逆説の胴体力(重心力) 2 重心集約力は 筋力ではない

胴体力は 身体運動の 「読み」「書き」「そろばん」です

橋本治!

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1「『本』というものは、

『他人の世界観を目の前にして、それを理解するために自身の世界観を修正する』

というような、とんでもなくめんどくさいものでもある。

『学ぼう』という意志、『自分はこれを学ばなければならない』と思う謙虚さがなければ、
『本を読む』ということは可能にならない。

『本を読む』には、そういう厄介さが中心にある。

 だから私は、『読書の楽しみ』などと言われると、引いてしまう。

私にとって『本を読む』は、『自分の知らない世界観につきあう』で、『それを学ぶ』だから、
とんでもなくしんどい。

『学ぶしかないか』とあきらめて、それが可能になるような態勢作りをするのに、
とんでもない時間がかかる。

『楽しみ』などというものがあるのだったら、その苦労を覚悟した先のことだ。

 本を読む人間の数が減ってしまったから、『読書の楽しみ』をアピールしようとするが、
読書がそう簡単に楽しいはずがない。

『楽しいから本を読もう』とか『おもしろいから本を読もう』とアピールする前に必要なのは、

『楽しむにしろなんにしろ、人生はまず学ぶことを必要とする』というアピールだ。

 本を読むことがもっぱらに『楽しみ』である人達は、読むことが苦にならないものばかりを
もっぱらに読む。

そして、『本を読むことは勉強だ』と思う人の多くは、
『本を読んで勉強していた過去』ばかりを頭に置く。

『私は過去において本を読んで、もう出来上がってしまっているので、今さら本は読まない』

という大人は、いくらでもいる。


『本』というものは、『異質な世界観と出喰わす衝撃』でもある。

その『衝撃』を、『学んで意味のあること』と位置付けないと、本なんか読んでも、
なんの意味もない。


『本なんか読まなくても大丈夫』と思う人達は、

自分の中の『出来上がってしまった世界観』だけで、なんとかやっていける人達なのだ。
そして、現代ではそこから問題が生まれる。

なにしろ、イラク戦争は、『異質な世界観のぶつかり合い』でしかないからだ。

 私は、現在の問題の多くが、『異質な他人に対する想像力の欠如』を
原因にしているとしか思えない。

そういう意味で、『他人というテクストを読む』が出来にくくなっているのだが、

それはつまり、『本をちゃんと読めない』と同じなのだ。だからこそ、『本は要る』のだ


2 「論理の矛盾」を指摘されなかったら、論理の「矛盾」に気がつかない

 さらには、論理の矛盾 ということが存在するのかどうかさえも、気がつかない

 それを気づかせるのが、教育というものである

 そういう教育は、あるのか、ないのか?
 「あなたの言うことには矛盾がある」 と言って、その相手から、

「そんな事いったって、言うのは個人の自由だろう?」と、言い返されてしまったら、
 多くの人は、言葉を失う

 残念ながら、そういう日本の現状はあるだろう

では、何故、言葉を失ってしまうのか?
その理由の第一として考えられるのが、

「どこがどのように矛盾していて、矛盾していない というのはコレコレ然々のことだ」

と、指摘するのが、難しいということである。批判はしたが、批判した人間の頭がよくないと、
こういう事になる

もう一つの理由としては、
「相手のレベルの低さに愕然として、言葉を失ってしまう」

が ある

「そんな事いったって、言うのは個人の自由だろう」は

「論理矛盾とはなんなのか?」を理解しない人間の発言である。

「自分のいっている事はめちゃくちゃで、論理として破綻しているーそれでもかまわない」

で、発言を続ける人間に

「他人との論理的調和」は 訪れない

そこに「個人の自由だろう」がついたら、たまったもんじゃない

なんで、そんな人間は登場しうるのか?

私は「そういう人間たちは 何バカなこと言ってるんだ! 
  
  という批判  に 遭遇したことがないんだろう」

と思う。


3 かつては、「中心を貫く縦軸」としてあったものが、その支配的あるいは優越的なポジションを

失ったという事は「横軸方向に紛れ込んだ」ということでもある

つまり「大衆社会の到来によって、かつての教養主義は古くなった」とは、

「かつて縦軸として存在していた古典的な教養体型が、横軸の一点 まで 堕ちた」

ということである。

それを、我々はとても卑近な例として知っている
つまり
「友達のような親子」である。

「親が子を育てる」という、縦軸的な営みは 「親と子が友達のようになる」というところで
解消してしまう

「かつては縦軸として存在していた支配的な座標が 横軸の一点 に 堕ちる」とは

このことである

「友達のような親子でどこが悪いか?」という考え方もあるが、

「友達」なら、「友達」でいいのである

「友達」でしかないものの中に、時々「親子」という縦軸の関係をちらつかせるのが困るのである

友達なら、相互、で、横軸である

しかし、「親子」は「親が子を育てる」という位相を持った「縦軸」である

本来「縦軸」であらねばならないものが、その義務を放棄して「横軸」の中に紛れ込んでもいいものか?

「親が親らしくないから、子供がしっかりせざるを得なくなった」は、古来いくらでも例のあること
である。

そして、そういう「古来いくらでもある例」は、往々にして幸せな結果をもたらさない

親らしくなくて、自分の子供を「子供の概念を超えるもの」としてしまった親は、

その「一人前以上」になってしまった子にたいして

「親だから」という理由を立てて、たかることが多いからである
  

ぼくらの 最終戦争(ハルマゲドン) です。

では、どうぞ


合わせて、下記のページを読んでください
「日々平安録 橋本治」
(この方、ものすごい読書量と 洞察力の塊です、、、最近見つけてびっくりしました)
http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20050522/1145166990



1 まあ、実のところを言えば、
  「人間はいつ自分の人生がチャラになっても いいような覚悟をして
   生きていかなければならない」

  ということが忘れられたのは、ここ 二、三十年ばかりのことで、
  
  「いつ自分の人生がチャラになってもいいような覚悟をしろ」

  は、人類の歴史の中では、いたって当たり前の基本態度のようなもの

  だった。

  都が廃墟同然にならなければ、身にしみて「大変だ、、、」を実感できかった

  鴨長明の方が、現代の我々のように、ピントはずれだったということ
  なのだけれども、、

  (つい先日 米原万里さんが亡くなられましたね、、、
   
   ホント、人間はいつ死んでも  おかしくないんです、、、
   
  下らんピントはずれに 一喜一憂している場合じゃない、、、
  そう思いませんか?

  ピントはずれは、最初から排除しとかないと、人生の持ち時間を
  
  無駄な長考に沈ませることになって、サイテーです、、、、)



2  「見る」ということは、「考えること」であり、「学ぶ」 ということだ。
  
  テレビで世界中の大事件を

  「他人事」として見て、豊かで平和な国に住む日本人は、自分の中に、
  客観性というものを育ててしまった。

  悲劇に飲み込まれない、という事は、その悲劇を「他人事」
 
  として冷静に把握している  ということでもある。
  
  自分の悲劇であっても、他人の悲劇であっても、それはおんなじことだ。

  それがたとえ、自分に起きたとんでもない悲劇,であっても、
  それを自分で
  冷静に把握し、その状況を打開するためには、まず、他人事として
  理解しなければならない。

  その矛盾に似たようなものが、自分の頭で考える という機能を
  持ってしまった動物である人間の 宿命なのだ。

  日本人はテレビを見て、大学にいくということを当たり前のようにして
  しまって、この「客観性」という高度な知能を身に付けてしまった。

  現在の日本人の最大の特色は この「知性」だろう。


3  理性を持った人間は、「自分だけの悲劇」をわめき散らして訴えることが

   「美しくないこと」だというのを知っている。
   そして、それをしてしまえば、自分に襲い掛かった悲劇を回避しにくく
   なる、ということも知っている

   だからこそ人間は、「自分自身の悲劇」を、とりあえず、「他人事」として
   処理する。

   それをする知恵こそが、人間の「知性」と呼ばれるようなものなのだ。  


4  好きで苦労をしている訳じゃない。仕方がないから苦労をしているんだ。
   
   特別な人間だから特殊な苦労を強いられている訳じゃない。
   
   当たり前の人間が、突然に降りかかってきた「不幸」を前にして、するしかない苦労を
   当たり前にしただけなのだ。
   
   忘れたらならないことはただ一つ、その不幸は、誰に対しても特殊な悲劇だと思わないことだ
   痛みを共有するということは、その悲劇を特殊な悲劇だと思わないことだ。
   
   不幸は誰にだって来る。
   
   そう思わなかったら、「自分だけなぜ?」と思ってなく人が救われないじゃないか!!

   自信の悲劇も、戦争の悲劇も、イジメにあった人間の悲劇も(不倫の恋で苦しんでる悲劇も)
   悲劇という点ではみんな同じで、
   そういう悲劇は、実は誰にでも 突然降りかかってくるものなんだ。
   
   「不幸から立ち直って、そこにたどり着きたい」 と思っている人間のたどり着いた「そこ」
   が、自分の不幸を理解してくれないようなところだったら、救いはないじゃないか。
   
   もし、そうだったら、その人間は、たった一人で、誰からも理解されない傷を黙ったまま
   抱えていなくちゃならない。


5 重要なのは、著者なんかではなくて、「その本の中にかかれてあるコト」 と、
 
  「その本を読んだコトによって生まれた「自分の心」なのである。

  その二つは一つで、その本を読んで自分が感動してしまった以上、その本に書かれているものは、
  「自分の心」なのである。
  そうでなかったら、他人の書いた本を読んで感動する なんてことは起こらない。
  そういうものを書く他人は、もういないのだ。
  自分の心を書ける者は、ただ一人、自分、だけである。

  その本を書いた、著者、という人はいたのかもしれないが、
  自分がその本に書いてあることに感動してしまったら、もうそんな著者なんか要らないのである。

  「自分の心の中をハッキリさせてくれた本」 は、自分が読んだ本 で、「自分は読んだ」
  ということだけが
  重要なのであって、それを実際に誰が書いたかなんてコトは、関係ないのである。

  自分のコトをハッキリさせたい と思う私にとって、重要なのは、
  「その本の著者がその本を書いた」という 「他人の行為」ではなくて、
  自分はその本を読んだ という、自分の行為 なのである。

  だから、感動して行き場がなくなって、それでその本の中に入り込むしかないということが、
  
  私にはよくわからない。
  感動したら、その感動を持って、自分の現実に帰っていくのが本当なんだ。

  だから、私には理解できない。
  「何で、ある種の人間は、アタマもそんなに良くないのに、平気でクソ難しいことが
   好きになって、そしてそれは、彼の現実があまりにも貧しすぎてつまんなくて、
   現実に生きていても仕方がないからで、それで
   観念の世界  なんてもんに逃避してるだけなのに、
   どうしてそれに気が付かないんだろうか?」

  自分の現実に返っていかない人間を見て、そう思う。

これも男の生きる道

橋本治 の 「あるべき男性像 ますらおぶり」読本です。


第一章  男には男の「自立」がある

第二章  日本の息子達が「自立」で悩むのは、日本の父親達が自立していないからである

第三章  「男の自立」とは、なれあいからの脱出である

第四章  大人の中の「子供」に学ぶ

第五章  「できない、わからない、知らない」を認めよう

第六章  男にとって重要なのは、「自立」ではなく「一人前になること」である

第七章  「成功への道」は遠く、そしてその道は、「なんだかわからないもの」である


 「自立とは 孤立ではなく、必要な依存関係を承認することである」

 と 河合隼雄 氏が 「こころの処方箋」(新潮文庫)で、述べていますが、

 まさにそのことが、具体的事例とともに書かれています。

 「ますらお 丈夫 益荒男」 う〜ん、、、、道は険しい、、、

 ちなみに、具体的内容は、下記のブログに詳細が引用されて いるので、

 読んでみるといいと思いますよ。

 http://blog.goo.ne.jp/seattle_gerbera/e/2370ba6e1338992e4ef29d7c6c8c0b12


こういう事やってる方もいるんですね。

しかも、女性で この本を読み解こうってのは かなり珍しい、、、、、エライ!

まず、下記の文章を読んでみましょう。



橋本治 「失楽園の向こう側」より、、、、

下記以外の文章は こちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/nsi444/36752807.html


1 日常生活の中で必要な「自己主張」を怠って、相手のエゴをいたづらに肥大させて、
  そして、自分に被害が及ぶような問題にまで深化させる。

 「問題が起こってから」 では遅くて、それが、問題にならないような形で、
  常に、自分のあり方、を相手に表明するー自己主張というのはそういうもので、

  それが自己主張なのだ、というコトを理解しないからこそ、
  コソコソとつまらない情報ばかりが繰り返されて、つまらない悩みのタコツボに

  はまるのである。


2 自己主張は、侵略を起こさせないようにする最大の方法で、
  自己主張とは、無駄な侵略を回避させる防衛の手段なのである。

  黙って他人の侵略を許していたら、そこには当然、被害が生まれる。それが、悩みになるのは
  当然のコトだが、しかし、
  「そういう問題を発生させた最大の原因が何か」と言ったら、
  
  自己主張という、防衛を怠ってきた当人のせいである。
  つまり、自己主張の必要を理解しないまま、周囲の「善」という幻想に甘え、

  結果としてすべての問題を棚上げにし続けた怠惰が、最大の原因なのである。

  その結果、「他人の横暴を大目に見て許し、自分自身に被害を引き受ける」になる。
  残念ながら、「自己主張をしている人間=図々しい」ではないのである。

  自己主張とは、他人の存在する日常の中で、
  「自分を埋没させないために行われる、地道なもの」   なのである。

  そういうものだと思わないから、日本人は自己主張が下手なのだ。

 (この「自己主張」を国家レベルに引き上げると、「外交と防衛」という素晴らしい
  問題にスライドするが、今の私にそういう高級な話をする気はしないので、しない。)


まず、1から、、、

1 は、結婚生活における 夫婦喧嘩の原因を 言い当ててるような気がしてならないんですね、、

自己主張というのは 何も「政治や経済 自己の思想信条」のような、お堅いものではなく、
細か〜い、生活習慣、日常のクセの違い、食習慣 の みぞ、
お互いの友人についての 相性の違い  子育てについての考え方 やり方の違い
洗濯物のたたみ方、、

そういう細か〜い 違いを ちょくちょく話し合うことから スタートするんですが、、、

この類のコトにつき、実際問題として、男性陣は、訓練が出来ていません、、、
意見の違いを表に出し合って、突き合わせる という のを

「うっとおしい」と、感じさせてしまう文化が 男性陣には 蔓延しています、、

ここら辺が 女性陣には 「結局私の話を聞いてくれないのね!!」になってしまって、、
「どうせ、話しても、ムダなのね!」

というドツボにはまり、、、、

タコツボ→欲求不満→不倫→エトセトラ、、、エトセトラ、、、

せっかく時代が進んでも、、こういう訓練の場がなければ、結局、前の時代の遺物に
振り回されている、、、男性陣も 女性陣も、、、

http://blogs.yahoo.co.jp/nsi444/31615676.html


いい加減 訓練不足に基づく不毛な争いは やめましょう、、、
訓練不足の原因が 日本人の文化そのものにあるのだから、そこを、フォローしましょう




2については、外交と防衛方向に、スライドします、、、

この文章の趣旨は、そのまま「日本外交の 韓国 中国に対する態度」に 
そのまま当てはまるのです。

韓国が「反日」に走り、竹島を不法占拠し、対馬を「自国の領土」だと、教科書に載せて
教育し、対馬で不法漁業をおおっぴらに行っているのは

確かに 最悪な行為です。

中国が 日本企業との契約を反故にし(スズキ自動車の工場の不許可の件)
著作権を無視してコピー商品を 大量に日本に輸出し、領事館を破壊し、
日本領海に無断で侵入する、、、

こんな無礼な行為をやっている国の どこが「礼儀の国」なのか?

しかし、このようなアホウに対して、日本が何にも「自己主張」を
言ってこなかったからこそ、

中国や韓国の横暴を跋扈させてきた訳です、、

「嫌韓流1 2」 で 主張されているコトは、きわめて当然の「自己主張」でしょう、、、

貧乏は正しい! 3

僕らの東京物語 です。

では、続きを


1 イナカの人間たちは、自分たちのイナカ性にメスを入れられることを望まない。
   だから、イナカというものは、永遠に、イナカとして放置されたまま、イナカ
  なのだ
  
  イナカの人間に、自分たちを客観視することは出来ない。イナカは、ソコが
  イナカである限り、
  
  常に「(自分に都合のいい)主観的にしか捉えられたくない場所」なのだ。」
  
  イナカの問題で一番重要なことは、自分たちのとこだけは特別だ、と思い込んでいる
  イナカ者根性を、まず何とかすることなんだ
  
  まず一般論を踏まえてから出なければ、各論は立ち上がらない。

  自分のエゴを抑えなければ、冷静な議論なんてできない。
  
  個性というのは、そのへんてこりんで身勝手な、「特殊性」を消してからじゃないと

  生まれないものなんだけどね。


2 いいかげん、田舎の人間たちは、なぜ若者は都会へ出て行くか?なんていう
  考え方を止めたほうがいい。

  問題は,イナカから出て行った若者たちが、
  イナカに「帰ってこれない」ところにあるのだから。

  何で帰ってこれないのか?それは,イナカが「他人と距離をおいてつきあう」
  ということの重要性を認めないからだ。

  他人は他人で関係ない になってしまったら、
  
  イナカを出て成長して変わってしまった若者は、もうそのイナカ=フルサトでは
  暮らしていくことが出来ない。
  
  距離を置いて他人とつきあう ということは、知らない他人と付き合う
  ということ でもある。
  
  これが出来なかったらどうなるか?

  「知らない他人とは付き合わない」
  になるし、

  「知らない他人を、自分の知っている他人 という鋳型(いがた)に
  はめ込んで、ナアナアの付き合いをする」
  
  に  しかならない。
  
  別に田舎に限らず、会社社会を典型とする日本的ムラ社会はミナ
  これなんだが、
  
  「知らない他人と付き合えない」ということは、
  (成長して今までとは違ってしまった自分の息子とも付き合えない)
  
  ということなんだ。
  
  トカイに出て成長してしまった子供は、もうイナカには帰ってこられなくなる。
  
  イナカの過疎は 若者が出て行く では無いのだ。

  若者が帰ってこない からこそ、イナカには新しい刺激が訪れなくて、
  ジリ貧の過疎になっていくのだ。

  愚かな若者が、うわっついた憧れだけ でイナカを出て行って、
  そのまま帰ってこないのなら、それは愚かな若者の責任だろう

  しかし、何かを吸収したくてイナカから出て行った若者に、帰ってくるための
  場所を
  与えないとしたら、イナカの過疎は、おろかなイナカの責任なのだ。
  
  他人のせいにする前に、少しは、自分の責任、も  考えたほうがいい。


3 世の中には、「今まで自分が知っていた人間とは違う人間」は、いくらでもいる
  
  自分たちとは違う知らない人間というのは、そういう他人たちだ。
  
  そういう違う他人の存在を頭においておかないと、自分のいうことは何でも通る
  という錯覚だけで生きていくということになる。
  
  自分のいうことは何でも通って、そしてそれがうまい通り方をすれば、ウケた、と思える。
  通れば、ウケた、だし、通らなければ、ウケない、になるんだけれども、

  世の中というのは、そんな単純な二分法で出来上がっているわけじゃない。

  世の中の人間はすべて、自分と同じような仲間 じゃないんだから、ウケる、ウケない以前に、
  
  まず、「自分の言葉が果たしてこの相手には通用するのか??」という検討が必要になる。

  自分のいうことを理解しない人間をダサい奴と切ってしまうのは簡単だけれども、
  そう言ってる自分が、
  
  「一人でわけのわかんないことを行って勝手にウケているドッチラケの奴」
  
  じゃないという保証は、どこにもない

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