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さすらい旅の途中
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書庫旅:日本の風景(関西)

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 3月31日は、春の嵐といっても過言ではなかった。この時期、冬から春へ季節が移り変わる時期には、冷たい雨がふり三寒四温を繰り返しながら、暖かくなっていくがそれは三月初旬から中旬の話である。
 ことしは、半月ほど季節の移り変わりが遅れている。
 
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 ところで、この雨は、私に昔のことを思い出させてくれた。
 息子が生まれる前の話なのだが、4月の雨の日に鎌倉に行った記憶がある。多分、今から30年以上前の頃である。
その時も、源氏山から北鎌倉へ抜けたがぬかるみに足をとられながらの写真撮影だったと記憶している。
ただ、その時は既に桜は満開を過ぎ、散り初めていた。
 話は戻るが、京都は良い。私の住んでいる地域からそんなに距離的に離れていないが、なにか外国にきた様な錯覚を起こさせてくれる。
 この京都に存在するものすべてが、私にとって非日常なのである。
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 嵐山は、清涼寺、そして愛宕街道の平野屋、化野(あだしの)念仏寺、祇王寺、落柿舎の順で拝観してきたので、これから紹介したい。

息子の居る京都へ

 3月31日朝7時に起きるとこの地方は、雨だった。しかし、本日は京都へ行く日である。そこで、いつものイングリッシュブレックファーストである朝食のパンを食べ、紅茶を飲みその後7時30分自宅を出発した。
 本日は、かなりの雨が降っているし、当分止む気配は無いが、昨年夏に拝観できなかった嵯峨嵐山の寺院と舞妓さん撮影会に参加したいために出かけることにした。
 名古屋を8時前後の新幹線に乗車した。途中、関が原の辺りの山々は雨に煙り山水画を見る様な風景がひろがっていた。
 思わず、写真を撮りたいと思ったが、この新幹線の速さでは良い写真は撮影できないと思い断念した。そして、9時17分の山陰線に乗車し、9時30分には嵯峨嵐山に到着できた。

ある秋の日に

 就職もほぼ決まりかけた大学4年生の秋に友達と写真を撮りに名古屋の郊外に出掛けた。
 特別な日ではないが、どういう訳かこの日のことは良く覚えている。
 田んぼは稲刈りが済み、畦道には彼岸花が咲いていた。
 友人が、私に社会人になったら、もう一緒に写真なんか撮れなくかもしれないなといった。
 私も、漠然とその様に思った。なぜか、この友人とは気心が知れていたし、大学は違ったがお互いの写真技術をリスペクトしていた。
 この社会人になる前のなにげない1日だが何故か頭を離れない。
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 9月29日 京都に出掛けた時の記録である。マイナーな神社であるが、その境内は、お水を汲みにくる人や写生をする人など京都の生活観がにじみ出ている。
 また、京都で有数の萩の名所とされている。私が訪れた時も、萩に多くの短冊がくくりつけられていた。

 1枚目は、二の鳥居と参道の萩、2枚目は、染井の水を汲みに来ている人々、4枚目は茶室である。

◆梨木神社(なしのきじんじゃ)は、京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。
明治維新に大きく貢献した三條實萬(さねつむ)・三條實美(さねとみ)父子を祭神とする。境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つとされる。京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうち、現存するのはここだけである。 また境内には約500株の萩が植えられており、別名萩の宮とも呼ばれており、9月中旬〜下旬には萩祭りがおこなわれる

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 石川丈山は、三河国泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)の代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた。

 現在では、日本のデンマークといわれる様に、多くの農作物が取れるこの地も、また中小の工場が点在し温暖な気候のこの地においてすら、このころは荒れ果てた地が多く石川家の暮らし向きは決して良くはなかった。

 そんな時代の中、先祖石川信貞の代に、 安祥城主松平長親に従い、祖々父信治は松平清康に仕えて和泉郷(現和泉町) を所領し祖父正信は松平広忠に、父信定は徳川家康に仕えてきた典型的な 忠義を重んじる三河武士の一族である。
父信定没後、16歳の丈山は徳川家康に仕えることになる。

 石川丈山は、一途な性格で早く功を挙げたいと思い、大叔父のもとで武芸を学んだ。
 1598年(慶長3年)徳川家康の近侍となり、その忠勤ぶりに信頼を寄せられた。大坂夏の陣に参加した際は一番乗りで敵将を討ち取って功をあげるが、この時の軍律では先陣争いを禁止していたため、論功行賞どころか蟄居の身となった。そこで武士をやめて妙心寺に入った。


1617年(元和3年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し、儒学を学んだ。文武にすぐれると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かったものの、仕官するつもりはなかった。しかし病気がちな母を養うために紀州(和歌山県)和歌山の浅野家に数ヶ月、また板倉重宗の勧めに従って安芸(広島県)広島藩の浅野家に13年ほど仕えた。母が亡くなると引退を願い出たが許されず、翌年強引に退去し京に出て相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。

さらに4年後、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(詩仙堂)を1641年(寛永18年)に建てて終の棲家と定めた。この時、洛東の隠者木下長嘯子の歌仙堂(三十六歌仙の肖像を掲げていた)に倣って、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げた。そのため凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになった。煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたとも言われ東本願寺只穀邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。 清貧を旨として学問に没頭し30数年を過ごし、90歳で死去した。なお、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、幕府の意を受けて京中の監視をしていたとの説もある。

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