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1970年 大阪万国博覧会が、大阪千里の丘陵地を切り開いた会場で開催された。当時、日本は高度成長ど真ん中。欧米先進国は、日本の発展を羨み、日本人のことを「エコノミックアニマル」と揶揄した。
思えば、1964年の東京オリンピックに次ぐ国家的な大きなプロジェクトだった。テーマは確か「人類の進歩と調和」であった。そして、町の本屋には、ガイドブックが山積みされ多くの国民がこの万国博覧会を見に出かけた。入場者数は、6400万人と当時の人口の半分以上の人間が行ったことになる。この入場者数は、上海万博が開催されるまでは1番だった。
我が家もそのブームに乗り、家族で万博を見に出かけた。自宅には、既にマイカーがあったため会場には車で乗り付けた記憶がある。
朝一番からアメリカ館に近いゲートに並びアポロ11号が持ち帰った月の石を見るためにパビリオンまで家族で走った。唯一残念なのは、カメラを持参しなかったことである。
今、実家に残っているのはパビリオンで押印したスタンプとカナダ館でもらったピンバッチぐらいだったと思う。
まあ、こんな思い出を思い出しながら、万博記念公園を回った。
太陽の塔の周りは、芝生になっており万博当時の広場と屋根は撤去されていた。そして、当時パビリオンがあった場所は、森になっており当時の面影は何もなかった。
園内には、コスモス畑があった。
15時から17時の間に、会社の用事を済ませて、自宅に到着したのは20時30分だった。
確か、家族で行った時は16時には万博会場を出て、名神高速を利用して自宅に到着したのは21時前後だったので、移動に掛かる時間も高速道路の整備と自家用車の速度アップで短縮されている。 |
旅:日本の風景(関西)
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10月27日は、大阪に出掛けた。11時に大阪なんばの駅に下車し、そこから千里中央駅に向かうことにした。思えば、大阪のなんばは1995年の阪神・淡路大震災が発生した二週間後に行った覚えがある。
その時は、雑然とした町と言う印象だったが、あれから17年という月日が流れ大きく変わっていた。当時の雑然とした繁華街はなくなっており区画整備されていた。
大阪は不景気であるというものの、私が見る限り結構活気があった。
ところで今年は、日本国内中を良く旅している。4月の上旬には、京都。GWには、山陰地方の石見銀山や境港と京都。7月には、河口湖。8月は、京都。それにお盆休みには、裏木曽のあたりに恵那。そして、東北の岩手・平泉中尊寺や山形・山寺。それに宮城・仙台。そして、関東の栃木・日光。そして、横田基地フレンドリーフェスティバル。そして、セントレアのバックヤードツアーや東京駅の開業。この1年で本州は、東北から山陰・山陽まで約10回は旅してきた。
まだ、今年は11月に京都、東京方面2回と広島へ出張するので何か実りのある1年になりそうである。
ところで、話を戻そう。
それから、地下鉄で千里中央駅まで行き、そこから大阪モノレールに乗った。
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8月13日、京都からの帰り道に滋賀県の長浜に寄ってみることにした。
石山寺見学の後、大津からJR東海道線(琵琶湖線)により米原まで行き、そこから北陸本線で長浜へ向かった。
そもそもこの長浜は、1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。
中心市街は羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備して以来の湖北地方の中心地で、長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展した。姉川古戦場など戦国時代の史跡が多く、国友は近世に国内有数の鉄砲生産拠点として栄えた。
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伏見の酒蔵と寺田屋を見学した後、伏見稲荷に行った。JR奈良線の稲荷駅で下車して先ずは駅前のコンビニでアイスクリームを購入し、それを食べた。この日は、非常に暑かったので何か冷たいものが無性に食べたかった。
丁度、夕日が傾く頃で稲荷の赤が夕日に映えて風情があった。
ひとつ問題は、伏見稲荷をなめていたことである。到着して分かったのであるが、伏見稲荷は結構広い。多分1、2時間では回りきらないということである。
それでも、行けるところまでは行ってみようと行くことにした。
大鳥居をくぐると楼門が見えてくる。
有名な千本鳥居の入り口。中国人が記念写真をづ〜としていたので、中々良い写真が撮れなかった。
夕日に映える伏見稲荷
古都の夏の夕暮れは、浴衣を着た人を多く見かけます。これも、情緒があって良いですね。
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