」と記されている。更に斉明六年にも須弥山を造る記事と皇太子が「初めて漏刻を造る」記事とがある。漏刻は果たして何年に「初めて造られ」たのか。
   斉明六年には百済の王子豊章を本国に帰したとの記事もあり、割注に実際は斉明七年のことだと記している。ひょっとすると漏刻記事も斉明七年の可能性がある。
   次に、天智紀には有名な七年離れた重出記事の例がある。天智三年の官位授与の件が天智十年に重出する。斉明天皇は七年に病没し、天智が「称制」したとある。七年の数字が重なる。
  ここから、天智の称制は斉明元年に始まったのではないかと推理した。つまり、斉明元年=天智元年と数える史料が豊前に存在したのではなかろうか。すると、斉明七年に造られた漏刻は豊前では天智七年に造られたことになる。
  日本書紀の天智三年の官位授与は豊前の史料では天智十年の事であり、日本書紀がまた天智十年に重出させた。ここに七年ズレの問題が一つの解を得る。
  漏刻は豊前の天智七年(661)に糸田の地に造られた。一方は日本書紀の斉明六年に、もう一方は天智七年を誤って天智十年に配したのではないか。これが私の解である。



 倭国=豊国説を唱え続けている。これは、昨年亡くなった古田武彦の九州王朝論(私は筑紫一元史観と呼ぶ)に対峙する仮説である。今のところ、すこぶる順調である。11月3日に香春町合併60周年記念講演を終えたばかりである。豊前田川郡の人々の反応もすこぶる良い。熱烈歓迎を受けている。
 9月25日に添田町で講演した際に、糸田町に遺る「泌泉(たぎり)」こそ、天智天皇の漏刻跡だと直感したことを報告した。ここが、金村神社。大伴金村が関係する。すると、近くに継体天皇の磐余玉穂宮があるはずだと考えた。
 香春町の講演を終えたあと、福智町金田に「敷島」の字名を見つけていたので、欽明天皇の宮を探しに出た。敷島の近くに稲荷神社を見つけた。赤くない稲荷神社である。拝殿から鳥居の向こう側を見たら、香春一ノ岳が見えた。神社の境内も宮殿跡としての趣がある。初めは欽明の宮跡かと思った。宮司が留守だったので、翌日訪れた。色々伺っているうちに、稲荷神社の鎮座地が玉穂山であると知らされた。確かに由緒書きにも玉穂山の字があった。継体天皇の磐余玉穂宮が決定した瞬間だった。筑豊を訪ねて二十年、ようやくたどり着いた。福智町金田405番地に鎮座する。
 こうした地道な調査を続けた上で、倭国=豊国説を唱えているが、この20年は古田史学の会を中心とした連中の誹謗中傷を受け続けた年月でもある。この数年に挙げたユーチューブの講演録のコメントにも相変わらず連中の誹謗中傷のコメントが載る。
 私は長年の彼らの誹謗中傷に耐えてきたが、もうこのあたりで反撃を開始しようかと思う。

妻垣宮旧事記2

【口語訳】
都麻垣宮旧事記
 謹んで稽首する。当宮は媛大御神の出現なさった地である。そもそも宇宙の原理が天地を分かち、宇宙の気が清濁を分けた。品物に広がり及び、名を人類に求めた。万族が出て、天皇氏(天神)が我が宇宙を七世統治し、位を地皇氏(地祇)に譲った。地皇氏は初めて結縄(記録)を考え、それで君臣を分かち、諸島を五世統御して、人皇氏の( かむ)日本 ( やまと )磐余 ( いはれ ) ( ひこ )天皇 ( すめらみこと )神武帝であるが位を継いだ。そして、即位三十年庚寅冬十月丁巳朔辛酉の日に、ご自身で東征されて筑紫の国菟狹(宇佐)に着かれた。菟狹の国造の祖先、菟狹津彦・菟狹津媛という者がいた。菟狹の川のほとりに、一柱騰宮 ( あしひとつあがりのみや )を造って御飲食を差し上げた。委細は日本書紀神武本紀に出ている。天皇が朝に四方をご覧になっておっしゃるには、「ああ、霊妙であるなあ、この地は。連山が四方に廻りちょうど長城のようだ。一筋の河が静かに流れさざ波が清らかだ。朝靄が地に広く行き渡り、玉のような露が天に広がる。まことに豊饒の地域である。その上、共鑰山はその中央にあって、多くの峰よりぬきんでている。朕は母后の霊をここに祭るつもりだ。」と。そこで原廟を建ててご自身で祭祀に臨まれた。たちまち山岳が動き揺らぎ、河の水が奔流し土砂が浮き動いて、霊石を淵の中に顕わした。神女が石の上におわして神とおっしゃる。
「私は天子の幸いを願おうとし、多くの人を救済しようと思う。私の浴びた水は清浄である。河の水と私の浴びた水の及ぶところは末代まで汚させてはならない。不信の輩に信心を生ぜしめようと思う。だから石の上に私の足跡を留める。疑ってはならない。」
 告げ終わって山上に至り原廟に止まる。神武帝は粛然として側近の者を振り返っておっしゃるには、「これは玉依媛の御霊である。」と。群臣は膝行して神霊の新しい跡を拝んだ。そこで神の歩みの間を調べると、一つの足跡を淵の中・山の中腹淵の中の石を一丁余り去った場所・山の頂山の中腹の石を三丁去った場所の三つの石に止めていた。それぞれの石は今なお存在している。天皇は原廟に告げて一柱騰宮( あしひとつあがりのみや)と名づけられた。
  一説に言うには、垂迹(神の出現)は孝安帝の御世にあったのだと。真偽はつまびらかでない。
  一柱騰宮は日本書紀にアシヒトツアガリノ宮と訓んである。人知れず云うことには、日本紀に一柱騰宮の文があると。以上のことから考えると、すでに孝安帝以前に一柱騰宮の号があった。垂迹することがないうちにどうして原廟に名づけることができようか。神武帝の御世のことであるのは明らかだ。また考察する。菟狹津彦が一柱騰宮を営んで神武帝に饗応した。神武帝がまた母后を祭った日に、神女の一足の事があった。神女は飛行して聖跡の奇瑞を石の上に止めた。神武帝が前後の微妙な事情を観察して、原廟をアシヒトツアガリノ宮と名づけたのは合致することであるよ。

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