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1「『本』というものは、
『他人の世界観を目の前にして、それを理解するために自身の世界観を修正する』
というような、とんでもなくめんどくさいものでもある。
『学ぼう』という意志、『自分はこれを学ばなければならない』と思う謙虚さがなければ、
『本を読む』ということは可能にならない。
『本を読む』には、そういう厄介さが中心にある。
だから私は、『読書の楽しみ』などと言われると、引いてしまう。
私にとって『本を読む』は、『自分の知らない世界観につきあう』で、『それを学ぶ』だから、
とんでもなくしんどい。
『学ぶしかないか』とあきらめて、それが可能になるような態勢作りをするのに、
とんでもない時間がかかる。
『楽しみ』などというものがあるのだったら、その苦労を覚悟した先のことだ。
本を読む人間の数が減ってしまったから、『読書の楽しみ』をアピールしようとするが、
読書がそう簡単に楽しいはずがない。
『楽しいから本を読もう』とか『おもしろいから本を読もう』とアピールする前に必要なのは、
『楽しむにしろなんにしろ、人生はまず学ぶことを必要とする』というアピールだ。
本を読むことがもっぱらに『楽しみ』である人達は、読むことが苦にならないものばかりを
もっぱらに読む。
そして、『本を読むことは勉強だ』と思う人の多くは、
『本を読んで勉強していた過去』ばかりを頭に置く。
『私は過去において本を読んで、もう出来上がってしまっているので、今さら本は読まない』
という大人は、いくらでもいる。
『本』というものは、『異質な世界観と出喰わす衝撃』でもある。
その『衝撃』を、『学んで意味のあること』と位置付けないと、本なんか読んでも、
なんの意味もない。
『本なんか読まなくても大丈夫』と思う人達は、
自分の中の『出来上がってしまった世界観』だけで、なんとかやっていける人達なのだ。
そして、現代ではそこから問題が生まれる。
なにしろ、イラク戦争は、『異質な世界観のぶつかり合い』でしかないからだ。
私は、現在の問題の多くが、『異質な他人に対する想像力の欠如』を
原因にしているとしか思えない。
そういう意味で、『他人というテクストを読む』が出来にくくなっているのだが、
それはつまり、『本をちゃんと読めない』と同じなのだ。だからこそ、『本は要る』のだ
2 「論理の矛盾」を指摘されなかったら、論理の「矛盾」に気がつかない
さらには、論理の矛盾 ということが存在するのかどうかさえも、気がつかない
それを気づかせるのが、教育というものである
そういう教育は、あるのか、ないのか?
「あなたの言うことには矛盾がある」 と言って、その相手から、
「そんな事いったって、言うのは個人の自由だろう?」と、言い返されてしまったら、
多くの人は、言葉を失う
残念ながら、そういう日本の現状はあるだろう
では、何故、言葉を失ってしまうのか?
その理由の第一として考えられるのが、
「どこがどのように矛盾していて、矛盾していない というのはコレコレ然々のことだ」
と、指摘するのが、難しいということである。批判はしたが、批判した人間の頭がよくないと、
こういう事になる
もう一つの理由としては、
「相手のレベルの低さに愕然として、言葉を失ってしまう」
が ある
「そんな事いったって、言うのは個人の自由だろう」は
「論理矛盾とはなんなのか?」を理解しない人間の発言である。
「自分のいっている事はめちゃくちゃで、論理として破綻しているーそれでもかまわない」
で、発言を続ける人間に
「他人との論理的調和」は 訪れない
そこに「個人の自由だろう」がついたら、たまったもんじゃない
なんで、そんな人間は登場しうるのか?
私は「そういう人間たちは 何バカなこと言ってるんだ!
という批判 に 遭遇したことがないんだろう」
と思う。
3 かつては、「中心を貫く縦軸」としてあったものが、その支配的あるいは優越的なポジションを
失ったという事は「横軸方向に紛れ込んだ」ということでもある
つまり「大衆社会の到来によって、かつての教養主義は古くなった」とは、
「かつて縦軸として存在していた古典的な教養体型が、横軸の一点 まで 堕ちた」
ということである。
それを、我々はとても卑近な例として知っている
つまり
「友達のような親子」である。
「親が子を育てる」という、縦軸的な営みは 「親と子が友達のようになる」というところで
解消してしまう
「かつては縦軸として存在していた支配的な座標が 横軸の一点 に 堕ちる」とは
このことである
「友達のような親子でどこが悪いか?」という考え方もあるが、
「友達」なら、「友達」でいいのである
「友達」でしかないものの中に、時々「親子」という縦軸の関係をちらつかせるのが困るのである
友達なら、相互、で、横軸である
しかし、「親子」は「親が子を育てる」という位相を持った「縦軸」である
本来「縦軸」であらねばならないものが、その義務を放棄して「横軸」の中に紛れ込んでもいいものか?
「親が親らしくないから、子供がしっかりせざるを得なくなった」は、古来いくらでも例のあること
である。
そして、そういう「古来いくらでもある例」は、往々にして幸せな結果をもたらさない
親らしくなくて、自分の子供を「子供の概念を超えるもの」としてしまった親は、
その「一人前以上」になってしまった子にたいして
「親だから」という理由を立てて、たかることが多いからである
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