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ジャーナリスト岩上安身@iwakamiyasumiさんのつぶやき編集
第五弾です。
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正しさと、主観、客観の話は、つながってます。ゆっくり書いてる時間がないので、部分的に。
これは、報道論のレベルの話ではなくて、認識論の話です。
認識主体しか存在しなくて、そもそも客観的な実在はない、という極論が一方に存在します。
他方、物理的な客観的存在があって、主観は退けられる極論も
続き。どちらも極論です。まず、客観的な実在、事象は存在します。
しかし、僕らは決してそれを完全には把握できない。難しい話ではない。
同時多発的に、世界中で、出来事は起こっており、それらすべてについて完全な情報を集め、
認識することは不可能だからです。全能・万能の認識者の想定も無理。
この世に完全情報をもつ全能の存在はいない。
全知全能の認識者としての神もいないし(神様は何でも知っている、は無理)、
世界を完全に操作できる存在もいないし(陰謀論は一者がすべて操れるという想定なので無理)、
コンピューターの発達も全智者の代替はできなので、これまた無理。
続き。世界はすべて局所に偏在していて、特権的な中心点などなくそもそもなく、
僕ら、何事か認識できる存在も、それぞれに偏在していて、僕らはそれぞれ違う視座から
世界を見ている。
「客観」に対置して、ことさら「主観」を強調することは、あまり意味がない。
僕らの認識はそもそも「局所的」だから。
自分たちは、完全情報を持たない存在である、という自覚は大切。
知らないことがある、どころか、知らないことだらけで、当たり前なんです。
では、どこまでも底なしの相対主義、ニヒリズムに陥ってしまうしかないのか、といえば、
それまた違う。
僕らは、不完全情報しか持ちえない存在ですが、
先述したとおり、完全情報を持つ存在の想定自体が、虚構であり、錯誤なのです。
僕らは自分たちの限界を自覚し、過ちを犯す可能性があるということに注意を払いながら、
できるだけのベストを尽くして、情報を収集し、共有化し、判断をくだすのです。
極端な相対主義に陥ると、判断が下せなくなったり、事実なんてない!と叫びだしたりする(笑)。
それは有益に生きているとは言い難い。僕らはその時々で、判断し、行動に踏み切るけど、
何かの拍子に今まで知りえなかった情報を知り、それまでの判断を改めなくてはならなかったら、
改めるべきなんです。
この世に無謬の存在なんていない。だから官僚の無謬性や検察や司法の無謬性の強調はおかしい。
過ちはありうること、その責任も問われるシステムにするべきです。検察のすべてが正しいとか、
その逆にすべて間違っているということはありえない。検察批判についてもそう。
「完全に正しい」こともありえないように、「完全に間違っている」こともありえないので、
批判すべき対象を見出しても、その存在すべてを全否定してはならない。
心のどこかで「正常になってね、更生してね、いい子になってね」という気持ち(笑)は、
残しておかないとね。だいたいですが、そんなこと。
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引用終了
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