逆説の胴体力(重心力) 2 重心集約力は 筋力ではない

胴体力は 身体運動の 「読み」「書き」「そろばん」です

逆説の日本史と、日本人

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1 禁止令というものは、逆にその時代に何が流行(横行)していたかがわかる、
  というのが、歴史の常識である

  だから、織田信長が、足利義昭に、

  「オレの添え状がない限り、勝手に命令書を出すなよ!」

  と、念を押した、という事は、それ以前に義昭が そういうことを しばしばやっていた、
  ということである。

  そして、明らかに義昭は信長に対し、
  
  「この成り上がり者め。オレをロボットにしようと思っても、そうは行かんぞ」と
  
  思っていたのだから、この禁止令以降、義昭がそれを本当にすっぱりとやめたか、
  それともこっそり続けたか、

  これは人間心理の問題だが、答えは明らかだろう
  

2 イスラム原理主義というものを、私なりにわかりやすく説明すると次のようなことになる

  イスラムでは、豚肉食、飲酒を禁じている。
  正確に言えば、「神がそのように命令している」と信じるのがイスラム教だ

  という事は、とんかつを肴にビールで一杯やっている日本人は、イスラム教徒から見れば
  「神の命令に反する悪人」ということになる
  
  さて、問題はここからだ。

  では、日本人は悪人だから殺してもよいのか?
 
  そんな事はない。だいたい殺人そのものが大きな罪であるし、
  イスラム教徒の大部分は歴史的に見ても異教徒に寛容であった。
  つまり、イスラムになるというなら歓迎するが、
  異教を信じているからと言って直ちに迫害したりしない」というのが大多数のイスラム教徒の
  考え方だ。
  
  〜中略〜

  神は我らと共にある、と信じる者にしてみれば、相手と共にあるのは、
  「悪魔しかいないこと」

  になるのだから、大義名分は立派に成立するのである。

  ただ、相手側とて、自分たちと神は一体だ、と信じているのだから、問題はややこしくなるのだ。

  お互いに神の後押しを受けていると信じている者同士がぶつかるほど、禍を後に引く争いはない

  日本流の「話し合い」など、一切通用しない世界なのである。そして肝心な事は、
  かつては世界中で、この「神は我らと共にある」と信じるもの同志の戦いが行われていた
 
  ということだ。

  (こういう観点から、捕鯨問題について 世界的視野に立って考察していけば、
    おのずと、答えは出てくるはずなんですけど、、、

   捕鯨問題について 捕鯨賛成論を述べている人間の多くが 極右の人間だから、
   
   という理由だけで、主張の正当性を吟味しようともしない人たちには 何言っても
   しょうがないのかもしれません、、、
   ノルウェーやフィンランドの主張の内実を まともに検証してみればいいのです、、、)

   

3 人類の歴史始まってこの方、「来世」に行ってかえってきたという人は、

  伝説上の存在を除けば実は「いない」のである。

  臨死体験というのはあくまで「この世」の出来事であって、見てきたものが本当に
 「来世」かどうかは、実は誰も証明できない。

  そういう認識から言えば、信長にとって本願寺などは、「巨大なまやかし」に見えたことだろう

  「来世」に「極楽浄土なるものが存在し、阿弥陀如来を信仰すれば、其処に生まれ変わるなどという  教えは、
  信長にとって決して認めることの出来ない教えであったはずだ。

  但し、それでも一向宗の信仰の自由を認めていた、つまり、一向宗宗徒を全滅させる事は
  なかったということを忘れてはならない

  では、信長教の宗旨は何か?

  「商売繁盛、延命長寿、子孫繁栄、家内安全、病気平癒、心願成就」
  現世利益である

  現実に安土城、城下町を築き、楽市、楽座政策で日本を繁栄に導いている俺をこそ
  信じて敬うべきだ、というのが信長の考えだったのだ。



4 「ある特定の人物の直系の子孫を神聖なるものとして崇拝する」

  これこそ天皇制の基本となる考え方で、現代風に言えば、「血縁カリスマの継承体制」と
  いうべきか。

  本願寺はこの一種の擬似天皇制によって、日本最大の宗教勢力に発展したということだ

  つまり、歴史全体を広い視野で見るならば、本願寺は天皇制に取り込まれた、ともいえる。

  だからこそ、一向一揆は決して天皇制を否定する革命理論にはなりえない。

  天皇家を否定する事は、「血縁カリスマ」の否定であり、それは、本願寺宗主体制の否定に
  つながってしまうからである

  こうなれば、まさに顕如の時代に本願寺が、准門跡となったのも、当然の帰結である、といえよう

   准門跡とは、仏教界における「名誉皇族」すなわち天皇家の一員ということなのだから

 
  そして、もっとも大切な事は、本来の阿弥陀信仰(仏のマイには全て平等)の原理とは
  明らかに矛盾する擬似天皇制をとった本願寺に、阿弥陀を信仰する人々の大部分がはせ参じた、

  ということだ。

  つまり、日本においては、天皇制の方が、外来宗教である仏教よりも、はるかに強い、
  ということでもある

  (実にこの部分は最重要です。胴体力における伊藤昇先生を、「天皇」に置き換えて

   事実を追っかけていけば、実に面白い分析結果が得られるでしょう。)

5 本能寺の変の真相


 今のところ私は、これは光秀の発作的な単独犯行で、黒幕などいない、と考えている。
 
 なぜなら、もし単独犯でなく、計画的犯行であるならば、

 嫡男信忠にも、一斉に軍勢を向けていなければおかしいはずなのだが、全くそれをしていなかったこと

 また、毛利勢、北条勢、上杉勢などとの事前連絡も全くなされていなかったこと、

 その後の朝廷にたいする対応なども、全て後手に回っていたこと

 の、三点である

 ( 5 の 上記部分は、井沢先生の説を ブログ作者が要約)


 

1 中国史も朝鮮史も日本史も、自国の美点だけを取り上げ、欠点は隠すという傾向がある。
  特に儒教世界ではこの傾向が強いし、日本もそういうところは数多くある。

  だが、自国の欠点に目をつぶった歴史は、単なる自慢話であり、価値がない。
  だから、私は少なくとも大人向けの歴史では中華思想の欠点も、日本人の欠点も、容赦なく
  書こうと思っている。

  〜中略〜
  
  豊臣秀吉が朝鮮から多くの陶工を拉致してきた事は、よく知られているが、あれはあの時だけの
  ことではない。日本人倭寇はしばしば技術者を、あるいは単純労働力としての人間を
  日本へ強制連行しているのである。

  そして、何故これがわかるかというと、中国も朝鮮も、
  しばしば日本へ使者を送り、倭寇の取締りと、拉致者の返還、を要求しているからである。
  
  日本政府(鎌倉幕府や室町幕府)も、国力が充実している時は誠実に対応している。
  たとえば高麗から日本人倭寇の略奪、拉致で抗議を受けたときの鎌倉幕府は、
  直ちに犯人を逮捕し、  高麗の使者の元、これを死罪に処している


2 あまり他の歴史家が指摘していないことを言おう。〜中略〜

  日本人にとって、舶来品=高級品なのだが、鉄砲に関しては本場のポルトガル製を珍重はせず、
  すべて国産の鉄砲を使っていた。

  あの「南蛮大好き」の織田信長ですら、「俺の鉄砲は舶来物だぞ」とは言わなかった。
  戦争だからである

  戦争をしている以上、兵器は出来るだけ優秀なものを使わないと命に関わる。
  そのギリギリの選択の中で選ばれたのは、決して舶来ものではなく、国産の鉄砲だった。

  今でも世界の古式銃の大会では日本製の評判が高い。それぐらい日本の技術は優秀だったのである。

3 日本人はやはり多くの外国人、これは単にアメリカやヨーロッパだけでなく、アジアも含むが、
  彼らとは違った考え方をする民族だということである。

  世界で何億人もの人が見て、なおかつビデオという証拠も残っているのに、
  「疑いようのない判定、 抗議するのは横暴だ、相手は弱いから負けたんだよ。
   本人もそれを認めているじゃないか」と開き直る人間が居る。

  いや、それがふつうだ、ということである

  〜中略〜

  「シノハラ・ケース」として、
  「外国では客観的に見て明らかに相手に非がある場合でも、あらゆる強弁あらゆる屁理屈を
   並べ立てて反撃してくる」から、
   決して引き下がってはならないし、相手を利するような無用な行為は慎むべきだ、という
   教訓とした方がよい。

4 当たり前の話で、中国にもアメリカにも、もちろん日本にも、残虐な人間はいつの時代にも
  存在する。

  だが、問題はそれを外から、民族の象徴として一般化する傾向がある、ということだ。

  たとえば、黒人が犯罪を犯すと、だから黒人は差別されるべき劣等人種だ、などと
  声高に主張するような輩のことである。これが、どんなにとんでもないことか、
  いまさら説明する必要もないだろう。
  
  ただ注意すべきは、こういうことを主張する連中の心の中にあるのは、
  「自分たちの人種が絶対正しい」という思い込みである。それがあるからこそ、
  相手の失点を見つけると、声高にそれを言い立てることになる。

  現に、イギリス人下スチュワーデス、ルーシーブラックマンさん殺害事件に関して、
  ニューヨークタイムズが、日本人男性を過剰に一般化した事件が起こった、、

  国際社会では、このような事件があった場合、直ちに反論しないと、中傷が、定説になってしまう
  それを喜ぶ人々が現代でも、世界には大勢いることを、「ナイーブ」な日本人は
  肝に銘じるべきだろう

 (英国人女性殺人事件と インテリジェンス  
  http://blogs.yahoo.co.jp/nsi444/47374014.html を、参照してください)

5 私は9条改正論者だが、だからといって、昔の進歩的文化人のように、自分の定説に
  都合のいい事実を強調し、そうでないことは隠すような卑怯な真似はするつもりはない。

  軍隊は戦争が仕事だ。戦争はまかり間違えば死の危険がある。だから兵士に対しては
  十分な報酬を与えなければ機能しない。

  ところが、そう入っても十分な報酬を与えるなどということはきわめて困難な場合が少なくない。

  遠征するだけでも費用はかかるからだ。

  そこで歴史上、軍隊の長は、この年を落とせば自由に略奪、暴行していいぞ、という指令を
  出すことがある。つまり、それが、報酬なのである。

  中国では近代に至る前、これが当たり前だった。いや、中国に限らずローマや日本もそうだ


6 日本には、騙しの文化、がない。簡単に言えば、「騙すのは当然、騙される奴はバカ」
  という文化である。

  〜中略〜

  これは、ディベートともつながっている。外国の討論授業では、
  わざわざ普段の主張と反対のことを語らせたりする。たとえば、原水爆絶対反対、の人間に、
  賛成派、として意見を述べなさい、と指示したりするのである。

  日本人は、とんでもない、不真面目だ、と思うかもしれないが、これは日本人がよく口にする
 「相手の身になって考える」ということでもあるのだ。

  そして、そうしたほうが複眼でものを見られる場合がある。
  日本人が、相手の身になって、
  という場合は、
  
 「相手と感情的に一体化する」という意味だが、

  アングロサクソンはむしろ、
 
  「相手の論理を知る」という形になる。
 
  民族的な特徴なのだから、どちらが正しいというものではけっしてないが、
  國際試合に強いのは、やはりアングロサクソン流だろう

7 戦国大名の軍団が、農繁期には動けない理由

  (当時の農業は)まったく機械化されていない。全部手作業である。灌漑用のポンプもない、
  せいぜい水車があるだけだ。農薬も除草剤もない。これがないということは

  「全部が有機栽培で、
  害虫にはやられっぱなしの上、草取りなども全部人力でやらねばならず、
  生産性はがた落ちになる」  ということだ。

  刈り入れも脱穀も全部人力だ。しかし、食糧を輸入するなどということは、制度もないし原資も
  ない。

  この、今よりずっと重労働である農業に、多くの質の高い労働力(青年や壮年の男子)を
  貼り付けておかないと、その国は一年で滅亡の危機に瀕することになる。

  こういう事情を知れば、なぜ、兵農分離しないのか、という疑問が、一種の「愚問」であるという
  ことがわかるだろう。

  答えは、そんなこと、やろうと思ってもできない」ということなのだ。

  むしろ、本来なら、兵力となるべき青年、壮年男子の大半が必死になって農作業をした結果、
  おそらくは一割程度しかいない高級武士が、ようやく政治や軍事に専念できる
  (農作業をしなくていい)というのが、実態なのである

  そうすると、戦国大名の軍団について、ひとつ大きな原則が成り立つことがわかるだろう。

  武田信玄であれ、上杉謙信であれ、毛利元就であれ、戦国大名の軍団は農繁期には動けない。
  言葉を変えていえば、

  「農繁期にしか戦争ができないのが戦国大名の実態だ」 ということだ。

1 、、これだけ日本の政治、経済、社会のシステムがボロボロになったにも
  関わらず、その事実が政治のリーダシップの欠如、金融不安、教育崩壊といった形で
  国民の多く認識されているにもかかわらず、人々は動こうとしない。

  日本人が 「特に」  だらしがないのではない。

  日本人に限らず、人類は 尻に火がつかないと 動き出さない動物なのである。

  大不況とはいえ、多くに日本人は食うのに困っていないし、海外旅行へ行く余裕もある

  こういう人々が「革命」に立ち上がった例は人類史上一度もない。

  もし、「今、日本で期待できる人材があるか?」といえば、

  むしろバブル崩壊でリストラされた人々かもしれない


2  現代の歴史家は個人の役割を非常に低く見るので、学者たちは、「惣国の崩壊」を

   社会的条件や構造上の不備を理由とするコトが多い。

   もちろん、それもあるのだが、私は「惣国」がわずか八年の寿命しかなかった最大の
   理由の一つに、カリスマ的リーダーの不在を挙げたい。

   組織というものは、今も昔も人が動かすのである。鎌倉時代末期のように、制度疲労が
   進んで、いかんともしがたい状態の時でも、
   やはり、「経営者」の質で、状況は変わる。

   野球で言えば、監督が変われば、選手に全く優秀な人がいなくても、多少成績が
   上がるコトがあるのと、同じコトである

  (この状況を端的に示しているのが、現在の中日ドラゴンズでしょう。
   私は、ドラゴンズファンでは全くありませんが、

   落合監督の「選手鑑識眼」と
   「采配」は、実に素晴らしいと思います、、

   それは、「結果が出ているから」では、全くなく、むしろ
   「結果が出ないときの理由」が、明確になるような采配をしているからです。
   
   指揮官に 明確な意図があり、それがあらかじめ伝えられていれば、
   結果がどうあれ、指示を受けたほうも納得がいくし、
   次の機会にも つながるんですけど、、、
   何の指示も、ビジョンもないところでは、全く責任というものが発生せず
   うやむやになってしまいます、、

   現代日本の状況というのは まさに、これでしょう。
   余談ですが、、
   
   今回の長野県知事選挙で、田中康夫 現知事が 落選し

   仮に、アンチ田中派の候補者が当選してしまったら
   誰も、「まともに県知事をやろう」などとは思わなくなるでしょう、、 

   県が抱えていた借金を 就任以来 47都道府県で唯一減らし続けていて
   かつ、教育予算や 福祉予算を充実させ  しなの鉄道などの第三セクターの
   赤字を解消してきた 人間を

   選挙で 落とすというコトは、、、「まともなことをやるな!」ということなのだから。)
  
3 宗教人というものは、エネルギーに満ちた人が多いが、蓮如ほど それが感じられる人も 
  珍しい。
  その「怪物ぶり」は、「子作り」に、如実に示されているといっていい。

  蓮如は八十五年の生涯の間に、妻五人を娶り、十三男十四女つまり 27人もの子供を作った。

  五人の妻はいずれも  「正妻」 である。


4 、、、住民の一人が 数学上の画期的な定理をハッケンしたとしよう。
  しかし、それを記録する方法がなければ、その発見はその住民の死とともに
  葬り去られてしまう。

  別に数学の定理に限られない。料理のレシピのような情報でも、それを記録する
  方法がなければ、一代で絶えてしまう。

  部族の歴史とか先祖の業績のようなコトなら、何とか口承で代々伝えるコトが
  できない訳ではないが、その情報蓄積量はきわめて限定されてしまう。

  そこで、人類が考え出した記録方法が、「文字」だったのである。
  文字に記録しておけば、その情報は次世代に受け継がれていく。

  「ピタゴラスの定理」のようなものも、文字に記録しておけば、消えない。

  次世代の人間は 「そこから!!!」スタートできる。
  
  そして、ユークリッドがそれを集大成して「幾何学原本」を作るコトも出来たのだ。

  (ここが、実に大切なところで、とにかくも、不完全な形にせよ、
   「胴体力とは 結局 何なのか?」の 概略を 遺しておけば、
  
   誰か後世の 人間が 検証するコトが 可能なはずなのです、、
 
   その点に 私は 賭けている んですが、、、)


5 厳格に限定された条件 の下で、技術を競うという「技術オリンピック」であれば、
  日本民族は絶対に負けない。

  しかし、逆に言えば 日本人はいったんルールが変更されると、そのルールに適応するコトが
  苦手である、、とか

  始めからルールを無視したところで生まれる天才的発想が苦手である、というようなことだ。


 
  

逆説の日本史 7です。

ちなみに、前の記事を見ていただいてもわかるとおり、

このブログにおいては、テーマ「逆説の胴体力」に沿った部分しか
引用、解説しません。

その点、どうかご了承ください。

では、どうぞ。

1 プロ同士の将棋、つまり専門棋士の対局では、終了後、「感想戦」というものをやる。
  これは、対局中のさまざまな一手(決断)について、「ああすればよかった。」
  「イヤ、それならこうする」と、対局者が感想を述べ合うことを言う。

  つまり、「IF」の検討だ。当然、勝敗はくつがえらない。
  「歴史にイフはない」と、主張する歴史学者たちは、「つまらないことをするものだ」と
  嘲笑するかもしれない。
  しかし、それをやってこそ、次の対局にそれが教訓として生きる。
  だからこそプロ棋士たちは必ずそれをやる。

  「過ちを繰り返さぬ」ためには、そういう知的作業がもっとも大切なのである。

  歴史上の人物に対して、「あの決断は勇断だった。」とは簡単に言えるが、
  では、「どうすればよかったのか?」を言うのはきわめて難しい。
  
  しかし、困難だからといって放棄していたら、せっかくの経験が全部無駄になってしまう。
  
  歴史を生かすためには、「感想戦」が、不可欠なのである。
  それでこそ本当の意味の「財産」になる。

 (この「現代日本における 身体論の無惨さ を物語る感想戦」
  のための、一資料として、遠ーーい将来 役に立つことを
  願って、このブログを書いているようなものです、、、
   
   http://blog.livedoor.jp/nsi333/archives/50008746.html  )


2 天才とは新たな標準を生み出すものと定義してもいい。

  (この意味で、伊藤昇 先生は、まぎれもなく天才だったわけです。
   ただ、その基準、標準が定着していないために、埋もれさせられているだけで、、
   
    http://blog.livedoor.jp/nsi333/archives/50008746.html   )


3 では、平和の確立のためには、一体何が必要か?
  
  それは絶対的権力の確立なのである。
   
  意外に思う人は、これまで受けた歴史教育のどこかがおかしいと思ったほうがいい。

  というのは、これはよく考えれば中学生でもわかる理屈だからだ。
  戦争はどんなときに起こるのか?
  それは、南北朝時代や戦国時代のように、国に絶対的な権力者がいないときなのである。
  
  たとえば、南北朝時代とは、天皇という最高権威が世の中に二つある、という状態である。
  当然、政府も二つある。
  武家の中で相続争いが起こったとしよう。
  
  絶対的権力者がいる時代なら、その権力者が裁断を下せば、それで争いは終わる。
  仮に、武力を持って反抗しても鎮圧される。
  
  ところが、権力が二つあればどうか?一方が甲につけば、他方は乙につく。
  いつまでたっても「裁断」は下されないから、争いは半永久的に続く。

  イヤ、現代の学校ですら、教室の中で先生が何の注意も指導もしなかったら、
  たちまち教室は「戦国時代」になるだろう。
  
  当たり前のことなのである。

  その当たり前が なぜ理解できなかったのかといえば、今の学校の「歴史教育」なるものが、
  歴史つまり「過去の事実」を教えるということよりも、反権力とか、反国家という思想を
  注入する道具にされてしまっているからだ。

  だから冷静に考えれば中学生にもわかる理屈が見似つかないということになってしまうのだ。

 (ここが、実に問題なんですね、、
  
  筆者は、イラク戦争そのものには、全く反対で、正当性は ほとんど無かった、と考えています。
  ただ、今現在、イラクの人々は、フセイン政権後の無秩序無政府状態に 
  放置されたままです、、、
  
  そして、イラクの人々は、最悪な劣化ウラン弾の後遺症に苦しめられています。
  
  この無政府状態をきちんと秩序あるものにするには、絶対的な力が、必要不可欠でしょう。
  
  残念ながら、この無秩序状態を何とかする圧倒的力を持っているのは、今のところ米軍だけです。

  もちろん、アメリカが自分で勝手にやったことで、マッチポンプじゃないか!!
  という批判は、実に正当で、まったくそのとおり。

  しかし、新生イラク軍だけで、ちゃんと秩序が保てるんでしょうか?
  そもそも、新生イラク政府なるものが、地域エゴの寄せ集まり状態になってしまっている
  今、本当にイラク政府に丸投げしたならば、
  クルド人自治区を筆頭に、猛烈な勢いでバラバラになってしまうでしょう。
  
  なんというひどい絶対矛盾でしょうか、、、、        )

1 オウム真理教が悪用した「魔境」

オウム信者の中に、麻原の指導の下に修行していたら、光明が見えたり、妙なる音楽が
聞こえたという人々が居る。

これを嘘だと思ってはいけない。

人間は、本当に苦行を積めばそういうことが見えるようことがあるのだ。
しかし、一般の人はそうは考えない。

「邪教には 薬の使用でもない限りそんな現象は起こるわけがない」
と、思ってしまっている。

ここで声を大にして、それは大きな間違いであると申し上げたい。
しかも、それは社会的に有害な考え方である、ということも、だ。

「生身の人間が解脱できるなど、ありうることではない。
 だが、幻覚はある。
 禅やヨーガの修行をするうちに、にわかに光明を見たり、爽快な気分になったりする。
 それは悟りではなく、禅では

 魔境

 とされていた。
 それを錯覚させないように、禅宗各派では、お師家さんという練達の指導者がいるのである」
 (司馬遼太郎)

 つまり、本当は、その宗教が邪宗であろうとなかろうと、一定の条件の下に
 悟り と錯覚するような現象(幻視 幻聴など)は、起こりうるのだ。

 これが事実であり、常識なのだが、そうではなく、
 「そういう現象は高級な宗教でしか起こりえない」と、誤った常識を信じていたら
 どうなるか?
 麻原のような人間の下で、そのような現象を体験した人間は、
 「これは正しい宗教だから、こういう現象が起こったのだ」と、思い込み、
 ますます心酔していくことになる。
 
 だからこそ、宗教と幻覚についての正しい常識を知らない人間が、怪しげな集団に
 取り込まれ、しかもそれに全く気が付くことができない、という現象が起こるのだ。

 (まったくこのとおりで、言葉もないですね、、
  身体論において、「内部感覚だけ」を語る人間は、だからこそ、
  信用してはいけないのです。
  
  出来ている人間は、そのような錯覚ばかりの人たちがほとんどであることが
  骨身にしみているので、全く語らない、
  語るとしても、
  客観的に確かめられる物差しを、必ず数個は提示します。
  そうしないと、単に勘違っている人々に関わってしまうからです、、、、)


2 日本を「自力近代化国家」にした、禅宗の思想

ごく簡単に言ってしまえば、日常生活の様々な雑事、例えば洗濯や掃除なども、
すべて「修行」である、という思想である。

当然、「日常生活の中に悟りにいたる機縁(きっかけ)がある」ということにもなり、
どんな仕事であろうと、悟りのきっかけになりうるのだから、肉体労働に対する蔑視の目は、
他の国と比べても、かなり緩やかなものになる。

今日でも禅寺に入ると、布団の上げ下ろしから全部やらされる。
炊事のように交代で行った方が便利なものは当番制だが、それでも必ずやらされる。

しかし、このような思想は、古代社会、特にアジア全体から見ると、きわめて珍しい発想なのだ。

古代社会の常識は、「貴人は、自分のことも召使にやらせる」である。
つまり、自分のことを自分でやる人間は、身分の低い、卑しい者とされていたのである。

(この思想こそが、日本の世界に誇りうる特徴である、と、私は考えています。
 
 日本以外のほかの国、例えば、韓国、台湾、中国で、AV男優(ポルノ俳優)の
 恋愛指南の本が売れたり、人生相談に雑誌で答えたり、することが、ありえますか?

 他の国で、遺体処理の仕事を書いた本が、新書本として、一般人向けに発行されますか?
 
 ず〜っとエキストラ俳優を続けてきた人間のドキュメント本が、出版されて採算が取れますか?

 このような現象が起こる大本は、「すべての仕事は悟りへの修行である」というところに
 あるはずです。                                  )


3 布教の法則

優れた思想が、「そこにある」ということと、「それを広める」ということは、全く別のことである。

「宣伝しないものは存在しない」というマスコミ格言?がある

日本人はこういう考え方が大嫌いだが、歴史を現実的な目で見ればむしろこちらの方が正しいとさえ
いえる。

そして、布教のために必要なことは、現実との妥協、である。 

教祖そのものが考えていた純粋な教えを、曲げることになるのだが、それによって、

信者が増える、つまり、一般の人間に広まっていくことになるのだ。


4 元寇の時、朝廷は何をしていたか?


日本が元寇で、元に勝てたのは、

武士団が団結して現実に防備に励んだこと、
敵軍の編成が騎馬軍団ではなかったこと。
これに、偶然の二回の暴風雨により、元軍に壊滅的なダメージが生じたこと

の、三点が主たる要因であった。

では、朝廷は、現実に戦った武士たちに、恩賞を与えたのか?

コトダマイストの、天皇家を頂点とする朝廷は、全く与えなかったのである。
では、いったい彼らは何をしていたのか?

当時の上皇、亀山上皇は、福岡の箱崎八幡宮に「敵国降伏」の、額を奉納しただけであった!

コトダマイストにとっては、「言葉に出せば実現する」のだから、
神の子孫である天皇(ここでは上皇)が、その実現を神に奉納すれば、それが実現することに
なるのだ。

敵国降伏、と、いかに祈ろうと、現実には敵軍が船団で上陸してくるのだから、
兵を配置するなり防塁を構築するなどしなければ、敵は「降伏」しない。

同じように、いくらプラカードに「世界平和の実現」と書いて行進しようと、
現実には紛争中の国が世界中にあるのだから、例えばPKOや、相互防衛条約の締結など、
具体的な行動を起こさないことには、「平和」は、実現しない。

戦前の軍国主義教育も、戦後の平和主義教育も、中身は全く違うように見えても
内実は同じだということだ。
コトダマイズムであり、リアリズムがない、ということなのだ。

(腰腹文化 と、声に出して読んでも、 現実には胴体が全く動いていないのだから、
 
 例えば 胴体力トレーニング、日常生活での股関節の捉え歩行などで、
 現実に胴体の癒着を取って行く事により、
 骨盤と肋骨をきちんと分離し、腰とハラを作っていかない限り、腰ハラ文化は
 実現しない。

 にもかかわらず、スローガンだけは唱え続けている。

 これが、日本の(「ワ」の)身体理論、身体文化界における、コトダマイズムの表れです。) 
 

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