逆説の胴体力(重心力) 2 重心集約力は 筋力ではない

胴体力は 身体運動の 「読み」「書き」「そろばん」です

脳科学的「わかり方」

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「脳内にカーナビ機能の細胞が存在することが発見された!」
http://www.asahi.com/science/news/TKY200610300221.html


「ゾウ、鏡に映った自分の姿を 自分だと認識できる」
http://www.asahi.com/science/news/JJT200610310003.html


以上の記事、実に素晴らしいことです。

「自分を 外から眺めて 自分自身である」と 認識するのは かなり高度なことなんですね。

哺乳類でも、実は、牛、馬 鹿  などは  できません、、、、


だけど、ウシ、ウマ シカ 並みの 認識しかない 人類もいる訳で、、、



なんとも、、、、、

わかる仕組み を よりわかるには、

「新しいことをわかる」ための仕組みを 理解しておくと、より面白くなります。

今回は、あまり引用がありません。

なぜなら、池谷先生のHPに、ほぼ、概略が記されているからです。

http://www.gaya.jp/ikegaya.htm

ただ、P24に出てくる、ホムンクルスの図形は、ちゃんと見ておいたほうがいいですよ。

胴体力トレーニングは、このホムンクルスの分布を、まったく別なものに変えてくれますから、、

ただ、この部分は最重要点だと思っているので、

以下、引用させてもらいます。

「、、、プロのモダンバレエの選手がモダンバレエを見る視点と、
僕がモダンバレエを見る視点とは、明らかに違うと思うのですが、

目の前に上演されているものは同じですよね。

同じ視覚情報が入ってくるにもかかわらず、認識するためのパターンの組み合わせが違う。
だからそれぞれの人の見方に個性が出るわけだし、創造性が生まれる。

そう思うと、日常生活において以下に新しい視点を加えることが大切かということが、
わかります。

新たなパターンをひつつ入れるだけで、統計学的にいってかなり認識の組み合わせ数が増えますから。

認識を豊富にしてネットワークを密にしていく、ということが、
クリエイティブな仕事というものに近づいていくヒントかな、と思いました。」


(つまり、胴体の動きが 自分の体にインプットされていない状態のまま、動いている人を見ても
 実は何にもわからないのです、、、
 
 新たな視点が、目ではなくて、自分の身体(胴体)自身にインプットされていないと、
 胴体が動いている人と、いない人の違いが、身にしみて理解できません、、、

http://blogs.yahoo.co.jp/nsi444/33717041.html  ミラーニューロンについて 参照


 私のページで、「胴体が動いている状態」を体感してもらうメソッドを
 一番最初に持ってきたのは、そのためです。
 
 (ネット接続で表現すれば、仮接続パスワードをつけて、接続してもらう、というのが
  ピッタリですね、、)

 逆に言えば、一番最初の実験をやっていない人だけが、インプットしていないことを
 宣言しつつ、質問を繰り返す、、
 ということなのですが、、

 胴体を開発し続ける、というのは、実に地道な作業の積み重ねです、、、   )
 

この著者の専門は サル学 および、比較行動学です。

現代のケータイ依存社会が、脳にどのような影響をもたらすことになるのか、の警鐘とともに、
それは、脳のどのような部分に影響を及ぼすのか、
巷に言われている 「心の闇」の、本当の正体とは、等、
「現代における わかる意味の大変化」について、見事に論証されています。

では、著書の言葉を、どうぞ。

1 語用論能力の衰退

 人間は、過去の経験に基づいて、言葉の意味理解を変えていく。反対にこのことは、発語を行う際も、
 常に相手に聞き入れてもらえるよう配慮して話をすることを意味している。
  
そして、聞き手は相手がこちらを意識して話をしていることに気づいている以上、
 その意図を把握しつつ、発語内容を吟味する。
  
  考えてもみよう。

「君は、よく勉強するね」といわれたにせよ、それが字面どおりのほめ言葉なのか、
「勉強しない」ことへの皮肉なのかは、文字の配列から判断することは
  不可能に近い。
  
相手の顔色を読み、状況を斟酌し、あるいは話し手の普段の言行を参照しなくてはならない。

 
つまり言語理解というのは、意外なほど記号的でなくて、反対に相手の心を読む
 (発語を手がかりに心理を把握する)過程であることがわかる。
 
むしろ、サルのほうがよっぽど厳密に記号類別に依拠して情報伝達を行っているのだ。

  ところが、最近の日本人を観察してみると、そのコミュニケーションはこの言語進化の進んできた
 方向を逆行しているように思えてならない。
 

つまり、言葉のメッセージを常に記号として把握する傾向が高まっている。
 そして、そういう認識の仕方をサルが実行している以上、サル的なコミュニケーションに
 スタイルを変えてきたという結論にたどり着くのだ。

 ( 「結婚するならコレを読め!」の著者である吉本先生が
  
   この本の中で 非婚化、晩婚化についての考察部分で、詳細に分析しています。
  
   具体的には、本を買って読んでみてください
   
   http://blogs.yahoo.co.jp/nsi444/31615676.html               )


 わかるとはどういうことか 1 記号の落とし穴
  http://blogs.yahoo.co.jp/nsi444/33063568.html
                     参照

  
 2 言語操作の欠如

 実のところ、心の闇と衝動的行動 は似て非なるものどころか、まったく水と油の関係にある。

 心の闇、という表現は、おそらく精神分析などの知見から想起されてきたものに違いない。
 無意識の領域へ追いやられた、抑圧された欲求とか「心のおり、沈殿物」といったイメージが
 そこから彷彿としている。
  
このような抑圧のおりを、心の闇 から取り戻してくる作業は、当然言葉によってなされる。

 そればかりではない。不快な体験を、心の闇、と化してしまう際にも、実はそれを実行するのは
 ことば に他ならないのだ。

 それというのも私たちは、いかなる出来事でも、それを記憶するという形で心にとどめるためには、
 知覚した一連の情報をいったん言語化し、
「おはなし」として再編することが不可欠であるからに 他ならない。
 
この場合、自分で実際に発音しなくても、頭の中においては発音しており、
それを自分で繰り返して聞く(無意識的に)ことにより、
一まとめにして記憶しているのだ。
  
この機能を ループとしよう。

 次に、ケーキ店でケーキを注文することを考えてみよう。
 
ショ−ウインドウ、もしくはカタログを見て、ケーキを注文する。
  あなたが、お目当てのケーキをカタログで注文するとして、注文したケーキの視覚イメージを
 どのくらいの時間記憶しておけるだろうか?
 
カタログを見て、店員にオーダーするまでの時間くらいしか、イメージを保てないだろう。
 オーダーするや、あなたのイメージは消失してしまうはずだ。
 
この機能を メモ機能(以下、メモ)とする。

 ここで考えてほしいのは、心の闇、とは、ループを使って記憶されたものだ、ということだ。
 
 しかし、視覚イメージ(メモ)による決定は、おのずと瞬時になされる。
 
なぜなら、メモはすぐに消えてしまうからだ。決定した内容を改めて点検することは
 できにくいのである。
 
逆に、言語に基づく決定は決断に時間を要する。ついつい繰り返し、内容を検討して
 しまうためである
 
 どうして、と尋ねられて、脈絡のある回答ができるのは、行動の動機付けが、
 何かしらループからの情報に基づいた場合に限られる。

 つまり、キレた人間が、自分の犯した行動の動機を答えられないのは、行動決定が
 メモ機能によりなされているからで、このような場合、動機は何?と、
 言語機能に問いかけても、
 答えようがないのだ。
 
 そのため、彼は、メモが送り込んだイメージをただ言語化するばかりなので、
 結果としてまったく脈絡のない事実が ただ並べられて供述されることになる、、

 言語によらず、視覚イメージが発する信号に反応してばかりいれば、
 そもそも、心の闇、なるものがありえないのである。        」
 
 3 認知的集団の限界
 
 なるほど、IT化によって、人間のコミュニケーション可能なネットワークの規模は、爆発的に
 拡大した。
 けれども、「自分にフィードバックのある」付き合いの範囲というのは、決して拡大しないのである。

 実は、その例を、軍隊の一個中隊の人数に見ることができる。
 
 認知的集団としてのまとまりが維持されるかどうかの鍵は、ひとえに集団内のメンバーが、
 直接的な個人的つながりをもてるかどうかにかかっている。
  
ここ二百年余りの間に、兵器、戦術は比べ物にならないほどの変化を遂げたにもかかわらず、
 中隊の規模は、実に安定して百五十人のままだ。
  
それは、なぜか?
 
結局、隊のまとまりということに尽きるのだ。いくらノウハウが進んでも、
 戦闘では隊内のメンバーが

 「お互いによく知り合い、相互信頼を確立」

 していないと、話にならない。

 技術が飛躍的に進んでいるにもかかわらず、中隊規模が変わらないのは、
 「相互信頼による」
 ネットワークの限界が、生物学的限界に規定されているからに他ならないのである。」

(結局、こういう限界に必ず遮られるため、ネットによる相互フィードバックのある
 コミュニケーションについては、私はかなり懐疑的です。
 
 コミュニケーションは、ただ「言葉を並べあう」のとは、
 まったく性質の異なるものです、、、         
 
 中心軸、肩の力が抜ける センター ゆる 、、、言葉だけを並べあっても、
 
 何の役にも立ちません、、、
 
 質問も同じです。
 自分で現実に実験していない人間に
 
 「私は実験しないでおいて質問しています。
  
 (実験していたら、絶対出てこない質問をしていること)に
 
  私はまったく気がついていません。 よろしいでしょうか?」
 
  と、宣言(質問)されても、、、答えようがないですよ、、    )



4 ミラーシステムの進化

 ミラーシステムとは、我々が他者の動きを理解する際に、自分では現実にその動きをしていないにも  かかわらず、その動きを実行しているかのように作動する脳内ネットワークのことである。

 どうしてこのようなことが起きるのかというと、

 外界の動きに対し、単にそれを動きとして
 把握するにとどまらず、それが何をしているのか、という意味を言語的に把握するとき、
 我々は自分の行動レパートリーに準拠して解説を行う。
  
 
 他者の理解を、私たちは自分の動きになぞらえることからスタートさせるらしい。
 そして、そこにブローカ野(運動パターンを司る脳領域)が入り込んでいる事実が、
 ミラーシステムの存在を教えてくれるのだ。


5 言語の身振り起源

我が家の次男は必ず、ボールポン といった。しかも、ただ床に転がっているボールを
離れているところから眺めて、ボールポン と発音するようなことは、少なくとも極めてまれであった。

ボールををつかんで、ぎこちないながらも遠くのほうへ投げようとしながら、ボールポン という。

ボールペンをはじめとする筆記用具を「ジ−ジー」と勝手に命名した。母親が、コレで字を書くんだよ
と教え、又実際に書いているところを目撃したことに由来する。

インクの出なくなったペンを一本、おもちゃ代わりに渡してやると、
字を書く真似をしながら、「ジージー」と繰り返している。
子供は、常に自らの体を動かし、身振りの中で語彙を獲得していくことが伺えよう。

つまり、相手が対象といかに関係しているかを観察し、その働きかけを自分自身の体に
引き写した上で、新規な言葉の意味を理解しようとする。

それゆえ、もしミラーシステムがなかったら、人間は今日のような膨大な語彙を
個々人で習得することはできなかっただろうし、
運動性の言語中枢がシステムに組み込まれているのも、言語の進化を考える際、
決して偶然の結果ではなかったと類推せざるを得ないのである。


(つまり、もともと言語は、身振り手振りから発達したと考えられるというわけで、
改めて、身体に叩き込む 身にしみさせる とかいうのは、話が逆なんですね。

逆に言えば、「身体から発想するんだ」などと、教育者が改めて強調しなければならないほど
もともとの言語進化が、逆行してきているということなんですが、、、、
 

こういう意味では、斉藤孝氏の言っていることは正しいと思います。本人の身体が
 「レスポンスしない身体」であることを除いては、、、)



(難しい体操は、何のためにあるのか?それは、
 
 「今の自分には、○○と××の距離がくっつきすぎていて、できない!」

 ということを確認するために意味があるのであって、
 どこが硬いか、癒着しているかを認識するためのものです。

 その確認が終わったら、まずは、くっついている部分を少しづつ取り除くことに
 移ればいいのですが、、どうもそういう発想はしないようです、
 
 胴体力ユーザーの方々は、、
 
 ミラーシステムをもっと有効に使いましょう、、、、、表面の筋肉で頑張らないで、、)

「わかる」仕組みの、第二弾です。

脳の基本性能の理解がないと、わかり方がわからないまま、わかった気になり、
客観的に検証もしないでいることに、全く気が付かないまま、

という、恐るべき事態を引き起こしていきます、、

(いわゆる、「どこがバカだかわからないバカ」状態、、、)

これに加えて、「自分のどこがバカだかわからないので、教えてください」という
謙虚なバカが加わると、バカのトリプルダブルの完成です、、

トリプルダブルは、バスケの世界だけにしておいていただきたい、、
レブロン=ジェームズのように、、、

余談が過ぎました。

では、わかる仕組みを 解明していきましょう。、、

1 脳はつじつまを合わせる。

 脳の大きな原理の一つに、節約安定化原理、というものがある。ちょっと難しい
 言い方なので、簡単に言えば、省エネエアコン理論、と、言ってもよい。

 なるべく少ない情報でわかりやすくて都合のよい、あるいは、安心できる結論を
 出す、という性質である。

 こんな実験がある。てんかんの治療のために、左右の脳をつなぐ脳梁という部分を
 切断し、左右の脳を分離した患者さんでの実験だ。
 左右の脳が分離しているために、片側の視野で行われていることが、反対側の脳は
 わからず、情報を受け取ることが出来ない状態に、患者さんはいる。

 そこで、例えば、左視野だけに、「目の前のライターを取ってください。」といった文章を
 提示すると、右脳だけがその情報を受け取ることになり
 (右脳は左手を、左脳は右手を それぞれ支配している)
 患者さんの右脳は、自分が使える左手でライターを取ることになる。
 
 その後に、「何故ライターを取ったのですか?」と、左脳だけに質問する。
 
 左脳にはもちろん本当の理由はわからない。しかし、左脳は適当でつじつまの合う返答を
 するのだ。(ex タバコをすおうと思ったからです など)
 
 つまり、自分にはわからないことを、断片的な情報を元に、もっともらしい結論を導くのだ。

 同様の実験で、今度は右脳だけに女性のヌード写真を見せる。
 厳粛な実験場面でこんな写真がいきなり出てきたので、患者さんは照れ笑いをする。

 そこで、「何故笑ったのですか?」と、左脳に聞くと、
 「先生がおかしな態度を取ったからだ」などと答えるのだ。

 この場合も、断片的な情報から、適当な理由付けをして、もっともらしい結論をだしたわけだ。

 どうしてこのようなことが起こるのかというと、脳にとって、
 「わからない」という状態は、不安な感情を引き起こすものだからである。
 
 不安な感情を持ったままでは、脳は十全には働かない。
 そこで、「ともあれ、つじつまの合った結論を作り出し、安心させる」という機能が
 脳自体に存在しているのだ。
 「わかる、わかった」というのは、実は、感情なのである。

 (つまり、客観的事実が、「脳内の認識とは異なっている」ことがはっきりしていても、
  感情的に納得がいかなければ、都合のいい解釈により、その事実は別の意味を持たされるように
  なるのですね、、、
  むろん、忘れる という機能は、結構大事なものですが、、        )
  (失恋の痛み、、とかね、、、)


2 ブームの恐ろしさ

 「はっきりした情報はマシなのだ。しかし、スローガン的に繰り返される断片的な情報は、
  脳内に無意識的な記憶としてしっかりと固定されてしまう。
 
  無意識的なので、真っ当な判断や、きちんとした思考が入りにくい。
  それで、多くの人が同じような行動をしてしまう。

  その行動がまた、「無意識的な記憶情報」を生み出し、ブームが起きるのだ。

  ハリーポッター程度ならよいが、恐ろしいことも多い。
  例えば、戦中での「鬼畜米英」や、ナチス、北朝鮮での指導者崇拝、、どれもが
  
  脳の性質(メモリー ベースド アーキテクチャー 記憶を基にして構築される性質)
  と、無意識的な情報処理過程が利用されているように見える。

  こういう思考に慣れてしまうと、それはどういうことなの?という、プロセスを検証しようという
  ある意味、真っ当な批判精神が麻痺してしまう。
  先ほども書いたように、
  脳は、なるべく少ない情報から、すばやく結論が出る方が都合がいい
  という性質をもっている。
  スローガン的情報に慣らされてしまうと、情報そのものが間違っていても、
  いちいち思考のプロセスに
  戻って考える、ということを、どんどんしなくなってしまうのだ、、、

  〜中略〜

  具体的に言えば、無意識的な記憶情報によって左右されず、自分の行動や記憶を
  意識的にモニターし、思考のプロセスに戻って判断する訓練が必要なのだ。」

  (日本人のもっとも苦手な思考が、これです。原点に戻って考える というのが
   非常に不得手なのですね、、)

3 児童虐待は子供の脳を壊す

 子供での虐待は典型的な心的外傷になる。しかも、脳が発達する最重要期のことなので、
 その程度は、大人の比ではない。

 扁桃体や海馬が萎縮してしまう。
 行動的な症状としては、攻撃性や、感情を抑制できない性質が目立つ。
 記憶力や注意力の散漫などの問題が認められたり、いわゆる、人格異常や多重人格症になったりする
 
 これらは、実は、前頭連合野の異常である。
 前頭連合野とは、自分の行動をモニターし、複数のプランから適切な行動を行うための
 機能を受け持つ部分だが、この部分が、児童虐待により、機能低下を招いてしまうのだ。

 しかも、恐ろしいのは、一番発達しなければならないこの時期に、ひどいダメージを
 受けてしまうと、大人になってからも、機能が低下したままである可能性が、飛躍的に
 高まってしまうのである。

 このため、児童虐待を過去に受けたことのある大人が、自分の子供に対して、さらに児童虐待を
 行うというケースは、よくありうることなのだ。

 遺伝子によらない遺伝なので、準遺伝とでも言うべきかも知れない。
 欧米の研究では、児童虐待を受けた人は、児童虐待をする確率が極めて高いことがわかっている。

 かくして、児童虐待は準遺伝し、世代を超えて脳を壊すのである。」

この方は、脳機能障害、失語症、認知障害を専門とする、お医者さんです。

この本に出てくる、「わかり方」は、すべての人間の

「わかる仕組み」を、列挙してあります。
脳みそなしでは、人間は、「わかる」ということができません。

従って、脳を使う人間のわかり方には、この本の中にすべて納まっています。

もっと「わかりたい」方は、この本を買って、熟読されることを
ぜひ、薦めます。

では、「わかる」仕組みの世界へ、どうぞ。


1 記号の落とし穴

「最近、いろんな外来語が、わけもわからないままに使われています、、
 しかし、
 
 記号だけは覚えていますが、その相手方であるはずの記憶心像
(ここでは、自分の中にあるすべての記憶のこと。五感すべても含む)
 は、曖昧なままなのです。
 このような言葉の使われ方は、心にとって大変危険なことです。

 心の整理に役立つはずの言葉が、むしろ、心を混乱させます。
 心の構造がいい加減になってしまいます。

 しっかり内容を伴っている言葉と、耳からだけ、目からだけ入ってくる言葉では
 その言葉が喚起する心の構造に差ができてしまうのです

 記号自体は無意味です。記号だけ見ても、聞いても、何かが理解できるわけではありません。
 音韻が自分の中の記憶心像と響きあわないと、意味は出現しないのです。」


「わかる、わかったという経験の第一歩は、まずなんと言っても言語体験です。
 
 ある音韻パターンと一定の記憶心像が結びついていれば、その音韻パターンを
 受け取ったとき、心にはその記憶心像が喚起されます
  
 (ちょっと難しいですね、、、
  つまり、「ブック book」という言葉を見た瞬間、
  頭の中に、すぐに、「 」と、浮かびますよね、そういうことです。)
 
 つまり、わかるためには自分の中にも相手と同じ心像を喚起する必要があります。
 独りよがりの心像を喚起したのでは、相手の言葉はわかりません。
 
 そして、相手と同じ心像を喚起するためには、その手段である言葉と言葉の意味を正しく
 (言い換えれば、社会の約束どおりに ex ブック=本 )
 覚えておく必要があります。
 単純なことですが、記憶にないことはわからないのです。

 言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、頭のほうがそれに
 慣れてきて、それ、何?  と、問いかけなくなります。
 頭の中を記号だけが流れるようになります。
 
 (まったくこのとおりのことが、身体論にあてはまるんですね、、、
  腰ハラ文化、中心軸 、センター  肩の力を抜く、、真っ直ぐ立つ、、
  言葉だけ使っても、しょうがないんですが、、、)
 
 その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。
 心から好奇心が失われ、心に怠け癖がつきます。

 わかる、の原点は、後にも先にもまず、言葉の正確な意味理解です。
 ここをおろそかにしてはなりません。」


2 わかるための土台ー記憶 空間把握

「ひじという言葉は、普通の用法だと、腕を屈伸するときの間接部分のうち、
 外側の部分を指します。ヒジテッポウを食らわす、というように使われます。
 
 この言葉の意味を理解するためには、ひじの上下、つまり上腕と前腕の関係を理解しなければ
 なりません。
 上腕と前腕がイメージできて、始めてその間の可動部分がイメージできます。
 テ も、そうです。
 
 体全体と、そこから伸びている四本の長い可動部分のうち、上のほうの可動部分で、
 手首から先の部分を普通は テ と呼んでいますが、関係が理解できないと、
 テの意味を正確には把握できません。
 
 空間的な関係をイメージしないと、意味が作れないのです
 
 (たとえば、レイザーラモンHGの 動きを説明するとき、腰という
  位置関係がわからないと、説明できませんよね?)
 
 このように、関係を表す概念は、ことがらの記憶のように、個別に分離できるタイプの
 概念とは、心像化(記憶化)のされ方が異なります。
 ひじや手の意味は独立で心像化することはできません。

 全体に占める部分の空間的位置関係の理解ができて初めて成立するのです。」

(だから、胴体がまだ固くて、動いていない人は、動いていない人同士で比較しても、
 比較による空間把握ができないから、何にもわからないのです。
 
 動いている人と、いない人の違いが、写真を見て、空間的に把握できない人は、
 そもそも、わかるための土台がないのだから、わかりようがありません、、、)

「記憶という土台が出来上がって、初めてわかるとか、わからないとか言う心理的反応
 (感情)が生まれます。記憶がなければ、そもそもわかるとかわからないとかいう
 反応自体出現のしようがありません。」

3 全体像が わかる

「われわれは時間や場所について、大体の見当をつけることができます。
 、、、
 見当をつけるためには地図が必要です。
 
 地図は点ではなく、面からできています。
 
 たくさんの地点がそれぞれに関係を持っているのが地図です。
 仕事をどのくらいで仕上げるかという見当も、この試験ではどこが重要か という見当も
 仕事に絡む周辺の知識、あるいはその試験についての授業全体の知識、

 つまり、面の知識が作り上げられていないと、つけようがありません。」

(胴体力でいえば、自分の写真とほかの人の写真を
 並べ、同じポーズをとり、面にして、新聞欄の間違い探しの要領で、違いを数個見つけて
 関係を把握したとき、初めて自分の地図上の位置がわかる、ということですね、、

 これをしないで質問する人は、そもそも地図なしで歩いてるのだから、
 なんとも答えようがありません、、、)

4 仕組みが 「わかる」

「現在、われわれは、太陽の動きを、地動説で理解しています。
 
 ですが、見かけは、太陽が(昇り)太陽が(沈む)、つまり、太陽のほうが
 動いているように見えますね、、

 このように、われわれの知覚する世界と、実際の世界は同じではありません。
 実際の世界はわれわれの知覚的理解をはるかに超えたものです。

 地動説は事実ですが、この事実は言ってみれば客観的事実であって、心理的実感とは
 必ずしも一致しないのです。

 表面上のみかけは、事実のように見えますが、事実の一面であって、全部ではありません。
 見かけを作り出している

 「からくり」
 を理解しないと、本当にわかったことにはならないのです。」
 

5 ルールを発見することで、「わかる」

「イソップのたとえ話の、北風と太陽の話がありますね。
 
 記号を文字通りとれば、北風は北風で、太陽は太陽です。
 
 そこには、北風=厳格、厳しい 太陽=愛情、寛容 という
 イメージは、記号そのものだけの意味からは出てきません。

 つまり、北風と太陽の概念に、強制的なイメージと寛容さのイメージが
 響きあって、初めて このたとえ話が理解できるのです。

 ひとつの心像だけではわかるという経験は起こりません。
 自分の持っている何か他の心像と置き換えられたとき、あ、そうか、とわかるのです。

 そういう比較ができないと、その心理的ことがらは 
 他の心理的事柄と無関係なままです。
 お互い無関係なままでは新しい意味は生成できず、新しい理解は出現しません。」

6 わかるためには何が必要か

「わかるためにはそれなりの基礎的な知識が必要です。
 たとえば、筑摩書房 という文字列を読むためには、筑 摩 書 房 の
 四個の漢字を知っていなければなりません。
 日本語を読むためにはひらがなを少なくても七十一文字、
 カタカナも七十一文字、漢字も少なくとも常用漢字1945字は知っていなければ
 なりません。
  
 つまり、モノがわかるためには、大量の意味記憶が必要です。
 大量の知識は網の目を作りますが、網の目は逆に知識を支えます。

 一つ一つだと不安定ですが、百の関連知識に支えられると、その知識は
 安定度を増すのです。

 知識の網のおかげで、わかるところとわからないところが区別できるのです。
 まったく何も知識がなければそもそも網の目ができていませんから、
 網に引っ掛けること自体ができません。

 すべてのものは網を遠く外れたところをどんどん流れていってしまいます。」

(胴体力についても、まったくおんなじです。
 そもそも、動きの網の目を作らないでおいて、胴体がいきなり動くことは、
 ありえません。
 動きの網の目は、単に回数をこなすことではなく、
 
 どう違うのかの客観的基準を
 自分の体内感覚と合わせることにより、少しずつ作っていくものです。

 回数ばかりをこなしても、動きの網の目をまったく作らないでいれば、
 
 (日常生活での捉えをまったくしない状態であれば、)
 
 百万回こなしても、まったく進歩しません。
 動きの網の目が作られていないので、正しい感覚がすり抜けるばかりです、、、)

7 (わからない)事に気づく

「人間は生物です。生物の特徴は生きることです。それも自分で生き抜くことです。
 知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。
 
 自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。
 
 自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物に過ぎません。
 実地の役には立たないことが多いのです。」

(必要な人だけが、利用すればいいのです)

8 分かったことは 応用できる

 本当に分かったことは、応用できます。
 何かある知識を持っているとします。その知識が具体的な事柄に即したことであって
 そのことにしか使えないのでは、その知識はそのこと限りです。

 しかし、もしその具体的な知識の裏にある原理が理解できていれば、その知識は他の現象にも
 応用することが出来るはずです。

 筆者は、シェーバー(電動かみそり)の掃除を 掃除機で吸引すればええんちゃうか?と、
 ハッケンし、やってみると、見事に掃除が出来ました。
 これって、応用ですよね?

 何故、このようなことになってしまうのかというと、
 シェーバーの掃除は、シェーバー用のブラシですること、
 掃除機は部屋のほこりを取るもの、
 と、それぞれ別の知識の引き出しにしまわれていて、つながっていなかったのです。
 知識がばらばらになっていて、お互いに何の関係も無かったのです。

 何故、知識の引き出しが別々になっているのかというと、見かけの知識だけで納得してしまって
 それ以上、見かけの裏に潜む共通の原理にまで、頭が働かなくなっているからです。
 こういうのは死んだ知識ということができます。

 大脳損傷で、メガネは外せるのに、メガネはどれですか、と聞かれると、選べない、ということが
 起こることがあります。
 
 同じ言葉でも、引き出しが別々になっているので、引き出しがうまく引き出せなければ、
 全く無関係になってしまい、意味が分からなくなってしまうのです。

 (現在の身体論は、まさにこういう状況ですね、、大脳損傷してるのかも、、)

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